礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

東条英機首相と安倍晋三首相

2016-05-05 02:58:06 | コラムと名言

◎東条英機首相と安倍晋三首相

 一昨日は、憲法記念日であった。この日、「東京市立国民夜学校一覧(1942)」という、およそ憲法記念日らしくないコラムを書いてしまった。
 しかし、戦中の日本においても、「教育を受ける権利」(新憲法26条)を先取りした教育行政がおこなわれていた事実を示し得たので、まったく憲法に関わっていなかったわけでもない(コジツケ)。
 一昨日は、やはり、「再掲」という形であったとしても、憲法記念日にふさわしいコラムを載せるべきであった。
 そのように考えたのは、昨年六月二九日のコラム「東条首相の訓示と安倍首相の憲法解釈」のことを、ふと思い出したからである。
 以下は、その全文である。

《東条首相の訓示と安倍首相の憲法解釈

 昨日〔2015・6・28〕の続きである。戦中の一九四四年(昭和一九)二月二八日、東条英機首相は、「司法官会同」に出席し、司法関係者に対して「訓示」をおこなった。その内容は、「司法官会同ニ於ケル内閣総理大臣訓示」という文書に残されているほか、当時の新聞もこれを報じたという。
 その訓示の中で、東条首相が次のように述べていることに、特に注目したい(原文はカタカナ文だが、ひらがな文に直した)。

 法文の末節に捉はれ、無益有害なる慣習に拘はり〈コダワリ〉、戦争遂行上に重大なる障害を与ふるが如き措置をせらるるに於ては、洵に〈マコトニ〉寒心に堪へない所であります。

 これを要するに、東条首相は、司法関係者に向かって、罪刑法定主義や判例といったものにこだわることなく、戦争遂行上の見地から、望まれるような判決を出すよう要求しているのである。これが、司法に対する干渉でなくて何であろうか。
 しかも、東条首相は、このすぐあとで、もしも司法関係者が、あいかわらず、罪刑法定主義や判例といったものにこだわるのであれば、政府としては、「戦時治安確保上緊急ナル措置」を構ずることも考慮せざるをないという趣旨のことを述べている。これは完全に、司法関係者に対する恫喝である。
 さて、この「訓示」から七〇年以上が経過した今日の状況を見てみよう。本年〔2015〕六月末現在、安倍晋三首相は、「現憲法のままで集団的自衛権の行使は可能」という憲法解釈を維持している。その持論を支えているのは、「国際情勢に目をつぶって従来の解釈に固執するのは、政治家として責任放棄だ」という信念である(毎日新聞「視点」二〇一五・六・二八)。この発想は、戦中の東条首相の、「法文の末節に捉はれ、無益有害なる慣習に拘はり、戦争遂行上に重大なる障害を与ふるが如き措置をせらるるに於ては、洵に寒心に堪へない所であります」という発想に酷似している。
 今日の安倍首相は、行政府の長が憲法解釈をなしうるし、その必要があるというふうに思いこんでいる。立憲主義ということを理解していないのである。戦中の東条首相は、「法文」を軽視しようとしたわけだが、今日の安倍首相は、「憲法」を軽視している。東条首相は、憲法の定める三権分立主義に挑戦し、安倍首相は、立憲主義そのものに挑戦している。
 戦中の東条首相は、「私は司法権尊重の点に於て人後に落つるものでないのであります」と述べていた。また、「訓示」のうち、露骨に司法に干渉しようとしている部分は、新聞発表から削るという判断ができた(干渉した事実は消えないが)。戦中の独裁者にして、三権分立に対しては、なお一定の配慮をおこなっている。一方、今日の安倍首相は、行政府の長が憲法解釈をなしうるし、その必要があるということを、誰はばかることなく公言してきた。
「危機」の時代に登場し、政治家としての「責任」を強調した首相として、この二人は、今後も長く語り継がれてゆくことであろう。》

*このブログの人気記事 2016・5・5(9位にやや珍しいものが入っています)

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