礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大久保弘一と勝木徳次郎は同一人物か

2015-03-14 09:16:29 | コラムと名言

◎大久保弘一と勝木徳次郎は同一人物か

 今月二日のコラム「璽光尊から神詔を受けた下中彌三郎」では、『下中彌三郎事典』(平凡社、一九六五)の「璽光尊」の一部を紹介した。
 その中に、「下中に神詔伝達の使いをしたのは、璽宇の渉外をやっていた大久保弘一(二・二六事件の<兵に告ぐ>の告示を起草した陸軍大佐)だった」という一文があった。大久保弘一〈コウイチ〉の名前は聞いたことがあったが、戦後、新興宗教「璽宇」に関わっていたことは知らなかったので、少し驚いた。
 インターネットで、「大久保弘一 璽光尊」を検索してみると、関西学院大学社会学部の対馬路人教授の「敗戦と世直し―璽宇の千年王国思想と運動(2)―」という論文(『社会学部紀要』第87号、二〇〇〇年三月)にヒットした。この論文は、インターネット上で閲覧できるが、その最後にある「引用文献及び参考文献」の四番目に、次のようにある。

大久保弘一(勝木徳次郎) 1967(?) 「天皇は楠正成の再来である」(手稿)

 さらに、「引用文献及び参考文献」の末尾には、次のような謝辞が付されている。

(本稿の作成にあたっては、前回同様、勝木徳次郎氏をはじめ璽宇関係者より資料の閲覧、情報提供など多大な便宜をこうむった。末尾ながら、関係の方々にはそのことを感謝したい。)
 
 元陸軍大佐の大久保弘一氏は、璽宇関係者としては「勝木徳次郎」を名乗っていて、二〇〇〇年三月現在で、ご健在だったということになる。
 次に、インターネットで、「勝木徳次郎」を検索してみると、ウィキペディア「璽宇」がヒットし、そこに次のようにあった。

 この事件を境に教勢は一気に衰え、双葉山がまず璽宇を去った。「璽宇皇居」は東京・横浜・青森・箱根を転々とする。呉清源夫妻は箱根千石原の知人別荘に璽光尊と共にいたが、読売新聞に縁切りを発表。同別荘を買収した読売側に立ち退きを迫られ、横浜の信者宅に落ち着いたあと、最終的に神奈川県藤沢市に「御遷宮」した。また、ロンドン警視庁で柔道や合気道を指南していた信者・山田専太の影響で外国人信者も少数いる。1984年(昭和59年)に璽光尊死後は、1943年(昭和18年)以来璽光尊と共にいた最古参幹部の勝木徳次郎が照観の別名で同教の主宰者となるも、宗教活動は殆ど行っておらず、現在も教団自体は存在するが、ほとんど勢力はない。【2015・3・14閲覧】

 ここには、勝木徳次郎が、璽光尊のあとを継いで、璽宇の主宰者となったという記述はあるが、「勝木徳次郎」が元陸軍大佐・大久保弘一氏の別名であるという記述はない。
 なお、もし「勝木徳次郎」が、大久保弘一氏と同一人物だったとすると、大久保弘一氏は、すでに一九四三年(昭和一八)から、璽宇の信者だったことになるが、これを裏付ける資料はあるのか。なお、本日の段階では、まだ、「敗戦と世直し―璽宇の千年王国思想と運動(1)―」を読んでいないことをお断りしておく。

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