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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

坂口安吾、高麗神社を訪ねる(1951)

2017-11-22 01:52:12 | コラムと名言

◎坂口安吾、高麗神社を訪ねる(1951)

 先月から今月にかけて、坂口安吾の「高麗神社の祭の笛」という文章を紹介した。この紹介は、実は、まだ終わっていない。本日は、その続きの部分を紹介してみたい。
 引用は、『定本 坂口安吾全集 第九巻』(冬樹社、一九七〇)より。初出は、『文藝春秋』一九五一年(昭和二六)一二月号というが、未確認。
 前回、最後に紹介した箇所のあと、「*」による区切りがあって、次のように続く。

     *

 白髯〈シラヒゲ〉神社は武蔵野に多く散在しているが、一番有名なのは向島の白髯サマであろう。しかし白髯明神の総本家はコマ神社と云われている。
 私は武蔵の国コマ郡コマ村と、コマ神社の存在については以前から甚しく興味をもっていて、この新日本地理に扱うために、すでに今年〔一九五一年〕の二月コマ村を訪問しようとしたことがあったのである。
 なぜなら、私はこの神社の祭事は必ず正月十五日にあるだろうと信じていたからだ。道祖神系統の祭事はたいがい十五日だが、特に正月十五日が主流のようで、鳥追〈トリオイ〉だのホイタケ棒だのというのが行われるのもこの日取のころが多い。道祖神のようなものは蒙古には今でも同じような信仰があるし、コマ人は支那文化をとりいれて日本に土着するまでに相当に文化的扮装をとげているが、その基本の系統をさかのぼると蒙古までは間違いなく至りうるようである。それから更にチベットや中央アジヤの方向へさかのぼりうるかどうかは見当がつかないけれども、とにかく私は蒙古までつながりうるものと考え、正月十五日に先祖伝来の祭事があるのではないかと考えたのだ。そして、それを旧の正月十五日と考えた。そして今年の旧正月十五日にブラリとコマ村を訪ねてみようと思って予定を立てていたが、そのとき仕事に追われていたので、たった一日の旅行すらも不可能であった。
 しかし、これを天祐神助、祖神の導き、と云うのかも知れんな。旧正月に来なくて幸せでした。妙な偶然があるものだ。
 私はその二、三日石神井〈シャクジイ〉の檀一雄〈ダン・カズオ〉のところに泊っていたが、そこからコマ村まで近いから、でかけてみようじゃないかと一決した。旧の正月十五日を狙った場合とちがって、武蔵野散歩という程度の軽い考えであったが、たまたま文春の中野君がそれをきいて、
「それを新日本地理に……」
 と、泊りこんでのサイソクである。ブラリと散歩するだけでそんな材料が得られるかどうか分らないし、私がコマ村について知ってることはと云えば、古代史の記事と、白髯サマの総本家がコマ神社であることと、コマ村がわりあい後世まで結婚だったこと、行事習慣などに特殊なものがあるらしい、ということ。万事「らしい」程度の興味だけ所有していたにすぎないのである。
「まアいいや。飯能でヒル飯をくって、土地の物知りにきいてみようや」
 そこで檀君と中野君と私の三名、石神井から武蔵野を走ること電車で一時間、飯能についた。駅の広告に、
「天覧山麓、温泉旅館、東雲亭」
 とあったから、
「ヒル飯はあそこだ!」
 と、そこへ乗りこむ。大きな旅館だが、全館寂〈ジャク〉として人の姿がない。けれども、サッと酒肴を持参する。ノロマなところがない。
 山の芋だの、山の野菜、山の鳥や魚の料理で、海のもの、海の魚のサシミだのイセエビなどという旅館料理は現れない。オヤオヤ、大きなスイートポテトを持ってきやがったなア、と思ったら、これがサツマ芋の皮に入れてむした茶碗ムシ(芋ムシですかな)であった。土地の品々の料理ばかりで、皿数は少くないがいずれもポッチリで、酒の看で胃袋の空地をむやみに埋めたがらない酒飲みの心意気までよく飲みこんでいる。
「誰かコマ村を知ってる人はいませんかね」
 とたのむと、
「ハイ。私が知ってます」
 と云って、女中がパンフレットの類い〈タグイ〉を持参して現れた。
「あなたはコマ村のお生れか」
「いいえ、その隣りです」
「向う隣りですか」
「こッち隣りです」
「じゃア、飯能じゃないか」
「ハイ。そうです」
 よく出来ました、というところ。何扉〈ナニトビラ〉だか何教室だか知れんが、このへんは日本津々浦々、実にラジオの悪影響ならんか。コマ村のことは何をきいても全然知らんのである。
「あなたは、コマ村の何を知っているのかね?」
「ハイ。コマ村へ行く道を知っています」
 飯能の女中サンに完璧にからかわれてしまいましたな。
 自動車をよんでもらってコマ村へ出発する。飯能の女中サンに運転を御依頼したわけではなくて、タクシーの運転手もコマ村へ行く道については心得があったようだ。たった十分か十五分ぐらいの平凡な道である。
 出発がおそかったので、コマ神社に到着したのは、タソガレのせまる頃であった。
 社殿の下に人がむれている。笛の音だ。太鼓の音だ。ああ、獅子が舞いみだれているではないか。
 なんという奇妙なことだろう。
「今日はお祭りだろうか?」
 自動車を降りて、私たちは顔を見合せたのである。
 しかし、お祭りにしては人間の数がすくない。むれているのは概ね子供たちで三四十人にすぎない。だが獅子の舞いは真剣だし、笛を吹く人たちもキマジメであった。
「明日がお祭りだそうです。今日のはその練習だそうです。なおよく社務所へ行ってきいてきます」
 と、中野君は姿を消した。
 私は目をみはり、耳をそばだてた。私の心はすでにひきこまれていた。その笛の音に。なんという単調な、そしておよそ獅子の舞にふさわしくない物悲しい笛の音だろう。笛を吹いているのは六名のお爺さんであった。
 吉野の吉水院〈キッスイイン〉に後醍醐天皇御愛用のコマ笛があったが、それは色々と飾りのついた笛で、第一木製ではなかったような気がする。ここのはオソマツな横笛であるが、笛本来の音のせいか、音律のせいか、遠くはるばるとハラワタにしみるような悲しさ切なさである。
 日本の音律に一番これによく似たものが、ただ一ツだけあるようだ。それは子供達の、
「も・う・い・い・かアーい」
「まア・だ・だ・よーオ」
 という隠れんぼの声だ。それを遠く木魂〈コダマ〉にしてきくと、この笛の単調な繰り返しに、かなり似るようである。すぐ耳もとで笛をききながら、タソガレの山中はるかにカナカナをきくような遠さを覚えた。【以下、次回】

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