礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

坂口安吾、高麗神社の系図を見る(1951)

2017-11-23 04:39:59 | コラムと名言

◎坂口安吾、高麗神社の系図を見る(1951)

 坂口安吾の「高麗神社の祭の笛」という文章を紹介している。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 獅子は舞いながら太鼓をうつ。この太鼓が笛の悲しさに甚しくツリアイがとれている。その響きが一間〈イッケン〉か一間半ぐらいで、急にとぎれて吸われて、なくなるような、厚い布地をかぶせて太鼓をうってるような鈍い音。
 普通の獅子舞いは、獅子と太鼓は別人がやる。獅子は面を頭上にかざして口をパクパクやるために両手を使うから、太鼓をうつことはできないのである。
 この獅子は頭上に獅子をかぶり、顔の前面には長いベールを垂らしている。グッとそッくりかえったり、前かがみになってタテガミをふったりしながら、片足を踏みあげて、太鼓をうつ。獅子は腹部に太鼓をぶらさげ、自分でそれを舞いながら打つ。
 赤青黒の三人の獅子。その足の捌き〈サバキ〉や、身の振り方はやや日本化しているが、それは彼らが自然に日本人に同化するうちに巧まずして多少の影響をうけただけのことで、その本来の骨法〈コッポウ〉はまったく日本の現実に何の拘り〈カカワリ〉もないことが分る。支那風でもあるが、蒙古風と云うべきかも知れないな。
 舞いは二匹のオス獅子が一匹のメス獅子を取りッこするのを現しているのだそうだが、それにふさわしい勇ましさも陽気さもなく、ただ物悲しく単調な笛であり太鼓であった。
「祖神の霊をなぐさめるとでもいうのかなア。ところが陽気なところが全然ないからなア。荒々しく悲しく死んだ切ない運命の神様を泣きながら慰めているのかなア」
 私がこう呟くと、
「まったく、そうとしか考えられない」
 檀〔一雄〕君も腕ぐみをして考えこんでいるような答えを返した。
 私がコマ村のことで第一番に皆さんにお知らせしたいのは、この笛の音なのだが、音を雑誌に出せないのが痛恨事です。ただ、
「もういいかアーい」
「まアだだよーオ」
 という隠れんぼの呼び声に他のいかなる音よりも似ていることは確かです。
 ところが、この獅子舞はメスの獅子をオスの二匹が取りッこするというけれども、実は隠れたメスを探しッこするのである。つまりやっぱり隠れんぼである。
「もういいかアーい」
「まアだだよーオ」
 という隠れんぼの呼び声は今や全国的であるけれども、その発祥は武蔵野で、武蔵野界隈にだけ古くから伝わっていたにすぎないもののようだ。この獅子舞、笛の音と、ツナガリがあるのではないでしょうか。私はひどく考えこんでしまいましたよ。
 まもなく中野君が若い神官をともなってきた。宮司が不在でその息子さんであった。私たちは若い神官にみちびかれて社務所へ招ぜられた。系図を見たのはこの日である。
 若い神官は、非常に正確に物を考え、正確なことだけ語ろうと常に心がけているようだった。それは教養の高さを示し、この奇妙な歴史をもった村で、新しい教養を見るのがフシギなような、しかし好もしいものであった。
 系図や大般若経の写本や昔の獅子面などを見せてもらったあとで、コマ神社の歴史についての薄ッペラな本などを貰いうけ、
「写真屋をつれて、また明日、出直して参ります。だが、あの笛の音は写真にはうつらないからなア」
 と私が思わず呟くと、若い神官もなんとなく浮かない面持で考えこんで、
「この村の誰かが録音機を買ったという話ですが……」
 と、村の誰かの名を云った。この村で、誰が何用に録音機の必要があるのだろう、と、私は思わず事の意外さに笑いがこみあげるところだった。
 まったく夢を見るような一日であった。フシギと云えばお伽噺〈オトギバナシ〉のようにフシギであった。一年にたった一日のお祭りのその前日の稽古に行き合わすとは。
「正月の十五日にお祭りはないのですか」
 ときいてみると、
「正月十五日にはヤブサメのマネゴトのようなものをやるにはやりますが、お祭りは一年に明日だけです。むかしは九月十九日でしたが、養蚕期に当るので、十月十九日にやるようになったのです」
 との答えであった。尚、二月二十三日に祈年祭というのがある。この日附もコマ村ならば当然そうあって然るべき一ツのイワレが思い当るようだが、それは私の思い過しかも知れない。
 社宝の大般若経というのは、ここの子孫の一人が建暦元年〔一二一一〕から承久二年〔一二二〇〕までの十年間に下野足利〈シモツケ・アシカガ〉の鶏足寺で書写したもので、例年春三月に転読するのだという。そもそも移住の時から仏教と非常に深い関係があったこと、そしてそれは本地垂迹〈ホンジスイジャク〉神仏混合以前であることを特に注意すべきであろうと思う。鶏足寺とは妙な名だ。鶏足は鶏頭のアベコベだが、どういうイワレによる寺名であろうか。【以下、次回】

 この日、不在だった「宮司」というのは、高麗明津さん(五十八代宮司)のことで、その息子さんの「若い神官」というのは、高麗澄雄さん(当時、禰宜)のことであろう。
 また、「コマ神社の歴史についての薄ッペラな本」というのは、たぶん、高麗明津編『高麗郷由来』(高麗神社社務所)のことであろう。

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1 コメント

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Unknown ( 伴蔵)
2017-11-30 23:04:15
 鶏足寺の由来は、かつて俵藤太が平将門討伐を命
じられ、将門調伏祈願を行った寺です。そこである日将門の偶像の首が取れたのでその額を見てみると鶏の足跡があったために名付けられた寺です。
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