礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

捨つべき命を拾はれたといふ感じでした

2015-08-15 05:23:28 | コラムと名言

◎捨つべき命を拾はれたといふ感じでした

 先月の一三日から一五日まで、桜田壬午郎著『江戸の蛙』(三鈴社、一九四七)という本を紹介した。この本の第二部「東京の今昔」で、筆者は、三人の女性が書いた文章を紹介している。この三人の女性の体験を通して、「東京の今昔」を浮彫にしようとしたのであろうか。
 この三人とは、順に、一八八五年(明治一八)生まれ、一九〇五年(明治三八)生まれ、一九二三年(大正一二)生まれの三人だが、名前、筆者との関係などは記されていない。また、文章には、タイトルはない。
 どの文章も史料的価値があると思ったが、本日は、一九二三年(大正一二)生まれの女性のものを紹介してみよう。

 その 一一
 私は大正十二年に生まれました。今年二十五歳です。昭和十六年〔一九四一〕に女学校〔旧制の高等女学校〕を出ましたが成績のいゝ方は女高師〔女子高等師範学校〕とか女子大などに行きました。私は成績も中以下でしたし、そこに家庭の都合もあつて、女学校だけとし、これから身の振り方も決めようと思つてる矢先あの事変〔第二次大戦〕です。始まつてから四五年になりますのに戦争は大きくなるばかり、これと思ふやうな人は皆出征する、結婚しようにも出来なくなりました。結婚をすゝめる親類の人々もありましたが、何時〈イツ〉若い未亡人にならぬとも限らぬしそれにだんだん残つてゐる若い男の人達は身体〈カラダ〉の弱い人許り〈バカリ〉でしよ。これでは自分で身を立ててゆく道を考へるほかありません。何か職業をみつけたいと思つてお友達に相談しますと、タイプライターを習つてどこかの会社に勤めぬかと言つて呉れましたが、結局知り合ひの人に頼んで名前だけ勤めてゐるやうにして貰つてゐましたが動員署から調べに来て給料を貰つてゐないところから見破られ無理に気の進まぬ工場に油だらけになつて働くやうになりました。その中〈ウチ〉戦争がだんだん悪くなるばかりで、人々も落ちつかなくなり、私の心も「必勝の信念でやれ。」といはれ時々張り切つてみますがなんとなく力が入らなくなりました。ところが工場では「もつと働け」「朝は早く来い」「夜業もせよ」といふ風に骨が折れ身体もだんだん痩せてゆくやうに思へました。その中兄も出征するやうになり、私が働くことが僅かでも家の足し〈タシ〉になるやうになりましたので、努めて働くやうに致しました。
 その中空襲が度々あるやうになつて私からもすゝめて両親は田舎に疎開しましたが、私は工場に出てゐる関係で簡単には動かしてくれません。仕方なく独り友達の家に残つて工場に通ふよりほかありませんでした。工場の方も空襲のために仕事にだんだん身が入らなくなり、それに資材が廻つて来ないために手持ち時間が多くなつて、気分がだらけてゆくのが目にみえるほどになつてゆきます。しかし私は出征してゐる兄のことを思つて、自分の心を叱り叱り仕事を探すやうにして働きました。それにどうでせう。男の人達は大切な資材で自分のものを作つたり工場のものを持ち出したりして緊張してゐた私の心にもだんだん馬鹿らしく感ずる様になりました。行員達は軍人の監督官が来ると一生懸命働くやうみせかけますが、行つて仕舞ふと一層だらけて私達のところへ来ては、何だ彼だ〈ナンダカダ〉と親切さうな事を言ひ近付かうとして参ります。また事務の人達の中に配給物などで気を引かうといふ人もありました。物資に困つてゐるお友達の中でさういふ誘惑にみすみすかゝつてゆく人もありました。
 その中三月の空襲〔東京大空襲〕で友達の家も焼かれてしまひました。仕方なく別の友達の家に置いていただきました。遠くなつたので二時間余りもかゝつて工場に通ふのは大変でした。何と言つても電車が混むので、工場にゆくまでにへとへとになつてしまひます。気分がいらいらしてだんだんと気持も荒くなつてゆくのが自分でも判りますので何とかして、心だけでもすさまぬやうにと書物でも読まうとしますが碌なほんもありません。電車の中などで勤労動員の女学生の読んでゐるものを覗いてみますと、『己が罪〈オノガツミ〉』だとか『魔風恋風〈マカゼコイカゼ〉』だとかどこの隅にこんな本があつたのだらうかと思はれるような本が多くそれでも奪ひ合ふやうに読んでゐるではありませんか。ひどいのは何年か前の映画雑誌などを開いてる人もあります。修養しようにも本がなく身の廻りのことさへもやがて臆劫になつて参りました。空襲がある毎〈ゴト〉に人の服装もぐつと悪くなつてゆくので、自分の身なりもさう恥かしくなくなりました。万事につけてぞんざいになつて参りました。尤もたまの休日など何か洗ひものを干さうにも空がこわくて日向〈ヒナタ〉にも出せず、繕ひものをしようにも糸がありません。自分の命を持つて廻つてゐるだけだといふやうになつて参りました。都民の誇りもなくどこかの貧民をみるやうでした。こうした侘しい気持を二十歳〈ハタチ〉そこそこの若い女性に迄もふりかゝつて来たような時代が今迄の日本にあつたでせうか。一億玉砕といふ言葉が強い表現でいはれるやうになりました。誰も一度は口にしたでせう。しかしそこから何の力も湧いて来ませんでした。自分でもどうかせねばならぬといふ気がしましたけれど、気が一向に引き立たなくなつて参りました。その中終戦となりました。嘘詐り〈ウソイツワリ〉のない気持でほつとしました。誰かによつて捨つべき命を拾はれたといふ感じでした。【以下、次回】

*本日は「終戦記念日」です。このブログでは、「終戦」(敗戦)、「占領」に関わって、これまでかなりの数のコラムを書いてきました。おそらく、その数は、三〇を超えると思います。本日は、そのうちの一五本を、順不同で紹介しておきます。

 このままでは自壊作用を起こして滅亡する(鈴木貫太郎)

敗戦直前に発刊された生活社の「日本叢書」

「終戦の詔書」の放送は理解できなかったという伝説

玉音放送は国民に理解できた(付・羽仁吉一、敗因を説く)

中根美宝子さんの『疎開学童の日記』(付・にくき米英今に見ろ)

終戦を知って宮城前にひれ伏した人々をめぐって

羽仁吉一が二重橋にお詫びに向かった理由

敗戦と火工廠多摩火薬製造所「勤労学徒退廠式」

「新聞の終戦」は単純にはいかなかった(読売新聞の終戦)

「皆さん、敗戦は神意なり!」石原莞爾の戦後第一声

「一億総懺悔」論のルーツは、石原莞爾か

東久邇首相、ラジオで暗号放送(1945年8月20日)

死なねばならぬ理由が今一つある(東条英機)

高木惣吉が見た占領下の日本人(付・いじめと学校の権威)

早朝のバス待合所に見る終戦直後の心象風景

*このブログの人気記事(10位にやや珍しいものがはいっています)

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「立憲主義の危機」は、なぜ... | トップ | もんぺも終戦後は影を潜めて... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事