みんな誰でもが幸せになりたいと思う。不幸せになりたい人などいないであろう。山中鹿之助であっただろうか、「我に艱難辛苦を与えたまえ」とのたもうたのは。しかし、それは戦乱の世の中で、どのように生きたとしても修羅場であることを観念してのことであろう。
たとえ辱めを受けたとしても今の地位、収入、立場を失いたくない。そんな価値観が根付いてしまってはいまいか。それは現代のこの国の姿勢そのものであろう。だから現代に生きる私たちは、だれもがそんな生き方を選択してしまいがちではないだろうか。
しかしどんなに幸せを求め、うまく立ち回ったとしても、人から下手な生き方をしていると見られるような生き方をしていたとしても、いずれにしても、「人生は苦なり」というお釈迦様が言われたこの世の真理からは逃げることはできない。
生老病死の苦からは、いかにしても逃れようがない。たとえ不老長寿の薬が見つかったとしても、いずれはみな死ぬであろう。時間と死は誰にも平等にやってくる。しかしだからといって、お釈迦さまの教えは、もう何をしてもお手上げだということではない。諦観せよ、諦めよということでもない。
そうではなくて、その真実を知った上でいかに生きるべきかと教えてくれている。人生は苦なり、ではあるが、それを深くわきまえた上で、明るく真に幸福に生きるためにはどうすべきか。その為には知恵がいるであろう、その智恵を身につけるためにはどうすべきか。それを教えるのが仏教でなければいけない。
苦しみに出会うと誰もが嫌だと思う。人にのけ者にされたり、馬鹿にされたりしたら頭に来る。何で自分がこんな目に遭わなければいけないのかと腹が立つ。その場から居なくなりたいとも思うかもしれない。しかし、非情にも苦をもたらしたのは自分自身である。と、お釈迦様は言われる。
なぜであろうか。自分も含め人とは、そもそも未熟な存在に過ぎない。何も分かっていない。物事の道理因縁を知らない。事の起こり、物事の成り立ちを知らない。そんな者たちの言うことを真に受けて、怒り腹を立てる。それでも良く思われたい、良くありたいと思う私たちはやはり無知なるものそのものだ、だからあなた自身が問題なのだということなのであろう。
たとえ自分の親であろうと学校の先生であろうと。ましてや同級生や上級生はもちろん、学者先生と言われる知識人たちも、企業経営者にしても、また議員バッチをつけた偉い議員や総理大臣にしても。みなお釈迦様の目からは欲の世界に生きる無知なるものに過ぎない。
そうした欲に生きる人たちの社会に私たちは生きているということを、まずは知るべきなのであろう。誰もが物事の本質を知らないのだと。だから、もともと様々なトラブル、人間関係からの問題に遭遇することは仕方ないのであると。それはひとえに自分自身の個人的な原因によるものではないということを知るべきなのであろう。
だから、そうした様々な問題に遭遇したとき、それに自分が心を乱され、右往左往し、悩み苦しむことこそがナンセンスなことなのだと気づかねばならない。だから、世間で、苦に感じるような場面、トラブルに出会ったとしても、それをきらう気持ちを持つことなく、冷静にその状況のみを把握する。そうですかと。それではどうしましょうかねと、どうあるべきでしょうかと対策を考える。
感情的になることなく、あくまでも冷静に対処する。そうすれば相手も退散するしかない。自分に問題があるなら改善しましょうと。そのトラブルと自分の存在とは別のものだということを忘れずに。物事はなるようにしかならない。すべては移り変わる、そのことを知るならば、良くなっても行くのだと気づくことも必要であろう。
また、しかし、もしも逆に何の問題もない人間関係がずっと続き、トラブルも一切無い社会であったとしたらどうであろうか。幸せなことだらけで、ちっとも大変なこと、嫌に思うようなことなく、毎日が良いことづくめであればどうであろうか。
私たちはその状態を幸せだと感じることもなくなるのではないか。丁度私たち日本人が今幸せとは何かを探し求め、戦争のない今のありがたさがわからなくなっているようなものである。決して戦争を起こしてはならないということは勿論のことではあるが。
嫌なこと、様々な問題、苦しみがあるからこそ、様々な学びもあり、何も問題やトラブルがない幸せ、幸せのありがたさ、他者との関係の大切さを学ぶこともできるのであろう。嫌なこと辛いことに出会うことで、自分の心の癖、弱点、性質を知ることもできる。
そして、苦を苦とも思うことなく、なにごとも自分にとって好きでも嫌いでも、善くても悪くても分け隔てなく一つの現象として捉えられるようになれば、何も恐れることもない。落ち着いた何ものにも依存しない幸福感が得られるであろう。そのためには、仏教の法である縁起ということを私たちは知らねばならない。それを頭で知るだけでなく、自らの体験の中で知る努力が必要になってくるのであろう。
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日記@BlogRanking
たとえ辱めを受けたとしても今の地位、収入、立場を失いたくない。そんな価値観が根付いてしまってはいまいか。それは現代のこの国の姿勢そのものであろう。だから現代に生きる私たちは、だれもがそんな生き方を選択してしまいがちではないだろうか。
しかしどんなに幸せを求め、うまく立ち回ったとしても、人から下手な生き方をしていると見られるような生き方をしていたとしても、いずれにしても、「人生は苦なり」というお釈迦様が言われたこの世の真理からは逃げることはできない。
生老病死の苦からは、いかにしても逃れようがない。たとえ不老長寿の薬が見つかったとしても、いずれはみな死ぬであろう。時間と死は誰にも平等にやってくる。しかしだからといって、お釈迦さまの教えは、もう何をしてもお手上げだということではない。諦観せよ、諦めよということでもない。
そうではなくて、その真実を知った上でいかに生きるべきかと教えてくれている。人生は苦なり、ではあるが、それを深くわきまえた上で、明るく真に幸福に生きるためにはどうすべきか。その為には知恵がいるであろう、その智恵を身につけるためにはどうすべきか。それを教えるのが仏教でなければいけない。
苦しみに出会うと誰もが嫌だと思う。人にのけ者にされたり、馬鹿にされたりしたら頭に来る。何で自分がこんな目に遭わなければいけないのかと腹が立つ。その場から居なくなりたいとも思うかもしれない。しかし、非情にも苦をもたらしたのは自分自身である。と、お釈迦様は言われる。
なぜであろうか。自分も含め人とは、そもそも未熟な存在に過ぎない。何も分かっていない。物事の道理因縁を知らない。事の起こり、物事の成り立ちを知らない。そんな者たちの言うことを真に受けて、怒り腹を立てる。それでも良く思われたい、良くありたいと思う私たちはやはり無知なるものそのものだ、だからあなた自身が問題なのだということなのであろう。
たとえ自分の親であろうと学校の先生であろうと。ましてや同級生や上級生はもちろん、学者先生と言われる知識人たちも、企業経営者にしても、また議員バッチをつけた偉い議員や総理大臣にしても。みなお釈迦様の目からは欲の世界に生きる無知なるものに過ぎない。
そうした欲に生きる人たちの社会に私たちは生きているということを、まずは知るべきなのであろう。誰もが物事の本質を知らないのだと。だから、もともと様々なトラブル、人間関係からの問題に遭遇することは仕方ないのであると。それはひとえに自分自身の個人的な原因によるものではないということを知るべきなのであろう。
だから、そうした様々な問題に遭遇したとき、それに自分が心を乱され、右往左往し、悩み苦しむことこそがナンセンスなことなのだと気づかねばならない。だから、世間で、苦に感じるような場面、トラブルに出会ったとしても、それをきらう気持ちを持つことなく、冷静にその状況のみを把握する。そうですかと。それではどうしましょうかねと、どうあるべきでしょうかと対策を考える。
感情的になることなく、あくまでも冷静に対処する。そうすれば相手も退散するしかない。自分に問題があるなら改善しましょうと。そのトラブルと自分の存在とは別のものだということを忘れずに。物事はなるようにしかならない。すべては移り変わる、そのことを知るならば、良くなっても行くのだと気づくことも必要であろう。
また、しかし、もしも逆に何の問題もない人間関係がずっと続き、トラブルも一切無い社会であったとしたらどうであろうか。幸せなことだらけで、ちっとも大変なこと、嫌に思うようなことなく、毎日が良いことづくめであればどうであろうか。
私たちはその状態を幸せだと感じることもなくなるのではないか。丁度私たち日本人が今幸せとは何かを探し求め、戦争のない今のありがたさがわからなくなっているようなものである。決して戦争を起こしてはならないということは勿論のことではあるが。
嫌なこと、様々な問題、苦しみがあるからこそ、様々な学びもあり、何も問題やトラブルがない幸せ、幸せのありがたさ、他者との関係の大切さを学ぶこともできるのであろう。嫌なこと辛いことに出会うことで、自分の心の癖、弱点、性質を知ることもできる。
そして、苦を苦とも思うことなく、なにごとも自分にとって好きでも嫌いでも、善くても悪くても分け隔てなく一つの現象として捉えられるようになれば、何も恐れることもない。落ち着いた何ものにも依存しない幸福感が得られるであろう。そのためには、仏教の法である縁起ということを私たちは知らねばならない。それを頭で知るだけでなく、自らの体験の中で知る努力が必要になってくるのであろう。
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人間は共通の部分もあると思いますが、人それぞれに異なった面も持ち合わせていると思います。人それぞれに性格が違うように、資質も感じ方も違うわけです。人生は苦だ、と認識したのは釈迦の感性です。非常に感性豊かな人だったと思いますが、これは何か受動的な心の動きであるように思います。もちろん、ここから始まって出家し、苦行に邁進したのは釈迦のすごいところだと思います。
釈迦の認識の仕方は、インドに生まれた釈迦その人の性格であり、万人に、普遍的に、共通するものではないと言いたいのです。生きることの第一命題として、人生は苦であると思わない人もいるわけです。たとえば人生は同じことの繰り返しで空しいと感じる人もいるわけで、これは少し違う感じ方です。苦ではないわけですから。
最初からすれ違いが生じますと、その後は説得的には聞こえません。気持ちは離れてゆきます。
浅学非才な私がここで何かを主張しようとしているわけではありません。私はこのブログをよく読みますし、勉強させてもらっています。ただ少し違ったものも見方もあるのではないか、ということを言いたいだけです。もう一方の障子を開ければ、風通しがよくなることもあると思います。
そうですね、私の説明不足もあると思いますが、お釈迦さまの言われる苦というのは、何かということを話さないといけないことでしょう。
苦は単にお釈迦さまの性格ではないのです。私たちいのちを持つものの摂理と言ってもいい、もうどうしようもないこの生きているから抱え込んでいる存在のあり方といった方が良いでしょう。
すべては無常で移り変わる。私たちの成り立ちが既に無常だから生きている。無常なるが故に刹那刹那に移り変わる自分自身というものを見たときに苦を観じ厭う。生きているということは既に死と隣り合わせにある。空しさもそこから生じてくるものでしょう。
仏教は際限を見つめています。生きるものとはいかなるものであろうかと。人生に楽しみばかりを追い求めて生きることにどれだけの価値があろうかと。又は奇跡のようなことを追いかけてどうなりますかと。そうではなく、もっと私の今はどうであろうか、私の心はいかがであろうかと考えていくのです。
人生は苦なりと書いたから誤解を生じたのかもしれません。これは生きるものすべての本源的な理としての苦ということなのです。
当たりまえに思うところに幸せはないということに、同感です。
苦しみと向き合うところから、仏教は始まり、慈悲が生まれてくるのでしょうね。
似たような記事を書きましたので、TBさせていただきます。
宗派は違えど、同じようなところに的を絞っておられるように感じています。
宗派を超えた発想がこれからは特に大切だと感じます。頑張りましょう。
私は他の職種から40代で看護師に転職した者です。
職場での人間関係に悩み坐禅を始めましたが、今でも生きることが辛いと感じることも多く、仏教に人生は苦という教えがあるのを知り、このブログに辿り着きました。
ブログの記事に大変感銘を受け、同じような悩みを抱えている人にも見てもらおうと、この記事の一部を引用したところ、無断で引用するのは不適切ではないかと指摘を受けました。
事後的になってしまい、大変申し訳御座いませんが、引用を承認して頂けませんでしょうか?
引用はどうぞご自由になさってください。盗用は困りますが。どこどこからの引用というようにしてくだされば結構です。
引用させて頂いたのは匿名掲示板で、具体的には以下のURLの部分です。
itest.5ch.net/test/read.cgi/shihou/1539512011/47-48
いわゆる2ちゃんねるの掲示板で、かつて司法試験を受験して不合格になった人達が就職活動をするのがテーマになっています。
私もそうなのですが、35歳過ぎまで充分な社会経験も無いまま受験勉強を続けて不合格に終わり、他職種に就職しようとしても未経験では就職は極めて不利であり、年齢制限で志願すら出来ないこともあります。
私は運良く看護師になる事が出来ましたが、同じような境遇で就職先がなかなか見つからず苦しんでいる人も多いようです。
私は40歳を過ぎて未経験の仕事に飛び込んだのですが、若い人達のようにテキパキと仕事をする事が中々出来ず苦労しております。
人生は苦であると身に染みて感じる事もあります。
同じ様な境遇の人の力になれたらという気持ちはあるのですが、匿名掲示板で励ますくらいの事しか出来ません。
人生は苦であるとしても、私も含めて今後の人生を生きて行く道が見つかれば良いと思っております。
大変恐縮で申し訳ありませんが、上記の掲示板にこちらのブログのリンクを掲載させて頂いても宜しいでしょうか?
自分の理想と現実をどう折り合いをつけて歳を重ねるか、誰もが悩むことでしょう。過去を振り返り、無駄になったと考えず、それも今の自分のために糧となった肥やしとなっていかされたと思えるようでありたいですね。
インドで出会った青年は、イギリスに留学したいが、いくら優秀でも、今生では無理だと悟り、来世で自分は必ず留学すると言っていました。どこに生まれるかもわからないのですが、来世に向けて努力するというインド人の考え方は現実に幻滅することなく期待を抱き前向きに生きられる考え方なのだと思います。
もう6回目です。
もう長い事、私は妄想も幻覚もありません。
その代わり、苦しいけれど、自分を見失わない薬で主治医と調節しているのです。
過去の事はこだわらない、と言いますが、私は悪徳精神科医の犠牲者です。あの者の処方とアドバイスに従っていた人の中で、多くの自死者が出てしまったことでしょう。
私は心が折れそうです、お見捨てになったのですか?
お返事を拝見するのが怖いです。