礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

三鷹の借家の前に阿南惟幾大将の邸宅があった

2017-01-26 02:42:45 | コラムと名言

◎三鷹の借家の前に阿南惟幾大将の邸宅があった

 昨日の続きである。上原文雄著『ある憲兵の一生』(三崎書房、一九七二)から、「憲兵学校から少尉任官まで」の節を紹介している。本日、紹介するのは、その後半。

 私が、仕事の関係でしばしば訪問し親しくなった人達の中に、ロシア語通訳者で転向組の、黒田、田村などの人達がある。
 ことに、田村君には松原の住居を訪問して、冗談話しに勝手な理論を述べて驚ろかせたものである。
「日本の軍部はいま、満州から北、中支へ進駐して、八紘一宇〈ハッコウイチウ〉とか大東亜共栄圏ということを振りかざしているが、反共路線でこれを推進させても、アジアの民衆はついてこない。アジアの殖民地解放を目標にすれば、英米その他の資本主義、帝国主義に対抗しなければならない。日本はコミンテルンと手を結ぶわけに行かないとすれば、日本的共産主義を打ち立てて、転向者や活動家を、満州や北中支に送り込む必要がある」
 こんなことは、転向者である田村君には言える言葉であるが、他の者には語れぬことであった。
 軍部と外務省との間がしっくりせぬことがあって、外務省の天羽〈アモウ〉〔英二〕局長をいためつけるためだったと思われるが、当時特高課長の大谷〔敬二郎〕少佐の命令で、同盟通信の福岡誠一氏(現在リーダーズダイジュスト編集局長)を、東京憲兵隊に留置して取調べたことがある。
 事件の内容も知らされず、ただ福岡氏の上海在勤中の行動を調べるということで、雲をつかむような取調べである。
 地下室の映写室で、聴取書をとって課長に提出するが、取調べの要点も指示されず、
「急がずに、ゆっくりやれ」
 ということである。福岡氏も事の顛末を承知しているらしく、お茶を飲んだり、たまには、戦地から送られて来る映画の検閲を見物したりで三日程して釈放になり、私が自宅まで送つて行った。
 私は、昭和十四年〔一九三九〕八月に憲兵科少尉候補者の試験を受験した。
 この試験は、三日間にわたって行なわれ、憲法、行政法、刑法、刑訴法、陸海軍刑法と軍法会議法、民法と法律問題の試験で、実に高文試験〔高等文官試験〕に匹敵するものであった。
 私はこの受験準備のため、先輩河合〔謙昌〕主任のノートを借用し、勤務の余暇は図書館に通ったり、詰所では深夜電灯に覆〈オオイ〉をかぶせて、近隣に気をくばって勉強し、やっとこの試験に合格した。
 昭和十四年〔一九三九〕十二月一日陸軍憲兵学校に入校し、翌年九月二十日に繰上げ卒業して、少尉に任官した。
 それより前十一月五日に長男靖弘が、九段下の詰所で出産した。
 中屋さん(少尉、比島戦犯で処刑)の奥さんが、深川で産婆を経営していて、詰所に通ってやくれ、詰所を産室として産ませてくれたのであった。
 妻の実母が郷里から上京して来てくれて、家事を手伝ってくれ、産婆さんと助手さんとが泊りこみで看てくれて安産した。
 早稲田からは叔母(妻の母の義姉で、実業堂夫人)と和子(現在巨人軍コーチ荒川博夫人)も来ていて、それ等の見守る中で長男靖弘が出生した。
 靖弘という名は、妻の父母が信仰していた、四国の子安弘法〔香園寺〕で選んでくれたものである。人の出生にはいろいろの環境があるが、厩舎で産れた大聖人もあり、絹布絹綿の中で産れた大泥坊もある。この児が将来どんな人間に育つか、未知のところに人生の期待が生ずるのであって、乳離れて独立するまでは、親として順調に成育させたいものと、親心というものにはじめてひたることになったわけである。
 私は憲兵学校に入校するようになると詰所を出なければならないので、毎日なるベく中野に近いところを歩き廻って、貸家探しを始めた。
 以前は、町角にいつも一、二軒の「貸家」札が貼られていたものであったが、軍需工業の拡大とともに、東京に集まる人も増加して貸家札など、なかなか見当らなかった。やむなく、三鷹の連雀町〈レンジャクチョウ〉に、日本電機の工員めあてに、新しく建てられた貸家の群を見つけて、中野の家主宅を訪れ、家質十五円で借りることになった。まだ壁も乾いておらず、建具も既製品で寒い家であったが、生後一ヵ月の幼児を抱えて移転には幼児の健康のことも考えて若労した。
 私は毎日井之頭〈イノカシラ〉公園を横切って、国電吉祥寺駅に出て中野まで電車で通学した。
 三鷹の借家の前に、阿南〈アナミ〉〔惟幾〕大将の邸宅があり、その裏隣りが竹下正彦邸で、阿南さんの夫人の生家であったりした。
 竹下さんの老夫人は、妻ともよくお話しをしてくださって、屋敷続きの畑でなず菜の摘草などをしてそれを別けて下さつた。
 阿南大将は終戦時の陸軍大臣として、最後の御前会議から退出した後、陸軍省内で自决されている。
 私は、昭和十五年〔一九四〇〕九月二十日に繰上卒業し、少尉に任官して大阪に赴任したのであったが、阿南、竹下両家から御祝いを戴き、出発の朝御挨拶に伺ったが、阿南閣下には会えず、夫人〔綾子〕と挨拶した。
 大阪へ赴任の途次、久しぶりに信州の郷里〔下伊那郡伍和村〕に立寄り、墓参をして、飯田からバスで、始めて大平峠を越えて、三留野〈ミドノ〉駅に出たが、広瀬のあたりに、電話中継所が建てられていて、十年前に徒歩で清内路〈セイナイジ〉から大山越えをして通った頃とは風景も異ったものがあり、戦争のため木曽の御料林からは沢山の供出用材が伐り出されていた。
 その時、弟の信次が名古屋の逓信講習所に入所していて、休暇で帰省しており、同道して名古屋で別れたが、彼はその後軍属を志願して、北支に出征中天津で病死してしまって、そのときの別れが最後となった。

 文中、「竹下正彦」とあるのは、終戦時の、いわゆる「宮城事件」にかかわった竹下正彦のことである(終戦時は、陸軍省軍務局軍務課内政班長)。竹下正彦は、陸軍中将・竹下平作の二男である。竹下平作の二女・綾子は、阿南惟幾〈アナミ・コレチカ〉に嫁いでおり、竹下正彦は、阿南惟幾の義弟にあたる。「竹下さんの老夫人」とあるのは、竹下平作の夫人のことであろう。
 早稲田の「実業堂」とは、早稲田実業の購買部のことである。ここに、「妻の母の義姉」がいたという。上原文雄の夫人・登志美は、上原と同郷の出身というが、姓は不明。「和子」とある女性は、のちに、ジャイアンツの荒川博コーチの夫人となったという。実業堂の関係者らしいが、姓は記されていない。ちなみに、荒川博コーチの教えを受けた王貞治氏は、早稲田実業の出身である。
 上原文雄の長男は、「靖弘」と命名されたとあるが、元さくら銀行副頭取の上原靖弘氏が、そのご長男ではないかと思う。

*このブログの人気記事 2017・1・26

 

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ヒットラーの人物は赤尾某よりも劣る(田中都吉)

2017-01-25 05:47:43 | コラムと名言

◎ヒットラーの人物は赤尾某よりも劣る(田中都吉)

 今月七日を最後に、上原文雄著『ある憲兵の一生』(三崎書房、一九七二)の紹介から離れていたが、ここで再び、この本を紹介してきたい。
 本日、紹介するのは、「第二章 青雲の記」の「憲兵学校から少尉任官まで」の節で、これは、今月五日から七日にかけて紹介した「痛恨近衛密使逮捕の顛末」の節に続く説である。

 憲兵学校から少尉任官まで

 私は、昭和十三年〔一九三八〕六月一日から十一月まで、陸軍憲兵学校に丙種学生として入校、共立女子専門学校内の借教室に通学し、外事警察専攻の課程を修業した。
 卒業にあたり、優等生として陸軍大臣賞の銀時計を授与され、木村陸軍次官の前で『満州における憲兵の諜報活動』と題して講演した。
 卒業後も再び対ソ関係を担任し、ソ連公館関係内外人の偵諜にあたった。この間通商代表部関係内外人を取調べたこともあったが、通商代表部は北鉄〔北満鉄路=東清鉄道〕代償物資の注文で、造船所や工場に検収技術者を派遣し、日本の生産設備や能力は、とっくにお調べずみとのことであって、諜報活動の確証も得られず釈放してしまった。
 したがって、あまり良い成績をあげることなく過ぎてしまったが、二、三のエピソードを拾ってみると。
 語学数師としてソ連大使館に出入していた佐藤氏の夫人は、旧帝政ロシアの将軍の娘で美人であった。佐藤君との間に産れた国坊は混血のため、麻布小学校で生徒にいじめられて、時々学校から逃げ帰ることがあるというので、私は夫人の依頼をうけて担任を訪問して、差別をせぬようにしてくれと文句を言いに行ったことがある。
 そんなことで、夫人からは大変信用をうけていた。ところが夫人は、夏は家の中では全裸で暮すことになっていて、警視庁や他の人が行くと、服を着用して面接するのに、私にだけは全裸のままで面接するという特別待遇で、紅茶を入れ、手製のパンやジャムも出してくれる。
 白くて大きな美人の全裸サービスというわけである。
 白い馬の尻ほどの大ヒップを振り振り、茶色の毛のあたりまで拝観できるのである。
 同僚が是非一緒に連れていけというので連れて行くと、扉の中で、
「独りか?」
 と聞く、嘘を言うわけにもいかないので、
「親友と二人だ」
 と答えると、
「ちょっと待って」
 と着物を付けてから応待されてしまう。
 こんな冥利につきた余得もあった。
 昭和十三年、日独防共協定〔ママ〕が締ばれる前後のことであった。
 河合〔謙昌〕主任が、元駐ソ大使田中都吉〈トキチ〉氏を訪問するというので、同行したことがある。
 大使は自邸にわれわれを招じ入れて、
「憲兵諸君が上司に報告をせぬと約束してくれれば話すが」
 と前提して、
「実は、昨夜自分は大宮御所〈オオミヤゴショ〉に参内して、皇太后陛下〔貞明皇后〕に拝謁し、日独防共協定〔ママ〕を阻止するため、陛下に進言してほしいと、お願いを言上して来た。
 これが五相会議で決まろうとしているが、自分が見て来たところでは、ヒットラーという人物は、日本の赤尾某よりも劣る人物である。そんな連中と手を結んでは、日本の国運が危い、自分は生命を屠〔ママ〕しても反対しなければならない」
 ということであった。
 後でこの問題は、日独伊三国同盟にまで発展したのであった。【以下、次回】

 文中、「これが五相会議で決まろうとしている」(下線)とあるが、これは、一九三九年(昭和一四)一月二三日の五相会議(内閣総理大臣・陸軍大臣・海軍大臣・大蔵大臣・外務大臣による会議)が、三国同盟案について、「日独伊の相互武力援助はソ連のみを対象とし、第三国は状況によって対象にする」と決定したことなどを示しているのか。なお、日独伊三国同盟の締結は、一九四〇年(昭和一五)九月二七日である。

*このブログの人気記事 2017・1・25(3・6・8・10位に珍しいものが)

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理解されぬまま小人に支持された吉本隆明

2017-01-24 03:01:31 | コラムと名言

◎理解されぬまま小人に支持された吉本隆明

 昨日の続きである。昨日は、片岡啓治の評論集『幻想における生』(イザラ書房、一九七〇)から、「6 『共同幻想論』批判」の冒頭部分を紹介した。ここは、いわば、この評論の「前振り」部分であって、まだ、『共同幻想論』の批判には踏み込んでいない。しかし、それ自体が、ひとつの「吉本隆明論」になっている。
 おそらく、片岡が言いたかったのは、「一〇年ぐらいは先に行っているはずだ」と自負するような思想家は、そう自負した途端に、「亡びに足をふみいれた者」になっているということだろう。
 そもそも、吉本隆明自身が、丸山眞男、花田清輝といった論壇のチャンピオンに「からむ」形で、注目されるようになった巷間の思想家であった。その吉本にしても、「大家」になった途端に、「からまれる」立場になることは必然とも言えるだろう。
 ところが、幸か不幸か、吉本隆明に対しては、彼を偉大な思想家として褒めそやすような論客ばかりがあらわれた。これをアカデミズムの立場から切って捨てる碩学も登場しなかった。その拳を石で叩きつぶすようなチンピラ論客もがあらわれなかった。
 吉本隆明にとっては、むしろ、このことが、「亡び」への道だったのではないだろうか。「大家」となった吉本は、その晩年、「反核異論」を唱えた。吉本としては、反原発という「ポピュリズム」の側からの「反発」を予期したのであろうが、原発推進という「ポピュリズム」の側を鼓舞し、そこからの「支持」を集めただけに終わった。
 吉本隆明の悲譚は、「英雄は理解されぬまま小人に亡ぼされる」という悲譚ではない。「英雄は理解されぬまま小人に支持される」という、それ以上の悲譚であった。

*このブログの人気記事 2017・1・24(6・7位に珍しいものが入っています)

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英雄は理解されぬまま小人に亡ぼされる

2017-01-23 03:31:00 | コラムと名言

◎英雄は理解されぬまま小人に亡ぼされる

 今年になって読んだ本で、今のところ、いちばん印象に残っているのは、片岡啓治『幻想における生』(イザラ書房、一九七〇)という評論集である。
 この年になると、本でも映画でも、新しいものを読もうとすると、それなりの決意がいる。しかし、若い時に読んだ本を読み直したり、若い時に観た映画を見直したりすることは、懐かしいことであり、また楽しいことでもある。
 しかも、若い時には読み取れなかった箇所に、改めて感心したり、若い時には見落としていた「見どころ」や「伏線」を発見したりということがあって、これらもまた有意義なことである。
 さて、片岡啓治の『幻想における生』は、一九七〇年代に新刊書店で買い求めて、一読した記憶がある。しかし、新ためて手にしてみると、ほとんど内容が思い出せなかった。ただし、「6 『共同幻想論』批判」と「あとがき」だけは、「いちど読んだ」記憶があった。
 本日は、「6 『共同幻想論』批判」の冒頭部分を紹介してみたい。

 6 「共同幻想論」批判

「共同幻想論」の序に、吉本隆明氏のこんな言葉がある。それは前著、「言語にとって美とはなにか」をめぐって、ある雑誌の編集者との対談から引用された言葉であるが、「僕の見た限りでは、おそらく全部は見ていないでしょうけれども、そういう感じの批判(前掲書「言語」にたいする・片岡)というものは一つもなかったと思うんです。まだほんとに読まれていないという感じが一番強いですね。ほんとに読まれていないからまだ生命はあるはずだといいますか、前書きにも、一〇年ぐらいは先に行っているはずだと書きましたけれども、それは訂正する必要はますますないというような感じがするんですよ」
 この言葉はある正当さのひびきをもちながらも、私に、三島由紀夫の長編「鏡子の家」の終りちかくにあらわれる一節を思いおこさせる。
 小ジムからうってでたボクサーの深井峻吉が、チャンピオン・ベルトを獲得した夜のことである。祝宴をおえてパトロンやとり巻きたちと別れた彼は、「承認された力の携行者であり、選手権という光り輝やくものの運搬者」と自らを感じながら、一人夜の町を歩いてゆく。そして、とある酒場にはいる。そこで、ひとりゆっくりとチャンピオン・ベルトを眺めようとするのだが、バーの女からそれをみせろとせがまれて、「職業的羞恥、専門的意地悪とでもいうべきもの」のためにそれをことわる。そして、そのためにチンピラにからまれ、拳を石で叩きつぶされてしまう。
【一行アキ】
 英雄が理解されぬまま小人〈ショウジン〉に亡ぼされるという悲譚は、古今をとわずつねに存在しつづけてきた。ただそれはつねに、英雄の悲譚としてのみ存在して、小人の物語として存在したことはなかった。このエピソードもまたそうした文脈のなかで語られ、非は小人たるチンピラの側にあって、理は小英雄峻吉の側にあるという眼差しのもとで語られている。私は、べつにその小人、チンピラの側に組して、そちらにも三分の理がある、といったことを語ろうなどというのでは全くない。
 ただ事実的にいうならば、英雄はただ小人との相対的な相関のなかでのみありえ、理解された英雄はもはや英雄ではなく、亡びをしらぬ英雄は英雄ではありえず、英雄はただ小人の無理解にかこまれ小人に亡ぼされることによってのみ、本来の英雄性を獲得しうる。さらに、英雄のそうした悲運は、決して無根拠の天災のようにしておとずれるのではなく、つねにその人物自身の行為に由来し、関係のなかで悲運として形作られてゆく。その行為のあらわれは、たとえば「職業的羞恥」でも、あるいは自負でも、いかようにもありうる。ただ、およそ人の運命はその人間自身に何らの由来ももたず無関係におとずれることは決してありえず、その人間の存在と行為そのものがつねに発源となった関係のなかで形作られてゆくものであり、従ってそうした意味でおよそ運命とは己れ自身が招くものである、ということは確実にいいうる。とともに、あらゆる者が己れの生についてそれなりの内的論理をすべてもちうるのでありそれはつねに己れの存在の正当性の根拠となる。それは他者の評価、社会的評価などとは全くかかわりなく、人がおよそ生きて有るかぎりは一人一人がその生活史を負っていることの必然の結果として、己がじしの内的論理が人にもたらされ、それは彼にたいして彼の存在の正当性を鼓舞する。英雄が己れの存在の正当性について確信をいだくなら、小人もまた、それが人間として人類としてこの世に生みおとされていかぎりで、己れの存在の正当性について確信をいだくこともまた不可避であり、その次元において、英雄と小人の正当性は等価である。小人のその確信が自己満足であるというなら、英雄のそれもまた自己満足であり、後者のそれが正当であるなら、前者のそれもまた正当であるほかはない。
 かくて、時に英雄にとって理であるものが小人にとって非としてあらわれ、英雄の滅亡を非とする英雄譚の通念に反して、彼を亡ぼした小人にとってその行為は当然のことながら理であらねばならない。それは要するに、人間の関係がそうした相互否定性においてなりたっているという事実をあらわしているだけのことであって、人間の形作ってきた世界の構造が現にそうであるかぎりにおいて、己れの生活史を楯とする正当性の主張は、他者がそれなりの生活史を負ってする正当性の主張にたいして、その他者の生活を包摂しうるのでないかぎりは一方的に正当であることはできず、そうした関係のなかで彼がいかに己れの正当性を主張し保証してみたところでそれは主観的な定言以上にでることはできず、もしそれが思想の形でいわれるなら、その思想のなかに全人間の全生活史が包摂されうるだけの抽象度がそなえられていないかぎりで、その思想は普遍の名をうることはできず、部分的な従って主観性の独断以上にでることはできず、従って他の主観性にたいして一つの主観性として、一つの見解にたいする他の解釈としてあらわれることしかできない。にもかかわらず、なお普遍性を求めるとしたら、それは主観性の自由であるが、要は自己満足にすぎず、他のあまたある正当な自己満足と同じだけの正当性がゆるされるというだけのことでしかない。
 束の間のあとにせまる悲運もしらず、「承認された力の携行者であり、選手権という光り輝やくものの運搬者」と感じて、「うっとりこれ(チャンピオン・ベルト)を眺める」峻吉の姿に、かって「…金平ジムのような小ジムで黙々とハード・トレーニングにいそしんできたもの」と自らを規定し、いま「共同幻想論」の序で、「一〇年ぐらいは先にいっているはず」と重ねて語る吉本氏の姿がオーバーラップしてせりあがってくるのを、私はとどめることができない。すでにして亡びに足をふみいれた者の歩みに立ちあっているといえばよいのだろうか。

 これを紹介したのは、「吉本隆明論」としてユニークであるのみならず、「真理」や「正義」をめぐる議論、あるいは「ポピュリズム」をめぐる議論としても、興味深いものがあると思ったからである。【この話、続く】

*このブログの人気記事 2017・1・23

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橇の音読みは「キョウ」か、それとも「ゼイ」か

2017-01-22 04:30:14 | コラムと名言

◎橇の音読みは「キョウ」か、それとも「ゼイ」か

 昨日の続きである。このブログを始めたころ、「橇の訓読みは『そり』、ではその音読みは?」というコラムを書いた(2012・6・27)。
 本日は、そのとき紹介した漢字が、後藤光憲編纂『活版鮮明 広益新撰玉編』(鐘美堂、)に載っているかどうかを確認してみたい。
 ○印の行では、岩垂憲徳著『漢字声音談』(清水書院、一九四三)に出てくる漢字、音読み(〈 〉は現代語表記〉、その漢字を含む熟語を紹介した。算用数字は、『漢字声音談』のページ数。その次の行は、『広益新撰玉編』におけるその漢字の説明。音読み、【韻】、「意味」の順に示した。【韻】は、プレビューで漢字が表記されない場合があったが(●印)、「ヘンが豊の旧字、ツクリが去の下に皿」という字である。

○廾            ジフ〈ジュウ〉250  『角川漢和中辞典』では〈ニュウ〉  
ジフ・ニフ 【緝】「ハタチ」 
○奴の下に巾       タウ〈トウ〉(〈ヌ〉でない) 「内□」〈ナイトウ〉251
ド・ヌ 【虞】「ヤツコ・クラ」 
○卅            サフ〈ソウ〉251   『角川漢和中辞典』でも〈ソウ〉 
サウ・サフ 【合】「ミソジ・三十ナリ」 
○齊の下に皿       シ(〈サイ〉でない) 「玉□」〈ギョクシ〉252
シ・シ 【支】「モル」 
○山の下に疑       ギョク(〈ギ〉でない) 「岐□」〈キギョク〉255
この字は『新撰玉編』になし
○門ガマエに癸      ケツ(〈キ〉でない) 「服□」〈フクケツ〉258
ケツ・ケチ 【屑】「ヤム・ヲハル・ヲハリ・トヅル」 
○若の下に虫が横並びに二つ  カク(〈ジャク〉でない) 「毒□」〈ドクカク〉259
カク・カク 【薬】「サス・イタム」 
○ケモノヘンに爾     セン(〈ヤ〉でない)  「秋□」〈シュウセン〉258
セン・セン 【銑】「コロス・アキノカリ」  
○ウカンムリに九     キ(〈キュウ〉でない)  「姦□」〈カンク〉259
キ・キ 【紙】「カタマシ・ウチヌスビト」 
○「勢」の力の部分が土  テン(〈シツ〉でない)  「昏□」〈コンテン〉259
テン・テン 【●】「クダル・オボル・江名」 *『新撰玉編』の字体は、「執の下に土」
○テヘンに取       ソウ(〈シュ〉でない) 「郊□」〈コウソウ〉260
この字は『新撰玉編』になし
○クサカンムリに禹    ク(〈ウ〉でない)   「規□」〈キク〉268
ウ・ウ 【麌】「クサノナ・ミヅナキ」 
○クチヘンに胃       キ(〈イ〉でない)    「□然」〈キゼン〉268
キ・キ 【寘】「ナゲク・タメイキ」 
○萬の下に虫       タイ(〈マン〉でない) 「蜂□」〈ホウタイ〉268
タイ・タイ 【卦】「サソリ」 
○ヘンが武、ツクリが虎   ホウ  「□虐」〈ホウギョウ〉269 虐の読み注意
ハウ・ボウ 【號】「アラシ・スミヤカ・タケシ・オカス」 
○木ヘンに施        イ(〈シ〉ではない) 「□架」〈イカ〉269 
イ・イ 【攴】「オシマヅキ・コロモサヲ」 
○ヘンが高、ツクリが欠 キヤウ〈キョウ〉(〈コウ〉ではない)「□雲」〈キョウウン〉271
ケウ・ケウ 【蕭】「アツシ・イキフク」 
○潟           セキ(〈シャ〉ではない) 「潟鹵」〈セキロ〉273
セキ・シヤク 【陌】「カタ」            
○ヘンが鼻、ツクリがリットウ  ギ(〈ビ〉ではない)   「□刑」〈ギケイ〉274
ギ・キ 【寘】「ハナキル」 
○蔵の臣の部分が貝    テン           「□事」〈テンジ〉274
この字は『新撰玉編』に見当たらない
○橇        ケウ〈キョウ〉274  『角川漢和中辞典』では〈ゼイ・セイ〉
ケウ・ケウ 【蕭】「ソリ」 

*このブログの人気記事 2017・1・22(8・10位にやや珍しいものが)

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