住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

法事に関する一考察

2015年06月14日 19時26分42秒 | 仏教に関する様々なお話
法事とはなんだろう。法事について今日は考えてみたい。法事というとお経を聞いていただく時間が長いわけですが、実際長いなと、分からない言葉の羅列を聞くのはしんどいと感じますでしょうか。私は子供の頃、父方の宗旨が日蓮宗で、お寺に参り法事に参加したとき、木魚の音がなぜか可笑しくて、笑ってしまって、親に怒られ、廊下に立たされたことを思い出すのですが、皆さんはいかがでしょうか。

では本家本元のインドではどうなのか、昔インドのコルカタの僧院にいる頃、お呼ばれをして法事に参加する機会が何度もありました。一人二人のお坊さんを家に招いてする小さな法事は、ニマントランと言って、招待という意味ですが、昔亡くなった先祖の命日などに行うのですが、十一時半頃家に到着したら、まず、その家の奥さんなどが出てこられて、丁寧に礼拝されて、簡単な挨拶をしていると、その場にお膳が運ばれてきます。インドのことですから、もちろんカレーなのですが、大きなステンレスのプレートの中にご飯やチャパティというパンと小さな皿に入ったカレーが二三種類、サブジという野菜のカレー、マッチュリーという魚のカレー、マーンスというチキンや山羊の肉のカレーなど、それにチャツネという少し酸っぱい漬け物などが盛りつけられていました。

その家庭で食べられているスパイスで作られているので、そんなに辛いこともなく、ですが、とても滋養たっぷりの薬膳とも言えるようなご馳走が振る舞われました。インドや南方のお坊さんたちは、戒律で正午以降固形物を口にしてはいけないので、正に2食分くらい沢山の量を食べて、食べたら二時間くらい横になって午睡を取る習慣があります。ですから、その時も、信者さんの家で、しばらく横になったりして休み、それから簡単にカラニーヤメッタスッタなど慈悲のお経を唱え帰ってくるのです。

一方、お葬式のあと七日目や、半年後、又一年後には盛大な法事を行います。こちらはサンガダーンと言って、僧団への施与という意味で、五人以上のお坊さんを招き食事を供養する儀式です。お寺に親族が来てする場合もあり、家にぞろぞろと、五人のお坊さんがバスに揺られたり電車に乗って駆けつけるということもありました。お寺でするようなときは、朝の6時頃からガタゴト外がやかましくなり、テントが張られ中ではスパイスを刻むことから始まり、その場で一からカレー料理が作られていきました。

十一時頃には本堂のひな壇にお坊さんたち一同が一列に座らされ、下に信者親族が座ると、施主から、その日の法事の始まりを告げる懇請文が唱えられます。「オーカーサ、バンダーミバンテー、ティサラネーナサハッ、パンチャシーランダンマンヤーチャーミ、アヌッガハンカットバー、エーバンデータメーバンテー」と三遍唱えて、尊者様を礼拝し申し上げます、どうか私たちに三帰五戒をお授け下さいとお願いすると、長老のお坊さんが、「ヤマハンバダーミタンバデータ」と、ではお授けいたしましょうと応じ、「ナモータッサーヴァガバトーアラハトーサンマーサンブッダッサー」と礼拝文が唱えられ、信者さんたちも唱和し、続いて、「ブッダンサラナンガッチャーミ・ダンマンサラナンガッチャーミ・サンガンサラナンガッチャーミ」と、三帰依文が唱えられ、それに唱和し、「パーナーティパーターベーラマニーシッカーパダンサマーディヤーミ・・・・」と五戒が唱えられお授けされると、信者も唱和して五戒を受けるのです。

それから、お坊さんたちみなで、やはりカラニーヤメッタスッタなどパリッタというお経が唱えられると長老のお坊さんから法話があり、最後にあらかじめ用意されていた大きなお盆の中にコップにつがれた水を施主ら三四人で、少しずつお盆に返されつつ、お坊さんから、功徳随喜の偈文が唱えられていきます。この功徳が、水がお盆に満たされていく如くに、生きとし生けるものたちに満たされ、亡き故人にもその功徳が行き渡りますようにと祈念されるのです。

その後、その場が食事会場となり、机が運ばれ、一人一人のお坊さんの前に大きなプレートが置かれ、そこにバケツに入れられたご飯がよそわれ続いてカレーや他の惣菜などがつがれていきました。食べても食べてもすぐにご飯やカレーがよそわれるので、途中でバスバスと、もう十分ですと言わないといつまでもおかわりが来てしまうのでした。

このようにインドの法事は、在家信者が三帰五戒を授かり、仏道に新たに精進することを決意し、お坊さんたちにさらに健康に修行に励んでもらうべく、たらふく食事を供養してその功徳を一切衆生に、そして故人にもその功徳が至り来世でよりよくあるようにと願われるものです。

ところで、今、実は西洋で、日本の法事という仕組みが真似されていると言ったら驚かれるでしょうか。今から二十年ばかり前、デニス・クラスというアメリカ人の宗教心理学者が日本に来て、日本の家庭に入り込み、仏壇や法事を研究し、それを論文で発表するや、アメリカやヨーロッパのキリスト教徒たちが日本の法事に併せてみんなで集いパーティをするようになったというのです。

十九世紀の心理学者フロイトは、いつまでも亡くなった人を思い悲しむのは病気であると教えました。しかし人はそんなに強い存在ではない、無理に無かったことには出来ない。そこで多くの人たちが病む社会となります。そこで、亡くなった人に近しい人たちが日本の法事の時期に合わせて集い、共にその喪失感を共有することで心癒やすようになったということです。カール・ベッカーという京都大学のこころの未来研究センター教授が報告されていました。

同様に仏壇も、ご先祖様にいろいろ報告したり、悩みを打ち明けてみたり、勇気をもらったりする場として、日本人にとってそれは、豊かな心を養う貴重な装置であるとも言われています。

法事や仏壇というと、どうでしょう。今では、やっかいなもの、慣習としてしなくてはいけないとか、しきたりのようなものとして、ネガティブに捉えられがちではないでしょうか。しかし、アメリカの先生が言われるように、その本来の意味はとても大切な実用的なものであったとも言えないでしょうか。

法事は、故人が私たちに残してくれた、置き手紙ではないかと思えます。日頃仏教に縁の無かった親族たちにも、仏道に精進させ、善行功徳ある行いをさせることで、功徳を積ませ、自分亡き後も、残していくものたちにしっかりと健やかに過ごしてもらう。そのことによって、家族、親族が結束して、執り行うことの大切さを知らせ、縁ある者たちが力を合わせて助け合い、皆が心通わせていく、それによって、一人一人も自然と心癒やされていく機会となるものとして、仏事、法事はあったのではないかと思うのです。それは正に日本人の代々受け継いできた大事な営みであり、そうして縁ある者たちを守ってきたのであり、日本人の叡智であるとも言えるのではないかと思えるのです。

この数年来、仏壇を整理する、墓じまいといった言葉をよく耳にするようにもなりました。たとえば仏壇をお寺に預ける、先祖代々の墓をほかしてしまうなどといった現代の風潮は、ここに見てきたような日本人が長年大切にしてきた仏壇や仏事の意味を顧みずに、安易に時代の風潮として行われているのではないかとも思えます。もちろんそれぞれに事情があることでしょうが、若い人たちに負担になる、迷惑を掛けたくないというような、まるでネガティブなものとしてしか捉えられていないと感じます。そうではなくて、それは先人の智慧の結晶として継承してきたものであり、心理学的にも大事なものであるという観点から再認識をしていただき、ますます仏事に仏道にご精進願いたいと思うのであります。


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3 コメント

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はじめまして (しょうこう)
2015-06-16 04:27:22
こんにちは。
調べものをしておりましたところ、ご住職のブログと出会いました。
ご住職のブログを拝見し、ご住職はとても素直な方で真摯に物事に向き合っておられる方とお見受けいたしました。

私自身、幼い頃の法事の印象は大人達の態度から大切な御用とは思うけど、足が痺れるほど長く、お経も長くてしんどいということでした。うちは両親共に浄土真宗本願寺派でしたが、よく足が痺れると駄々をこねるので、外に遊びに行きなさいと家の外に出されました。

私自身の事で恐縮ですが、私は仏教には大変興味を持っておりましたが、お世話になった先生の影響を受け、キリスト教会で洗礼を受けました。その後、大学に進学し、卒業後には神学校に進み、神学校卒業の二年後に聖職として按手を受けました。
今は、聖職しての籍は残っていますが、私自身の都合により、聖職とは全く無縁の生活を送っております。

20年前ぐらいでしたら、教会では解放の神学が、良い悪いは別にして様々な影響を及ぼし、教会も混乱していた時期です。また、様々な方面からの問いかけもあり、教会自身が混乱していた時期でした。もちろん、欧米においても、その混乱や問いかけに翻弄されていた時期です。
既存の教会のあり方に疑問を呈する方々がたくさんおられました。

そのような中、東洋の思想や日本の思想を研究する学者がおられました。
禅宗のお寺でお坊さんと共同生活する聖職の方もおられました。

私自身も仏教に大変惹かれるところがありましたので、お写経や法話を聴いたりしておりました。また、在家としてですが、戒を授けていただきました。これは私自身のもちまえを現すこととして行いました。

蛇足が長くなり失礼致しましたが、ご住職がおっしゃる通り、法事の意味は大変大切なものであると捉えております。
故人の親類や友人の方々が集まり、生前の故人の生きてきた生を、生きてきた証を、生き様を、集まった者が語り合う中で、故人の生きてきた生に再び光明を与えるものであると捉えております。
そしてその光明は語り合う方々にも癒しと潤いを与えると同時に故人の生き様から自分の人生を見つめる機会となると私自身は捉えております。法事とは本来そのような姿であると捉えております。

上記に記しましたように私は捉えておりますし、死は最も大切な終末であり、人生の完成と捉えておりますが、私自身、浅学で失礼とは存じますが、お釈迦様は葬儀を禁じたと聞いておりますが、法事を行うことは、お釈迦様が説かれた真理から離れることにならない理由等々をお教えいただければ幸いに存じます。

長文、乱文にて大変失礼致しました。
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しょうこうさまへ (全雄)
2015-06-16 07:56:28
初めまして、コメントありがとうございます。私の知り合いにも牧師になった人、神父さんとして教会に住まいしている方があります。

お釈迦様は、葬儀について禁じたというのは、おそらくその時代のバラモンたちの葬送の儀礼について言われたことかと思います。

南方の仏教では、そのお釈迦様が亡くなられたときに帝釈天や仏弟子たちが唱えた言葉を唱えて葬儀が簡単に行われています。

お釈迦様はご自分もお父さんが亡くなられたときなど棺を担いで火葬場まで運ばれたとも言われており、お葬式自体を否定したとは考えられません。

お釈迦様ほどの方が亡くなられたときにはおそらく当時のインドの社会では長く何日も喪に服したり儀礼が引き続き行われたことでしょう。そのようなことに関わるなということであろうと思います。それよりも修行があなた方のすべきことであると言われたのです。

法事は、残された者たちの仏道精進を改めて確認し善行功徳を積むためにあるわけですから、仏事は仏道に励むことなのです。ご先祖の供養は残された者たちの仏道修行をする励みであり、日頃の精進を顧みて恩義ある方に感謝を捧げるものとも言えるかと思います。
返信する
法華経でなければ救われぬぞ! (何を言うか!)
2015-10-18 17:09:29
禅宗等は法華経を説くための仮の教えであり末法であるこの世を救う事など出来やせぬぞ!禅宗住職ブログは天魔の邪教!それを信仰したり世に広めるのであれば平和を切る悪党である!釈迦の心を踏み躙る悪僧よ禅宗を捨て法華経へ帰依されなされ南無妙法蓮華経
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