礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

満州国「親族相続法」の口語化

2017-12-13 00:11:29 | コラムと名言

◎満州国「親族相続法」の口語化

 一昨日、神田の某古書店で、『法令用語の改正』(明治図書出版株式会社、一九五五)という小冊子を入手した。B6判で本文七二ページ、発行時の定価は二一円。古書価は一〇〇円だった。
 奥付には、「著作権所有 文部省」とあるが、冒頭に置かれている「刊行の趣旨」によって、執筆者が千種達夫〈チクサ・タツオ〉であることがわかる。
 執筆者の千種達夫は、戦中、満州国にあって、「親族相続法」の起草にあたったという。同書第四章「法文の口語化運動」の4「法律文」に、このときの体験が書かれているが、これが実に興味深い。さっそく引用してみよう。

 わたくしは昭和13年〔一九三八〕8月,満州の親族相続法の起草を委嘱されて満州へ渡った。当時はまだ,日本の法文を口語文にすることなどは,とうてい望まれなかった。しかし,当時満州で始められた新しい政策が,日本へ輪入されて実行された例は少なくなかった。日本の法文を口語体にするには,まず満州の親族相続法を口語体で制定し,それを日本に輪入することがいちばんの近道であることを考えた。親族相続法の立法委員会でも一部に強い反対もあったが,「法を口語体にすること。」という一頃目が,立法方針の中に加えられた。もし満州国政府において,法文の口語化が認められるならば、親族相続法も口語体にしてもよいということになった。それには親族相続法を民法の一部にしたのでは,一つの法律で文語体と口語体と異なった部分ができ,現在の日本の民法のような不体裁なものになるので,親族相続法は民法から切り離して単行法にすることびした。委員会を開くこと106回で,昭和17年〔一九四二〕2月8日親族相続法の53項目にわ詳細な要綱の決定を見たが,その要項は先例を破って口語体であった。4年半の年月を費して昭和18年〔一九四三〕3月,ようやく親族相続法の草案の起草を終えたが,その法案も口語体であった。これが法案が口語体で書かれた最初のものである。
 この辺までは法文の口語化も順調に進んできたが,いよいよ原案に基いて委員会で審議しようという段になって,司法部内から強い反対の火の手が上がった。今までほんやりと考えていたことがいよいよ現実の問題となり,もし親族相続法を口語体にするとすれば,これからでるほかの法律はどうするのだ。一つの法律だけを口語体にして,ほかの法律を文語体にするような不統一なことはできない。といって,これからの法律を全部口語体にすることになれば,実にたいへんな問題である。ことに刑法系の法律の文章は漢文口調の文章が多いので,なおさらである。
 それに,時たまたたま太平洋戦争が起り,国の復古運動が激しく,およそ国語の平易化とは逆の方向へ進んでいこうともする時であった。
 しかし,小学校の国語教育はすべて口語体をもってなされ,新聞雑誌をはじめとしてすベての文書が口語体になっているのに,すべての国民に知らせなければならない法律文が依然として文語体であることは不当であるし,法律を国民に親しみやすいものにするためにも,一般に用いられている文体によるべきであると,わたくしはそのことを力説した。これに対する反対のおもな理由は次のとおりであった。
(1) 法文の口語化は法の威厳を損ずる。
(2) 口語体に改めても法律はわかりやすくならない。法文のむずかしさは文体よりもむしろその内容や書き方にある。
(3) 口語体の法文の規格がきまっていない。
(4) 勅語や憲法などを口語体にすることはできない。ある法律だけを口語体にすることは,法文の統一を害する。
(5) 一般公文書や訓令などから口語体を始め,それが行われてから法文の口語化を始めるべきである。【以下、次回】

 満州国(満洲帝国)の公用語は、満語と呼ばれた標準中国語と日本語であった。しかし、軍や官公庁においては、日本語が第一公用語だったという(ウィキペディア「満州国」)。であれば、法律案も、まず日本語で起草されたのは当然のことであった。ここで千種達夫は、その持論に基づいて、法律案を「口語体」で起草しようとしたのである。
 満州国には、すでに民法が制定されていた(康徳四年〔一九三七〕六月一七日、勅令第一三〇号)。しかしこれは、第一編「総則」、第二編「物権」、第三編「債権」の三編のみによって構成されており、親族あるいは相続に関する規定を欠いていた。そこで、あらたに「親族相続法」を制定すべく、千種達夫が招かれたのである。
 口語化に反対する理由の(4)に、「憲法」という言葉がある。これは厳密には、「組織法」(康徳元年〔一九三四〕三月一日:改正、同年一一月二九日、および康徳四年六月五日)と呼ぶべきであろう。これについては、本年五月一六日のコラム「満洲帝国帝位ハ康徳皇帝ノ男系子孫タル男子永世之ヲ継承ス」、および五月一七日のコラム「朕茲ニ深ク世局ノ進運ヲ察シ(康徳皇帝)」を参照いただければ幸甚である。
 なお、千種達夫は、本書執筆時(一九五五)、東京地方裁判所判事、国語審議会委員であったが、のちに、東京高等裁判所判事、早稲田大学客員教授、成蹊大学教授などを務めた(一九〇一~一九八一)。

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3 コメント

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Unknown ( 伴蔵)
2017-12-19 01:06:17
 満州国の国歌は、満州語や日本語でもなく北京語(普通話)でした。
Unknown ( 伴蔵)
2017-12-19 01:10:46
 また、満州語話者は今では300人ほどに減ってしま

い、満州語復活運動が吉林省などの旧満州地方でなさ

れているそうです。満州人もほとんど漢族に同化して

いますが、満州人としての帰属意識は強いとのこ

と。また、満州語は文字がないのでモンゴル語で

書いたそうです。モンゴルも今ではロシア文字を

使ってモンゴル語を表記します。

満州国国歌 (礫川)
2017-12-20 08:20:26
満洲国国歌についてのご教示ありがとうございました。少し調べてみましたが、これは実に興味深いテーマだと思いました。

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