礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

曼陀羅国神不敬事件とは何か

2012-12-11 08:39:54 | 日記

◎曼陀羅国神不敬事件とは何か

 戦中、日蓮門下の法華宗に加えられた宗教弾圧である「曼陀羅国神〈マンダラ・コクシン〉不敬事件」は、今日、ほとんど知られていない。本日は、小笠原日堂『曼陀羅国神不敬事件の真相』(無上道出版部、一九四九)の「はしがき」の全文を引用することによって、この事件の概略を紹介してみようと思う(九~一二ページ)。

 は し が き
 一九四一年七月八日、深夜沈深、唱題三昧裡、絶食既に七日、獄窓に端座して待つ、満願数時間後に迫る現世生命の最後臨終を。     ―昭和法難回顧録―
 右は昭和十六年、奇しくも日本敗亡の戦争と同年に起つた日蓮聖人曼陀羅国神不敬問題に当り、軍閥政権の為め弾圧の的となつた所謂法華宗昭和法難事件に際し、死を以て解決せんとした私の獄中回顧録の一節であります。
 本事件は日蓮上人図顕曼陀羅中の国神天照太神に対し、日本皇祖神を冒瀆するものとして不敬罪を以て政府から告発されたもので、従来の法論等に困る法難とは本質を異にする日蓮宗史七百年未曾有の事件でありました。
 其の根本には近く迫つてゐる本門事の戒壇建立の前提として、日本人自ら解決しなければならぬ「神とは何ぞ」「仏とは何ぞ」の大問題が含まれ、之が解明なくしては日本の本国土妙開顕は有り得ない。この一大事因縁を悟つた私等は、本国土の正法なき処、諸天の加護なく遂に日本の敗亡必来せんと、強く折伏〈シャクブク〉し、戦時中を通して一審―控訴院―大審院とあらゆる迫害を排しても公場対決を闘つて来たのであります。併し〈シカシ〉戦争中は極端な言論抑圧で国民の耳目を塞いだ時の事なので世間一般は元より、法華宗内部日蓮門下同志の間でさえ余り知つていない。否、知らされていない(却つて総司令部ではよく知つていて戦時中軍閥政府に弾圧を受けて屈しなかつた特例の仏教宗団と言われた)事件でありますが、本件は後述する様に日蓮聖人の予言し玉える遺弟無慈悲の讒言〈ザンゲン〉の現証になり、引いては世界寂光化の源泉たる本門事の戒壇建立の前兆となるものと信解されますので、潜越乍ら〈ナガラ〉私の体験回顧録を辿り〈タドリ〉所謂蔓陀羅国神不敬事件なるものの真相概要を発表する次第であります。
 ただ、多忙のため、限られた時間と、縮少された頁数のため、所期の半分も書けない許り〈バカリ〉か、推敲の暇もなく、―粗文のまま出さざるを得なかつた点―後日の精補を期して、御寛恕を御願いします。
 総司令部の宗教に関する占領報告書
「日本の宗致」(文部省宗教研究会訳)の中に、「日本の場合で、他に類のないことは神道という国家教の強調である。天皇や天照大神を、また神道の八百万神の礼拝を、自分たちの個人的信仰より上に置くほど行き過ぎることを躊躇した仏教信者、教派神道者および基督教徒もあつたが、大多数の者は、何か心に隠すところはあつたかも知れないが、ともかく言われるままにした」と指摘されています。
 全く、過去の日本人の信仰は、いく度び〈タビ〉かこの暴圧的支配階級の守護神に擬せられた天照太神との衝突の為め苦しめられてきたことか。
 日蓮聖人はこの謗国の守護神を評して、
“僅の天照太神正八幡なむと申すは此国には重けれども、梵釈、日月、四天に対すれば小神ぞかし…(日蓮は)教主釈尊の御使なれば、天照太神、正八満宮、頭を傾ぶけ〈カタブケ〉、手を合せて地に伏し給ふべき事也。”
と叱咤せられています。
 然し、聖人が天照仏と称し本師の娑婆世界の表象とせられた天照太神の本質は如何なものでありましようか、それはやがて武装なき、絶対平和国家真日本の出来上つたときに、歴史の必然的歩みが実証してくれることと信じます。
 法界は一大曼荼羅であります。大観すれば、善と謂い、悪と謂い、絶対法界意思の相対界顕現への過程……表裏でありましよう。意識すると否とにかかわらず、各々の役翻を行ずる菩薩遊戯三昧―と尊く拝まれるのであります。
 本著は筆者の過去に対しての懺悔であり、現在に於ての反省精進であり、将来えの悲願の記録であります。
 本書に就て、学界の耆宿 新村出博士から、含蓄深き推奨の文を賜つたことは感激に堪えないところであります。
 又、上梓に際し資料を与へられた三吉日照、苅谷日任、松井正純、株橋諦秀等当時受難の諸師、並に小畠啓孝、有原良本、吉田吉氏等の御協力によつたことをここに記し、感謝をささげます。
 尚、文中の氏名に敬称を省略した箇所は、本書記録の性質上御許しを得たいと存じます。
昭和二十四年秋       小笠原日堂

 以上の「はしがき」によって、事件の概略は、ほぼ把握していただけたかと思う。しかし、この事件について理解を深めるためには、事件当時の時代背景、法華宗という宗派の位置づけなどについても把握しておく必要がある。これらについては次回。【この話、さらに続く】

◎付記・『曼陀羅国神不敬事件の真相』の書名であるが、最初このコラムを書いたときは、当時の国立国会図書館のデータに従い、「曼陀羅国神」を「マンダラクニツカミ」と読んだ。しかし、その後、同書の第三版(大本山本能寺出版部、一九八四)によって、「曼陀羅国神」の読みが「マンダラ・コクシン」であることを知った。やや遅くなったが、本日、コラムの当該部分を訂正した。なお、国立国会図書館のデータは、すでに是正されている。2017・10・19記

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