礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

荒木、軍事参議官会議で林を詰問

2017-02-23 01:27:06 | コラムと名言

◎荒木、軍事参議官会議で林を詰問

 岩淵辰雄が、一九三五年(昭和一〇)八月に発表した、「林と真崎」という文章を紹介している。引用は、岩淵辰雄著『現代日本政治論』(東洋経済新報社、一九四一)から。
 本日は、その三回目(最後)。昨日、紹介した箇所のあと、一行あけて、次のように続く。

 三長官会議は〔七月〕十二日と、それから間を隔てゝ十五日と二度開かれた。こゝで会議の内容を詳述するの自由を筆者は有しない。これもこゝで公にして好いか悪るいか知れないが、真崎〔甚三郎〕が或る人に送つた私信の中に
「今回の事〔教育総監更迭〕小生至て〈イタッテ〉不徳の者に候へども自己個人や一、二の人事の為極度に争ふほど浅間しき者には無之候〈コレナクソウロウ〉問題は皇軍統制の根本思想及建軍の本義に触るゝものに有之〈コレアリ〉職責及信念よりして承認し難きものに有之候……」
 とある。つまり軍の統制といふことについては何人にも異論はない。たゞ、如何にこれを統制するか、その方針と方法である。それを真崎、渡辺〔錠太郎〕の新旧教育総監を中心にして開かれた十八日の軍事参議官会議の席上で、荒木〔貞夫〕はかういふ言葉で林〔銑十郎〕を詰問してゐる。
「統制といふが、しからば如何に統制するか、足利尊氏〈アシカガ・タカウジ〉流に統制するか、楠正成〈クスノキ・マサシゲ〉流に統制するか、誰も足利尊氏流に統制するといふものはあるまい。しかし、その行ふ方針およびその方法を見ると、貴様のやり方は楠流でなくて足利流だ。オレは湊川〈ミナトガワ〉で討死しても黙つてゐられない」
 と。それを荒木は三月事件〔一九三一年三月〕、十月事件〔一九三一年一〇月〕、満洲、上海の両事変〔満洲事変は一九三一年九月勃発、第一次上海事変は一九三二年一月~三月〕から、今日までの軍の統制に関するあらゆる事実を証拠とし四時間にわたつて論じた。これはその一節として数へられたことではないけれど、例へば熱河〈ネッカ〉討伐〔一九三二年二月~三月〕の時でも、愈々討伐と決するまでには国務と軍令の一致、連絡に当時の荒木、真崎は非常な苦心をした。関東軍が熱河討伐の余勢を駆つて長城の一線に迫つた時には指呼の間に平津〈ヘイシン〉の地帯を望んで、長駆して長城を越ゆべきか否かが、陸軍の中央および関東軍の重要な問題になつた。関東軍司令官は武藤〔信義〕、軍参謀長は小磯〔国昭〕であつた。小磯は積極論であつた。出先きの軍権は非常な意気込であつた。これを抑へて事態の収拾をしたのが参謀次長の真崎であつた。彼は武藤にあてて
「部下の軍を統制することが出来ない位なら、軍司令官は責任を負うて辞めろ」
 といはないばかりの電報を何度も打つた。形勢が頗る緊迫して来たので、この上は「自分が長城の戦線に出掛けるほかない」として真崎はその用意までした。さうして成立したのが塘沽〈トウコ〉停戦協定〔一九三三年五月〕である。その停戦協定の実行を迫るに当つて、北支の事件について陸軍大臣として、林は如何なる方針と努力を払つたか。
 もう一つの問題は、陸軍大臣の権限に関するものである。陸軍の人事は三長官で決定することになつてゐる。それは大臣は国務大臣として政府および政界の波動を受げる。その波動が軍の人事に及ぶと、陸軍の人事は紊れる〈ミダレル〉。統制の根本が崩れる。そこで一方に大臣の権限を認めると共に、一方に大臣の自由を許さないところの三長官の間に協定事項といふものが、勅裁を経て存在してゐる。普通に陸軍の人事は、大臣が原案を作るのであるが、それには三長官の意思を十分確めることになつてゐる。ところで今度の異動に限つて、林は真崎に一言も相談しなかつた。そして十二日の第一回の会議で、イキなり異動表を示して賛成を求めた。真崎は
「大臣に権限はないといはない。しかし、これが三長官に対する態度か」
 林はそれに対して「オレも責任上辞める決心だ」といつた。その前に真崎はかういふ意見を抱いてゐた。人事は三長官で決定するのであるが、最近の軍の統制については、一二の人事だけでは不充分だ、思想、教育その他いろいろの方面から力を協せて〈アワセテ〉行く必要がある。それについては軍の先輩である軍事参議官にも諮問して、一定の方針と方法を定めて、協力して行かうではないかと。然るに、林の取つた態度は、それもこれもすベてかなぐり捨てゝ、オレも辞める決心だから貴様も辞めろ、と恰も抱合心中〈ダキアイシンジュウ〉の形で挑戦して来た。真崎はそれが心外であつた。
 世間に伝はつたところでは林、真崎の論争は、某中将の進退に関して、真崎がこれを擁護した結果だといふことになつてゐる。某中将とは第二師団長秦真次〈ハタ・シンジ〉である。
 秦は真崎の直系である。真崎が政界に対して右翼フアツシヨと連絡する巨頭の如く想像され、軍の人事に関して非難のあるのには、決して真崎にも責任がないとはいへない。それは真崎が一種の親分肌と情宜に厚い面から来てゐる。その一つの例が秦である。真崎に対する非難の何割かは秦の責任である。
 現在の陸軍において、殊に軍の統制強化のために、秦を現役から退けて待命にすることが好いか悪いか、これは恐らく議論の余地がなさゝうである。しかし、その反面で軍の統制に重きを置いて、その見地から秦を待命にするなら、さら進んで秦以上に処分しなければならぬものがある。現在の政界の不安、そして軍の統制強化の必要がどうして起つたか、それを探究すると五・一五事件を前後にしての、憲兵司令官秦の責任はむしろものの数でない。それよりも五・一五以前における三月事件、十月事件と踵〈キビス〉を接した重要な事件は、殆ど霞を隔てゝ一般には全く謎になつてゐる。この責任者が果して現在どうなつてゐるか。
 林と真崎の論点は、個々の人事には触れなかつたが、軍の統制について、事実を挙げていふ段になると、林の統制には、追究される欠点がある。
 すでに公にされた異動を見ても林の目的が、初めから真崎を教育総監から追ふといふことに集中されてゐたといふ以外に、一般の人事上、どこに統制に資するものがあつたか、第三者も全く諒解が出来ないほど平凡なものである。
【一行アキ】
 かうして真崎は遂に教育総監の地位を去つた。そして林は、外に対しては政界の悩みの種になつてゐた右翼フアツシヨ派の力を削ぎ、内に対しては軍統制の正しき軌道を示したかの如く、二重の喝采と称讃を博した。空名でなければ幸ひである。
 林に有利にして真崎に不利益なことは、五・一五事件を契機とする政界の不安、非常時陸軍の勃興に際して、真崎が荒木とともに、陸軍の最高首脳者として実権を握つてゐたことである。これが一般に対して、観念的に荒木、真崎に脅威、疑惑、不安の印象を植ゑ付けたことである。だが仔細に陸軍の人々を調べて、たとベば六十七議会の問題となった五十万元事件、機関説問題等を見ると、寧ろ真崎は寃罪を蒙つてゐる。真崎に非難と罪を冠せて凉しい顔をしてゐるものが意外なところにある。それについては詳しい内面を書く紙数の余裕がないから省くが、一真崎の進退によつて、政界の不安が一掃されるか、軍の統制が正しくなるか、それは一般の受けた気分でなしに実質問題になると、まだまださう簡単には決められない。
 重ねていふ、林の博した称讃が虚名でないことを。 (一九三五・八)

 一昨日も述べたように、この文章は、二・二六事件より半年あまり前に発表されている。その時点での、陸軍部内での「対立」が、非常にリアルに報告されている。
 この対立は、真崎甚三郎と林銑十郎という二人の将軍の対立に象徴されるが、実にこの両者の対立が、いわゆる「皇道派」、いわゆる「統制派」の対立を生み、さらにこれが二・二六事件というクーデターの背景となったのである。
 いずれにせよ、この岩淵辰雄の文章は、二・二六事件の「背景」について考える際、貴重な史料と言えるであろう。

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