礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

青木茂雄氏の映画評『シェーン』(1953)

2015-04-08 11:25:34 | コラムと名言

◎青木茂雄氏の映画評『シェーン』(1953)

 久しぶりに、映画評論家・青木茂雄氏の映画評を紹介したい。長文である。これを称して「青木節」という。

 記憶の中の映画(6)   青木茂雄
映画とはアメリカ映画のことであった 4
「西部劇」について   『シェーン』(1953年)

 1950年代から60年代にかけてはアメリカ映画史上「西部劇」映画の全盛時代であった。私の小学校から中学・高校にかけては、ほぼその時期と重なる。したがって、私が主として家族とともに観た映画の中には「西部劇」も多く含まれている。
 正直、私はこの種の映画の中で無造作に行われる“殺し合い”が納得できず、好きになれなかった。第一、四六時中腰にガンベルトを着用して(酒場の中でも外さない)、要するに常時“武装”して日常生活を送ること、つまり常時戦争状態にあるということである(実際はどのようなものだったか不明)。これは並の神経では耐えられない。戦争は敵味方がはっきりしているからまだ良い。敵に対しては緊張するが、味方には気を許せる。しかし、西部劇では四方が敵であり、いや、誰が次の敵になるかさえもわからない。その意味では戦争状態以上である。当然、緊張のあまり精神異常を来す者が出ても不思議ではない。
 日本の武士の場合は、刀は多分に象徴であり、命を懸けているということの担保であった。それに、室内では脇差を携帯する場合はあったとしても、大刀は外しておくことが礼儀であった。刃傷沙汰はあったとしても、かなり例外的であったし、仮にあったとしても、その場合は相手に告知し、正対することから始まるのであって、不意打ちは卑怯なこととされる。
 これに対し西部劇では、相手がピストルを抜く前に撃つことも、ある場合には正当とされている。つまり相手の攻撃を未然に防ぐという“正当防衛”の論理である。ただひとつ、「背後から撃つ」ことが、唯一非難されることであったらしい。いやはや、おそるべき世界である。私などは、幼な心にも、今いるのがそういう場所ではないことに安堵した。映画館を出て、そこに広がる平和な日常にホッと胸をなでおろしたものである。
 いわゆるチャンバラ映画の時代には、開拓時代のアメリカのように“全人民武装”の状態ではなく、基本的に「刀狩り」(人民武装解除)が行われた後の、武士階級による武器の独占管理が行われており、しかもその武器も、徳川250年間を通じて殆ど改良進歩しなかったという事実。それに江戸の捕物帳の何と恩情的でユーモラスであったか(実際はどうであったかは不知)。あの投げ縄と刺股(さすまた)と十手、絶対に犯人を殺傷しない。私なんか、あの大江戸捕物帳っぽい映画のシーンを見ていると、ついつい捕縛する側に同情してしまう。
 そういうわけで、私は西部劇の中で平然と行われる殺人行為の扱い方に対しては、終始納得ができずにいた。とりわけて、先住民の扱い方である。無造作に殺されたり、縄で馬に引かれたり、死者は野ざらし。戦闘での先住民の死者が丁寧に埋葬されているシーンをまだ見たことがない。ややのちになると、先住民の中にも「悪い」先住民(アパッチ)と「良い」先住民(シャイアン)とを分けて描き、後者の白人への同化・文明化を称賛しつつも、滅び行く先住民への挽歌を奏でるもの(ジョン・フォードの『シャイアン』や『馬上の二人』など)もつくられはするが、それとても、先住民に対する研究・リサーチは全く行われていない。まったく誤解に満ちた描き方である。
たしかに面白い映画もあった。例えばドク・ホリデーと保安官ワイアットアープの一種の友情劇『OK牧場の決闘』(ジョン・スタージェス監督)、その原型『荒野の決闘』(ジョン・フォード監督)、ゲーリー・クーパー主演の心理劇『真昼の決闘(ハイ・ヌーン)』、それに『駅馬車』(ジョン・フォード監督)などは名作・傑作であることは間違いない。しかし、これとても私は、見終わるごとに生じる疑惑の感情を捨て去ることができなかった。「これは、強者による正義の押し付けではないのか」。
 社会派監督フレッド・ズィンネマンの『真昼の決闘』を最近見直す機会があったが、感想は変わらなかった。なぜ「ならず者」の一団が町へやってきたからと言って、すぐさま力で撃滅しなければならないのか(最初の日本語タイトルにある「決闘」だが、決闘とは対等なものどうしが正対してルールに基づいて行うもの。そういう意味でこれは警察権力の行使であり、「決闘」ではない。『OK牧場の決闘』でも、原題はGundfight~)。クーパーは保安官としての立場だから逃げる訳にはいかないにしても、調停や司法的な措置はとれなかったものか。クーパーの心理的葛藤は「決闘」を前にした、自己の命をかけるかどうかについての葛藤ではなく、自身のこだわる強い正義と弱い正義との葛藤であり、言い換えれば、体面としての強さをめぐる葛藤である。これは《悪魔》としての敵に、終始容赦のない攻撃を加えてきた「アメリカの正義」なのだ……。
 そういう疑惑をまったく感じずに、素直に感動することができたのが、『シェーン』(1953年、ジョージ・スティーブンス監督)である。この映画については、我が家族の間できわめて評判が高く、『シェーン』を観たかどうかは、およそ映画というものを観たかどうかの目安になるぐらい高い評価を与えられていたが、そういう決定的な作品を私は観てなかった。1960年ころにリバイバルされ、それが三番館の水戸東宝劇場にかかったとき、私はようやく観ることができた。
 流れ者のシェーンが、ワイオミングのとある農家に数日間世話になっていた。その農家は、悪徳で弱い者いじめをする大地主から立ち退きを迫られている。悪徳地主は殺し屋を雇って、力づくで追い出しを図っている。この間、シェーンが町へ出ると、彼は“南部のブタ野郎”と口汚くののしられる。じっと耐えるシェーン。やがて立ち退きを巡って、決闘を迫られるが、その前夜、シェーンは決闘に行かせまいとする農場主を殴り倒したのち、一人で町へでかけ、殺し屋(ジャック・パランスが扮する、これが凄い)を目もとまらぬ早技で倒し、ひとりで去って行く。そのあとを追う少年(ブランデン・デ・ウィルデ扮する)に対して、最後に“Be strong and straight”と言い残して去って行く。 そして少年が“Shane come back!”と叫んだところで、ヴィクター・ヤング作曲のあの名曲が奏でられて幕。という大変に分かりやすい、しかも感情移入しやすいつくりになっている。シェーンに扮したアラン・ラッドは、この一作だけで(他にこれといった主演作はなかったものの)映画史に名を残した。
 正直、感動した。とくにラストシーンには、今でも思い出すに胸が熱くなるのを覚える。ここには、虐げられた弱小農民と南北戦争の敗残者で流れ者のルサンチマンの共感が描かれており、虐げられたものどうしの助け合いと報恩(流れ者に宿を貸したことに対する恩義)、それにルサンチマンの“解決”がテーマであって、“強い者の正義”が描かれているのではない。さらに、農場主の妻と流れ者シェーンとの淡い想いと、それへの断念としての決死行――禁欲的な愛。
このパターンは、しばらく後になって日本の東映映画を中心にして幾度となく描かれた“股旅物”と、その後を継ぐ“任侠映画”のパターンとまったく同一であることにやがて気づいた(シェーンは「一宿一飯」の恩義に報いたのであった)。
 一種の“股旅物”とも言えるこの作品は、アメリカ西部劇では異色なのか。私は長くそう思ってきたが、佐藤忠男の『長谷川伸論』によると、まったくその逆で、ウィリアム・S・ハート主演のサイレントによる西部劇映画を観て感動した長谷川伸が、『瞼の母』や『関の弥太っぺ』、『沓掛時次郎』以下の、いわゆる“股旅物”の原作を書いたのが始まりであるという。この考えによれば、任侠映画の源流はアメリカ西部劇ということになる。これについては、私としては佐藤忠男の見解を紹介するだけにとどめ、自分の判断は保留しておきたいが。
 タイトルは忘れたが、私はウィリアム・S・ハート主演のサイレントの西部劇映画を一度だけ観たことがある。その異様な風貌は今でも忘れ難い。

*このブログの人気記事 2015・4・8

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 庶民の言葉で書くのは難しい... | トップ | 乳バンドと乳カバーは違う »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事