礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『トラ・トラ・トラ!』撮影にまつわるウラ話

2014-10-11 04:54:27 | コラムと名言

◎『トラ・トラ・トラ!』撮影にまつわるウラ話

 柏木隆法氏の個人通信「隆法窟日乗」は、あいかわらず快調である。それにしても、氏の記憶力と筆力に驚く。それ以上に、その反骨精神・批判精神に敬服せざるをえない。
 本日は、一九七〇年公開の20世紀フォックス映画『トラ・トラ・トラ!』の撮影にまつわるウラ話を紹介させていただこう。引用は、「隆法窟日乗(10月1日)」、通しナンバー174~175より。
 ちなみに、この映画は、基本的にアメリカ映画であるが、監督・脚本には日本人スタッフも参加した。日本側のシークエンスは、一九六八年の一二月から、太秦〈ウズマサ〉の東映京都撮影所で撮影された。その年のうちに、日本側の監督・黒澤明が降板し、大きな話題となった。

【前略】また拙〔柏木隆法氏の一人称〕の父が拙は大学にも行かず、アルバイトに現〈ウツツ〉を抜かしている噂を聞いて拙宅にやってきた。その時も撮影所を見てみたいというので、見学として連れて行ったら『トラ・トラ・トラ』の撮影現場から消えてしまい、進行係の上杉尚騎の勧めで出ることになったという。しばらくすると海軍の将校の服装で現れた。驚いたのは拙で「映画に出るのか」というと「どうもそうみたい」というが、嫌な顔はしていない。結局、山本五十六〈ヤマモト・イソロク〉(山村聰〈ヤマムラ・ソウ〉)と並んでご満悦だった。以後、拙が映画に関係していることに文句はいわなくなった。これは拙が映画界から離れて大分たったころ、愛知教育大学の女学生が「私、どうしても一度映画に出てみたい。できればお姫様に変身したい」と何度も頼んでくるので松竹の松本常保に連絡をとると丁度『必殺』を撮っているからこれでもよければといってくれた。早速予定の撮影日に三人を行かせると、あるにはあったが何と女乞食。お姫様にはほど遠い。ぽろぽろの衣装に顔もわからないほど汚され、真田広之に馬で蹴散らかされる貧民窟の撮影でほとほと懲りて帰ってきた。役に女子が気に入る要らないは運だから文句は言えないが、女子はいつの時代でも美意識が強い。写真でも撮ってみせびらかす淡い期待は外れた。そういえば拙の父も『トラ・トラ』で山村聰と一緒に撮った写真を大切にして何枚か複写して戦友会に持って行き、旧友にみせびらかしていた。頑固親父だったが、死後遺品を整理していたらこの写真が出てきた。稚気愛すべきところがあり、少々呆れた。父の最期の望みは原節子に会いたいということだったが、これだけは拙をして叶えられなかった。母などは長谷川一夫を若き日の憧れに古いブロマイドを後生〈ゴショウ〉大切に自分のアルバムに貼っている。拙の両親の世代では銀幕などは手の届かない異次元の世界の話で、それなりに憧れもあったようである。拙なんか毎日のように見ているから懐れもクソもあったものではない。最近はとんと太秦には縁がなくなった。
『トラ・トラ・トラ』の撮影時にこんなことがあった。原作者源田実〈ゲンダ・ミノル〉でも一言も要望を聞いてもらえず、20世紀FOXが用意した脚本を忠実に撮影していかねばならず、文句を言おうものなら「契約と違う」といって取り付く島がない。アメリカと日本との文化の逢いを痛感させられた。源田は撮影現場に何度か来て源田役の三橋達也に演技上の要望を伝えていた様子だったが、中盤以降は姿を見せなくなった。大阪朝潮橋では真珠湾攻撃の第一号となった坂井三郎の搭乗シーンを撮ったが、坂井本人がやってきて演技指導をやっていた。坂井を演じたのは和崎俊也〈ワザキ・シュンヤ〉だったが、このシーンだけの出演だった。ところがいざ撮影に入るとアメリカ人監督と日本の監督と意見が違った上、坂井が「これはゼロ戦じゃない。セスナだ」といってカメラの前に立ち塞がってしまった。これには日米両国が困った。御前会議のシーンでは宮内庁から来た職員がクレームをつけ、何とかの宮という旧皇族のアドバイスも全然役に立たず、高額な演技指導料を要求したりしていた。原作とアメリカが持ってきた脚本は全くの別物で、細川家から借りてきた近衛文麿〈コノエ・フミマロ〉邸の室内セットなんかほんの数秒しか使わなかった。最も無駄だったのは福岡芦屋の浜で組み立てられた「長門」の実物大のセットで、これは黒沢明の希望で建てられたものだったが、費用が掛かり過ぎて人件費まで食い込んでしまった。おまけに70mmという慣れない撮影だったためにOne Cut撮るだけで一晩かかり、最後の「蒼龍」が嵐をついて走航するシーンを撮るだけで三日二晩ぶっとおしで行われたために撮影が終わったらそのままセット内で熟睡してしまった。とにかく過酷な撮影だった。誰かスタッフが呟いた「日本は戦争に負けたからな」と。その一言が拙の耳に今も残っている。その日は大学では大衆団交の予定があり、朦朧としたまま司会したことを思いだす。この映画を通して総括すれば、最高の技術、最高の製作費をかけたにも関わらず映画史に残る最後の作品であったと拙は思う。東大出のスタッフも多くやってきたが、英語が全然通じず、クイーン英語とヤンキー英語の違いが身に染みた。意志疎通が全然計れなかった。思えば牧野省三〈マキノ・ショウゾウ〉が苦心惨憺して娯楽映画を撮り、世間を喜ばせてきた歴史を顧みれば、監督とスタッフが意志一致して製作に邁進したものだが、この撮影現場は二国がバラバラで拙らのような下っ端〈シタッパ〉は何を、どこを撮っているのか知らされなかった。これでは黒沢明ならずともアタマがおかしくなってくるのも道理だった。後から作品を見た東宝のスタッフは「日本ならこの10分の1の製作費で撮れるのに」といっていたのが印象的だった。【後略】

*このブログの人気記事 2014・10・11

錦旗(錦の御旗)は、太陽・太陰の一対

ルビつき活字を考案した大阪朝日の松田幾之助

石原莞爾がマーク・ゲインに語った日本の敗因

当時の雑誌が報じた力道山・木村政彦戦の内幕(『真相...

憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか

武田勝蔵の自費出版『宮さん宮さん』(1969)

興文社「小学生全集」全88冊のタイトル

狂言の発声法について(六代目野村万蔵「万蔵芸談」よ...

力道山・木村政彦戦の背景および「秘密協定」

伊藤博文、ベルリンの酒場で、塙次郎暗殺を懺悔

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 錦旗(錦の御旗)は、太陽・... | トップ | 鵜崎巨石氏評『日本人はいつ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事