礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

湖口に機雷を布設してないか(シンプソン少将)

2016-12-23 02:32:37 | コラムと名言

◎湖口に機雷を布設してないか(シンプソン少将)

 上原文雄『ある憲兵の一生――「秘録浜松憲兵隊長の手記」』(三崎書房、一九七二)の紹介に戻る。
 一昨日は、「悲愁敗戦」の章から、「浜松飛行機の一部山中に立籠る」の節を紹介した。その節のあとに、「日本降伏特使機の不時着」の節があるが、この節はすでに、今月一九日に紹介した。そのあとに、「米軍機不時着」の節があるが、これは割愛する。
 本日は、さらにそのあとの、「浜名湖口、連合軍捕虜の引渡し」の節を紹介してみたい。敗戦後に、連合軍の捕虜を、どのような交渉あるいは手続きを経て、連合軍に引き渡したのかがわかる史料というのは、そう多くはないと思う。その意味で、上原文雄の証言は貴重だと思う。

 浜名湖口、連合軍捕虜の引渡し

 九月初旬のことであった、
 中部軍司令部から
「満島〈ミツシマ〉捕虜収容所の捕虜を収容するため、米海軍第三機動部隊の艦隊が、浜松港に寄港するを以て、捕虜は浜松駅まで輸送し、米海軍司令官に引渡すことになる故、これが引渡しに協力され度し」
 との電話があった。
 戦争中連合軍捕虜を天竜川の上流満島(現在長野県天竜村平岡)地区に於て発電所工事の労役に服させていたのである。
 県からも浜松警察署長に対しこの事が達せられ、警察署長と連絡し準備を計画したのであるが、浜松港と指示されても浜松には港らしい港はないので浜松海岸に停泊するものと判断して、捕虜は浜松駅から篠塚兵舎に貨物自動車で移送し、海岸で引渡すことにした。警察署長はこのため、貨物自動車十数台を借上げて準備したのである。
 引渡日の前日になって、満島捕虜収容所の町田通訳が分隊に来て、引渡しの打合せをしたいというので、静岡銀行の分室に連行し、警察も招いて打合せを行なっていた。そこへ中部軍司令部の参謀二名も来合せ一諸〔ママ〕に明日の準備について相談しているところへ、舞坂の警部補派出所の河合警部補から電話で、
「只今、舞坂海岸に米艦隊が投錨し、一部は上陸用舟艇で上陸を開始した」
 との連絡である。
 その日は雨模様で風波が高く、日本の魚舟ではとても出航できない程の高波であるのに、果して上陸したであろうかと思っていると、再び舞坂警部補派出所の連絡で
「舞坂海岸に上陸した米艦の司令官が、現場に赴いた舞坂警防団長に対し、この地にある軍隊の指揮官にすぐ来るようにとの命令である」との連絡である。
 軍の参謀に
「あなた方が行ってくれますか?」
 と聞くと、
「この地方の軍隊指揮官といえば貴官のことである」
 というので、私は、町田通訳を随えて、中野兵長の運転で自動車を飛ばせて舞坂海岸に急行した。舞坂海岸に着くと、海岸の渚〈ナギサ〉に上陸した米海軍は約三十名ばかりで、司令官らしい将校を中心にして、半円形に警戒兵を配置して、こちらの行くのを待っていた。
 私は軍刀をはずし、のり棚の陰に置き丸腰になって、町田通訳と服部警防団長を随え海岸の砂を踏んで近付いて行った。中野兵長はのり棚の陰にかくれて見張っていた。
 やがて自動銃を構えた警戒兵の線を過ぎ、司令官の前に進んで、町田通訳を通じて
「自分は浜松憲兵分隊長であります。捕虜引渡しのことで御指示を承りに参りました。こちらが舞坂町の警防団長、こちらが町田通訳であります」とあいさつと紹介をした。
「自分はシンプソン少将である|
「浜松港に寄港するとの指示でありましたので、停泊の位置が明確でないので、列車を浜松駅に停車するという指示に従って、浜松から海岸まで捕虜を輪送する自動車を準備し、捕虜の休憩の場所として篠塚廠舎を準備しています」
 と、砂上に要図を書いて説明した。
「この近くに停車場はないか?」
「この湖口〈コグチ〉をはさんで左〔西方向〕に新居駅〔ママ〕右〔東方向〕に舞坂駅があります」
「プラットホームはあるか、どちらの駅が最も近くまで上陸用舟艇が着くか」
「それは新居駅の方が便利であります」
「それでは、新居駅に下車させて、そこから舟艇で運ぶことにする|
「新居駅に下車させるとするなら、休憩所は浜名海兵団が良いと思います」
「休憩所は必要ない。駅からすぐ乗艦させる」
「列車を新居駅に停車させるように手配しなければなりません」
「貴官は列車を新居駅に停車させることに努めよ。自分は舟艇を新居駅近くに接岸することを考える」
「新居町長と駅長にも、このことを知らせなければなりません」
「この湖口に機雷を布設してないか?」
「機雷はありません。漁船が出入しています」
「明朝水先案内を数名出せるように準備せよ」
 これまでの話は自分と司令官との直接交渉である。自分の方は町田通訳が二世であったのでまことに都合がよかった。米軍の司令官というものは、重要なことは自分でやってしまう。この点日本の将軍なら、参謀か副官にやらせることを自らやってしまうのに驚ろいた。
 大略の交渉が終った頃になって、米軍の大尉が、日本語で
「あなた、いままでのこと、早く皈って〈カエッテ〉間違いなくして下さい」と直接わたくしに話しかけた。
「なんだ、あなたは日本語が話せるのですか、それを知っておれば、こんなに苦労しなくてすんだのに」
「あなた正直言うか聞いていました」
「こちらの計画したことが判らぬかと心配しましたよ」
「わたし、東京に六年いました」
 この人カーペンター大尉であった。
 夕刻になって双方は別れ、捕虜引渡しの準備交渉が終った。
 この旨をまず、新居憲兵分隊長熊谷少尉に伝え、新居町役場、警察署、新居駅長にも連絡した。新居の人達は、厄介なことを新居側に押しつけたものだ、舞坂町の服部警防団長が随行したので、新居町側が不利になったと不満顔であった。浜松に帰えると軍参謀も待っていたので、この事を報告し、いよいよ明日の引渡しのため各方面と連絡準備を行なった。【以下、次回】

 文中に「新居駅」とあるのは、東海道本線の「新居町〈アライマチ〉駅」のことであろう。
 満島捕虜収容所にいた連合国の捕虜は、飯田線の満島駅(今の平岡駅)あたりから列車に乗り込み、豊橋駅経由で、上りの東海道本線に乗り換え、新居町駅で下車するということになったのであろう。なお、東海道本線の舞坂駅と新居町駅との間には、弁天島駅があるが、下車駅の候補になっていない。

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