礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

家永三郎、「悪書」について熱く語る(1967)

2015-06-12 04:53:44 | コラムと名言

◎家永三郎、「悪書」について熱く語る(1967)

 今月七日、「家永三郎博士と『SM趣味』」というコラムを発表したところ、予想以上にアクセスが多かった(歴代二七位)。注目すべきコメントも、一件いただいた(コメント内容の真偽については、読者の判定に委ねる)。
 その後、家永三郎の自伝『一歴史学者の歩み』(三省堂新書、一九六七)を読み直してみたところ、第七章「敗戦直後の心境」の最初のほうに、以下のような文章があった(一二五~一二八ページ)。

 私の友人たちの間には、敗戦と同時にただちに新しい方向に向かい、勇躍して積極的活動を開始した人々も少くなかったのであるが、その点で、私が敗戦をただ受動的にのみ受け入れ、悲惨な戦争の終結、暗い谷問の時代の終焉をのみ喜ぶことしかできなかったのは、顧みてまことにお恥ずかしい次第といわなければならない。
 ただ私のようにすでに学生時代から、表現の自由の制約のきびしさを体験し、苦い思いを重ねてきたものにとって、占領軍が占領開始の直後に、日本政府に命じて出版法・新聞紙法その他の治安立法を全面的に廃止させ、少くとも国内問題に関する限り表現の自由が全面的に保障されるに至ったことは、やはり敗戦の大きな収穫として、心から喜びを禁ずることができなかった。
 私の学生時代には、井原西鶴や為永春水のような日本の古典的文芸作品の完全なテキストさえもつことができなかったのである。もっともこれら江戸時代の著作の場合、変体がなで書かれている木版本だけは、一般人には読めないという理由からだったろうと思うが、公刊を許されていたけれども、活字本にはいたるところに伏字があり、特に西鶴の浮世草子のごときは一ぺージの大半が伏字〈フセジ〉で埋まっているところさえあるほどであった。明治以後の自由民権思想とか、社会主義・共産主義思想とか、平和主義・反戦思想のごときに至っては伏字どころでなく、テキストそのものが、合法的には全然入手できない状態におかれていた。そのような「国禁の書」が、公然と市場に姿を現わし始めたときほどうれしかったことはない。古典的作品でも西鶴あたりだとまだ伏字入りで出版できたが、たとえば破礼句〈バレク〉の川柳を集めた『末摘花』〈スエツムハナ〉のごときは、合法出版の途〈ミチ〉がとざされており、非合法の印刷本や写本が少数の好事家の間だけで秘密裡〈ヒミツリ〉に読まれるにとどまっていたが、これもまた治安立法廃止のおかげで解禁となり、初めて活字本が公然と書店の店頭に出現したのである。『末摘花』を大ぴらで買い求め通読できる時代が、私の生きているうちにこようとは予想もしなかったことだけに、この種の書物を手にしたときの心持は、名状しがたいものがあった。
 話は少々飛躍するけれども、戦後の自由は行き過ぎで、「悪書」が氾濫し、そのために青少年の非行化が進むといったことがしきりに言われ、いわゆる悪書条例が制定されたり、また一部の母親が先頭に立って「悪書」追放連動なども行なわれているようであるが、こういう思い出をもつ私は、民間人が先頭に立って、「悪書」排斥運動などをやることに、賛成できないのである。たしかに現在の市中に氾濫している出版物の中に、青少年に見せたくないもののたくさんあることは、否定しがたい。しかし、世の中には単に青少年にとって有害だから撲減しなければならないというだけでは、すまされない重大な問題があるのである。いわゆる悪書が完全に一掃されたときに、どのような寒々とした状況が出現するか、私は戦前の体鹸によって、あまりによく知りすぎている。
 それに、一体何が真の「悪書」であり何が「良書」であるかは、「悪書」追放論者が考えているほど簡単に判定できる事がらではないのである。むしろ私たちを戦争にかり立て、戦争に対する批判的な考え方の生まれ出ることを妨げた戦前の国定教科書のごときものこそ、最大の「悪書」だったのではなかろうか。現在「悪書」と呼ばれている類の出版物などから、何かを学びとろうと思って読む人などいるわけがない。むしろ知識や思想を求めて読もうとする出版物が、真実を伝えなかったり、邪悪な権力や財力に迎合した考え方を知らず知らずの間に多数国民の頭脳に注入するものである場合には、その害悪はいわゆる「悪書」などの比ではないのである。そうだとすれば、現在において何が真の最大の「悪書」であるか、よくよく胸に手をあてて冷静に考えてみなければならない問題だと思う。
 とにかく私は、戦前に「悪書」として禁止されていた書物が、敗戦の結果市場にあふれ出したことに、絶大な歓喜を覚えた人間であり、これだけでも戦後に生き残った甲斐があると感じた一人であることを、ここにはっきりと告白しておく。

 七日に紹介した「アンケート回答」文章は、雑誌『みすず』の一九八三年一月号に掲載されたものであった。『一歴史学者の歩み』は、それよりも一五年以上前に出た本であるが、併せて読んでみると、いろいろ見えてくるものがある。
 引用部分の末尾に、「これだけでも戦後に生き残った甲斐がある」(下線部)という表現がある。これは、「アンケート回答」における「こういう本を公然と読めるだけでも、今日まで生きながらえた甲斐があった」という表現と酷似している。ただし、これは、あえて強調するほどのことではない。
 むしろ注目したいのは、井原西鶴や為永春水といった「日本の古典的文芸作品」に言及している部分である。それによれば、家永三郎は、表現の自由に対する制約が厳しかった「戦中」においても、井原西鶴らの古典的文芸作品を「木版本」で(つまり完全なテキストで)、観賞していたことが推察できるのである。
 また家永は、戦中、「非合法の印刷本や写本が少数の好事家の間だけで秘密裡に読まれ」ていた事実も併せて指摘している。なぜ、家永は、そうした事実を知っていたのか。断定はできないものの、家永自身が、すでに戦中において、「少数の好事家」のひとりであった可能性を否定できない。
 アンケート回答中に、「私のように、明治憲法下のきびしい出版検閲下で『健全』な書物しか読めずに半生を送ってきた人間にとっては」という一文があった。『一歴史学者の歩み』を読んだ者としては、この一文は、疑わざるをえない。家永三郎は、明治憲法下のきびしい出版検閲下においても、なお、「悪書」を求めていたし、ひそかに「悪書」を鑑賞していたのではないか。だからこそ、戦後にいたり、『末摘花』が店頭に公然と並んでいるのを見て、「名状しがたい」感動を覚えたのではないだろうか。
 ちなみに、『一歴史学者の歩み』のサブタイトルは、「教科書裁判に至るまで」となっている。ことによると、家永三郎が、検閲をめぐる問題(教科書裁判)で国家権力と闘うことになった原点は、「悪書」をめぐる戦中体験だったのかもしれない。

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1 コメント

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家永先生の思い出1 (山村耕作)
2015-06-12 09:30:14
家永先生が大学を追放されて、まだゼミも持たずに暇そうにしているとき、H先生の研究室にいたとき、家永先生に研究室によく遊びに行き、東大の平泉研究室の話しを聞きました。ちびで禿で唇が出っ張っていた家永先生は、海軍機関大尉の黒木さんが颯爽と二種軍装に身を固め平泉先生を訪ねて来たとよく言っておられました。なんか父上が陸軍少将でありながら体の弱い先生の劣等感があの教科書裁判したのかな、と思う今日この頃です。
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