礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

真崎甚三郎、教育総監を更迭される

2017-02-21 08:57:22 | コラムと名言

◎真崎甚三郎、教育総監を更迭される

 今年も、二月二六日が近づいてきた。このブログでは、これまで何度となく、二・二六事件のことを取りあげてきた。同事件については、まだ研究途上であるが、それでも、いろいろな本や資料に当たっているうちに、この事件についての「争点」、あるいは「ツボ」といったものが、何となく見えてきた。
 たとえば、この事件を考える上で、カギになる人物は誰だったのか、などという問題。事件の発端に関して言えば、カギになった人物のひとりが、真崎甚三郎〈マサキ・ジンザブロウ〉(一八七六~一九五六)という将軍であることは、異論のないところであろう。さらに、もうひとり、これもまた将軍である、林銑十郎〈ハヤシ・センジュウロウ〉(一八七六~一九四三)の名前を挙げることもできよう。
 ジャーナリストの岩淵辰雄(一八九二~一九七五)に、「林と真崎」という文章がある。事件の半年あまり前、一九三五年(昭和一〇)八月に発表されたものであるが、初出誌などは未詳。
 本日は、この文章を紹介してみよう。引用は、岩淵辰雄著『現代日本政治論』(東洋経済新報社、一九四一)から。かなり長い文章なので、少しずつ区切りながら紹介してゆく。

 陸軍が〔一九三五年〕八月の定期異動に先き立つて教育総監の更迭を行ひ、真崎〔甚三郎〕が勇退して、渡辺〔錠太郎〕がその後任になつたことは、陸軍における単なる人事といふ以外に、政治的に大きな意味を含むものとして、軍の内外、一般政界にも異常な衝動を与へた。
 教育総監は陸軍大臣、参謀総長とともに、陸軍の三長官として最高首脳である。その中〈ウチ〉大臣の進退は、国務大臣、文官として、時の内閣の進退に伴つて動くことはいふまでもないが、参謀総長と教育総監は、さうした外からの影響を受けない。従つてその進退も多く自発的でない限り、殆ど不動ともいつて好い立場にあつた。五・一五事件の責任を負つて教育総監を辞した武藤〔信義〕元帥、宮殿下〔閑院宮載仁親王〕を奉戴するために、参謀総長を勇退した金谷〔範三〕大将が、近年での稀なる例である。その三長官の一人である教育総監が自発的でなしに辞職して、更迭〈コウテツ〉が行はれたといふことは、恐らく陸軍としても未曽有のことである。
【一行アキ】
 陸軍の人事は、陸軍大臣の手許で原案を作つて、それを三長官の会議に付して同意を求めることになつてゐる。八月の定期異動に関する第一回の三長官会議は七月十二日に開かれた。初めは十一日に開く予定であつたが、途中で予定が変つて、十日に林〔銑十郎〕陸相は真崎教育総監に会見を求めて、単刀直入に「今度の異動については、陸軍大臣として、自分が統制して行きたいと思ふ。ついては君に教育総監を勇退して貰ひ度い」
 と切り出した。事実はとも角として、林のこの言葉は、林が陸軍を統制して行く上に、教育総監として真崎の存在することが、非常な障害になる。真崎あるがために、林の人事も行ひ難いといふ事実を裏書してゐるやうみ見える。
 林のこの提言を、真崎が全然予知しないではなかつた。八月の異動を機会にして、陸軍における右派の系統の総帥と見られる真崎を、三長官の椅子から追ひ退ける、そのことが政界における右翼の政治的勢力を削ぐ〈ソグ〉一つの重要な楔〈クサビ〉であるとする政府および政界の要望があつた。陸軍の部内では、真崎の存在と力のために、時局に志を伸すことの出来ない、他の一派、中には政治的に右翼とは異つた形において政界に連絡を有してゐる派もあり、或は荒木〔貞夫〕、真崎と併称された時代に、早く現役を退かざるを得なかつた在郷将官の中にも、人事上の怨みが積り積つてゐて「真崎が陸軍の人事を私する」といふ非難となつて、それが林擁護といふよりは、まづ真崎を勢力の地位から追ひ落すといふ、真崎排斥の形で内外から火の手が上つてゐた。真崎は、その形勢を手に取る如く知つてゐた。そして林の態度が、だんだん真崎から離れて、さうした要望に耳を傾けるやうになつてゐたことも知つてゐた。
 さうした情勢の中に在つて、真崎に絶大の心服と信頼を払つてゐる部内の人々の間では「とても我慢がならない……」と、その欝憤と真崎の憤起を促がすやうな、これも険悪な憂欝が漂つてゐた。だが真崎は「まあ、熟乎としてゐろ、天は決して無実に人を殺さない」と慰撫して来た。真崎には一つの自信があつた。自分は決して軍人として正を踏んで、決して誤つた行ひをしたことがない。殊に参謀次長として、大将として、いままた教育総監として、何等私したことがない。人が何といはうと俯仰天地に恥ぢるところなしと思つてゐた。しかし彼も人間である。去る三日(七月)の軍事参議官の会合では、彼も唯黙つて、自然に彼の心境の明らかになる機会の来るのを待つてゐられなかつた。彼は憤然として「自分が陸軍の人事を私したといふが、過去二ケ年間の人事に際して、俺がどんな発言をしたか、如何なる私をしたか、こゝに両大臣(荒木、林)が揃つてゐるから、二人に証明して貰はう」と啖呵を切つた。一座一時に鳴りを静めてしまつたといふ場面もあつた。
 それと同時に、真崎と林とは廿年来の親交のあつた間柄だ。彼は林に対して「俺と貴様とは廿年来の親友ではないか、それを貴様は窮地に陥れて、それでも好いのか」といつたこともある。世間は何といつても、林だけはほんとうに真崎の心実を知つてゐるものと思つてゐた。だから教育総監勇退のことは、全然予期しないわけではなかつたが、未だ「マサカ」の自惚れ〈ウヌボレ〉に迷つてゐた。そこへいきなりに勇退を要求されて、真崎も驚いた。精悍な眉宇〈ビウ〉に痙攣のやうな疼き〈ウズキ〉を感じながら、黙つて暫く林の顔を視てゐた
「統制といふが、一体どう統制するのか、その方針を示さないと分らない。全体の人事をどう異動し按配することが、軍の統制に適当であるかといふことも考へなければならぬ。然るに未だ、その異動の原案も見てゐない」
 林は、八月の異動の原案を真崎に示さなかつた。真崎は三長官の一人として、これを知る責任があるといつたのでる。
 会見は将に漲る緊張を示して来た。【以下、次回】

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