ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

情報離れ

2005年01月14日 | 通信-社会・生活

 昨年12月末をもって、半年間取り続けていた新聞を止めた。その前の2年ばかりも新聞は取っていなかった。新聞が部屋に溜まることが嫌だったのと、折り込みのスーパーのチラシを見て、その日食うものが何となく決まってしまうのが嫌だったからだ。
 「今日俺が食いたいものは、俺の胃袋が決める。」ということにしたかったのだ。スーパーのチラシを見ると、これが安い、あれが安い、それじゃあ、今日の料理はこれにしようなどと頭の、それも計算する方(左脳だったか)が決めてしまうのだ。これは、体の欲するものが本当は何であるかを感じなくさせてしまう。情報過多(または依存)の弊害だ。
 先週土曜日、新年会があって、その前に本屋さんへ寄った。本屋に本は置いていなかった。店内は見渡す限りビデオ、本屋はいつのまにかレンタルビデオ屋さんに変っていたのだった。あとで確かめると、もう2年も前にそうなったらしい。時代の流れなんだろうか。活字離れということなんだろうか。と言う私も本を買うことはほとんど無いが。
 しかし、私の場合は(新聞読まない、本読まないことの言い訳みたいになるけれど)活字離れというのではなく、情報離れということ。私の周りには私が消化できないほどに情報が溢れている。そういったものが煩いと、もうだいぶ前から私は感じているのだ。
 私が自分の家にインターネットを引かないのもそういった理由による。ネットなんて週一で良かろう。週一回、欲しい情報を得れば、その情報を脳味噌と感性が理解するには残りの6日という時間は必要だろう。一週間のうちには、テレビからの情報や、(少ないけれども)読書からの情報もあり、人と話している時、仕事している時の情報もある。歩いて目に入るものなどの情報も多い。それら諸々の情報を頭と心で処理しなければならないのだ。それだけで、もう一杯一杯。情報の大部分を理解できぬまま一週間が過ぎる。
 新パソコンは、ハードディスクの容量が160ギガもある。旧パソコンには1999年からの日記(のようなもの)が入っているが、1年分で約8メガ、旅に出た時などの写真が1年分で約20メガ。その他雑多なものを含めて私のデータは1年で40メガほどしかない。この先50年生きたとしても2ギガで済む。160ギガっていったい何に使うんだい!・・・なんて思っていたら、パソコンに詳しい友人曰く。「映像を管理、加工、処理したりなんかすると160ギガでも足りなくなるかもよ」とのこと。
 なるほど、動く映像とは、文書や写真とは比較にならないほどの大きな情報量を持っているようである。だから、そう、毎日生活しているだけでも、私の目から入ってくる映像は、それだけで相当量の情報があり、それらを処理するだけで脳は大変な作業をしていることになる。だから、そう、私にはこれ以上の情報はあまり要らないのだ。私がテレビや新聞を煩く感じるのは、既にたくさんの情報処理に脳が使われていて、今にもフリーズしそうになっているからに違いないのだ。情報離れは脳が欲していることなのだ。
 現代の、それも都会は、家にも外にもたくさんの情報が溢れている。その中で生活している現代人はきっと、脳と心も働き過ぎとなっている。それらの情報をうまく処理できない人はそのうちフリーズする。フリーズした人たちが一遍に爆発して、めちゃくちゃなことをし、世界が大騒ぎになる。なんてことが起こらないだろうか。心配だ。

 記:2005.1.14 ガジ丸