礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

関東大震災と「日本型ファシズム」

2017-01-16 02:55:33 | コラムと名言

◎関東大震災と「日本型ファシズム」

 日本法社会学会編『法社会学』の第二八号「現代社会と法」(有斐閣、一九七五年一〇月)から、風早八十二の講演記録「戦前の日本型ファシズムと法学及び法学者」を紹介している。本日は、その五回目(最後)。
 昨日、紹介した箇所のあと、改行して次のように続いている(一二八~一三〇ページ)。

 ここで、ちょっと一九二三年〔大正一二〕九月一日の「関東大震災」に言及しないわけにはいきません。この日、法学部研究室に出勤していた助手は、横田喜三郎君と私と二人切りで、二人は例の「大部屋」で、三十五銭のランチを前に、向いあってナイフとフォークを握った、まさにその瞬間に、雷のような地ひびきとともに、第一震に見舞われたのです。なお、当時の記憶は、五十二年後の今日でも鮮かで、その詳しい体験談は、汐文社近刊『大震災に燃える街』所収の拙稿にゆずります。
 化学関係の実験室から出たと伝えられる火が、折からの強風にあおられて飛火し、翌日来て見ると、正面の八角講堂(のちに安田講堂)の大屋根が無残に崩れ落ちているのをはじめ、構内の居ならぶほとんどの建物も類焼。水道は断絶、山上御殿下の三四郎池も干からびた中で、法学部研究室といちょう並木をへだてて向側の建物に保管されていた。ドイツから届いたばかりの「コーラー文庫」一万巻の書物が、一週間以上も燃え放題に燃えつづけ、荷ほどきの箱ごと蒸し焼きになるという惨たんたる情景でした。やがて、小野清一郎助教授を委員長に、研究室の焼け残りの書物の製理の仕事がはじまり、私は、毎日毎日乾燥しきった焼けぼこりの中にうずくまっているあいだに、生まれてはじめて、ひどい扁桃腺炎にやられ、大変苦しんだことを思い出します。
 しかし、大学が焼け、本が焼け、一人の学者の卵が咽喉〈ノド〉をやられたというだけのことなら、大震災を語るなどとと、大げさなことはいえなかったでしょう。大震災が歴史に刻みこんだものは、帝都とその周辺を一瞬に破壊し、変形させた巨大な自然の力もさることながら、何よりも、この自然の破壊を契機として膿を吹き出した支配体制の諸矛盾であり、ほかならぬ権力支配勢力の狂気の暴力であったのです。
 すでに廃墟になった象牙の塔から外に出てみましょう。何日目でしたか、電信が回復したというので、私は郷里の親に家族の無事を知らせるために、丸の内の中央郵便局に向かいました。もちろん徒歩ですが、本郷駒込動坂町〈ドウザカチョウ〉の自宅から、大学を経て、水道橋に出、三崎町〈ミサキチョウ〉・一ツ橋から錦町河岸〈ニシキチョウガシ〉をつたって、神田橋―丸の内の道順をとったわけですが、錦町河岸にさしかかったとき、多勢の通行人が覗きこんでいる河〔日本橋川〕の中に、私は、はからずも大変なものを見てしまったのです。水が涸れて泥沼の異臭がただよう河の中央に、大柄の男の死体がうつむけに横たわっており、その背中には太く長い鉄棒がグサッと突き刺さっているではありませんか。「朝鮮人だ」という囁やき〈ササヤキ〉が人々の口から聞えました。都下の新聞は一切とまっていましたが、官憲自身による「朝鮮人襲来」のデマ宣伝は先刻耳にして、危険を直観していた私は、ここにはやくも、このもっとも忌わしい民族的汚辱の生まなましい事実の一端を現認することになったのでした。関東大震災で、地震や火災に因るのでなく、文字どおり虐殺された朝鮮人のうち、遺骸が発見された者だけでも、二万三、〇五九人に連しています。そのうち、文字どおり直接の権力犯罪によるものとして、警察官を下手人とするもの五七七人、軍隊により虐殺されたものはその五倍半の三、一〇〇人、そしてさらに重大なことは、そのまた六倍にも達する一万九、三八二人が、市井の日本国民の手によって虐殺されているという汚辱的事実です(みすず書房刊『現代史資料』(6)関東大震災と朝鮮人。三四五ページ)。
 戒厳令下、軍部を元兇とし、先頭とする卑劣かつ残虐なテロリズムは、さらに、被災者救援のため活動していた共産青年同盟委員長の川合義虎氏その他、労働運動・社会主義運動の指導的活動家平沢計七氏その他(亀戸事件)、そして大杉栄夫妻らにおよんだ(甘柏事件)ことは、戦後の今日では確実なる証拠にもとづいて論証ずみであり、私は、時間の関係で、その一切の状況を省略しますが、ただ要約的に指摘しておきたいことは、これらの現象のうちに、私がレジメのⅡの一および二で総括しておきました日本軍国主義の新たな発展と日本型ファシズム形成への萠芽形態がすでに見出されるという点です。すなわち、第一に第一次大戦後、体制的危機への支配層の危機的対応が、権力が、流言斐語を流し国民の闘争のホコ先を、でっちあげられた「仮想敵」や「仮想国賊」にふりむけるという悪魔的手口に求められていることであり、第二にそこには、国民の中に残存する民族的偏見や思想的迷妄が百パーセント権力支配層の利用するところとなったという背景がありますが、実は、それらの偏見や迷妄も、それ自体、ほかならぬ権力支配層によって扶植されてきたものである、ということです。
 ついでながら、さいきんテレビやジャーナリズムの中で、「大震災が起ったら、あなたはどうするか」というテーマで、防火訓練や避難訓練を国民に求めているが、国民の訓練で何より重大なことは、権力の手による流言斐語のねつ造の危険であり、国民にとってもっとも大切なことは、権力のデマに惑わされぬ警戒心でなければならぬことを知っておく必要があります。
 この時期に、大震災を契機として萠芽形態において見出された支配層の危機的対応の形態は、やがて、一九二九年~三二年〔昭和四~七〕の大恐慌を契機として、公然かつ系統的な対外侵略、国内的には日本型ファシズムの確立に発展しました。
 このような一般情勢の推移は、いわば「象牙の塔」の中の法学者に対して、どのように作用したでしょうか。そしてそれに対し、法学者は、果してどのように対応したでしょうか。この問題は、私が今日のはじめに問題提起しましたように、戦後三十年の情勢推移の中で、迫りくる新しい日本型ファシズム(私のいわゆる「安保型」ファシズム)への対応の仕方をやがて問われる時がくるわが法社会学界にとって、また法社会学会に参加する私たち各々にとって他人事ではあり得ず、そこから有益な教訓をひき出しておくべき問題ではないでしょうか。それは、せまい意味での学問以前の問題であると同時にまた学問そのものの神髄にかかわる問題でもあるからです。【以下略】

 風早八十二の講演記録は、このあとさらに七ページ分も続くが、紹介は、ここまでとする。引用した部分の最後に、「このような一般情勢の推移は、いわば『象牙の塔』の中の法学者に対して、どのように作用したでしょうか。そしてそれに対し、法学者は、果してどのように対応したでしょうか。」とある(下線)。
 風早八十二の講演記録には、「戦前の日本型ファシズムと法学及び法学者」というタイトルがつけられている。このタイトルを見たとき、ここには、「戦中」の総力戦体制のもとで、日本の法学者が、どのように対応したかについて説いているのであろうと期待したが、この期待は裏切られた。そういうことに、まったく触れていなかったのは残念であった。
 明日は、いったん、二・二六事件に話題を振る。

*このブログの人気記事 2017・1・16(8位に珍しいものが入っています)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする