住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

「仏の声なき説法を聞く」

2009年09月08日 17時45分15秒 | 仏教に関する様々なお話
(本日9/8朝日新聞愛読者企画「備後かんなべ歴史探訪の旅(企画・倉敷ツアーズ)」として、呉市と広島市から二団体が参詣された。國分寺の歴史に続き、以下のような話しをさせていただいた。)

はじめに、この本尊様は秘仏ということになっておりまして常に扉が閉まっております。多くのお寺でこのように扉を閉めたままの秘仏というところがあるわけですが、なぜ秘仏にしているのでしょうか。一つには神秘性の強調といわれます。また、秘仏ですとご開帳したとき、仏様が目の前に姿を表す疑似体験ができるからとする人もあります。また、保存のためだと言われますが、河内長野の観心寺の国宝如意輪観音様も、美しい原色の仏さまですが、国宝に指定されてからやはり毎年のご開帳で傷んできたと言われています。

で、私はというと、仏様は形ではないよということではないかと思っています。どうしても私たちは形にこだわってしまう。形からはいると鑑賞してしまうんですね、東京の国立博物館で、国内のものとしては最高の入館者があったと言われます、あの阿修羅像にしてもそう、はたして80万人のうち合掌してご覧になった方が何人おられたでしょうか。

姿形から何かを得ることもあるかもしれませんが、その仏様が自分にとってどれだけ意味のあるもの価値のあるものかという観点から接していないのです。皆様もこの本堂に入ってこられたとき、仏様に手を合わせられた方がありますか。まあ、それはいいとして。

ところで、「山川草木悉有仏性」という言葉があります。やまかわくさきで、さんせんそうぼく。しつうはことごとくある。ぶっしょうは、ほとけのせいしつと書きます。山も川も草木もみんな仏様なんだという意味です。山川草木悉皆成仏とも、また草木成仏とも言うようですが。環境問題の会合でも、時折この言葉が使われ、みんな仏様なんだから大切にしなくてはいけない、仏教はいいことを言うねぇと、まあそんな言い方もされているようですが。山も川も仏様というのは本当でしょうか。私はどうもへそ曲がりでして、何にでもケチを付ける、ほんまかいなと。で、どうして山も川も仏様なのか、この言葉の意味するところが私は分かりませんで、長年分からなかったのです。ですが、ある時、閃きまして、そうかと。

それは、仏様というのは何かと言えば、法を説く者、真理を説く人のことです。それで、山や川や草木はというとそれらをよくよく観察してみると、みんな自然の中でそのまま森羅万象の摂理、この世の真理を私たちに表現して説法してくれていると見ていくことが出来ます。だから仏様なのだと。そう思えたのです。いかがでしょうか、山も川も常に移り変わり、草木も一つとして同じものがない、周りの影響を受け常に変化している、無常や無我という真理をそのまま示してくれている。

そう捉えると山も川も草木もちゃんと仏様なんだということになります。ただ受け取る側がきちんとその説法を聞く受け取る努力をしなくてはいけない。ですから、このように自然を見るのと同じように、仏像を前にしたときも、姿形を見るだけではなくて、その仏様がお説きになっている真理、その説法の声なき声、メッセージを聞く味わうという努力を私たちはしていかなくてはいけないのではないかと思うのです。

それで、これからそのように、この本堂の仏様がたの説法メッセージとはどのようなものかという観点から見ていこうと思います。

まず、本尊様お薬師様は、薬の師、薬の先生と書きますように、私たちの体や心の病を癒してくださる仏様ですが、本堂の入り口の外の扁額に医王閣と書いてありまして、別名を医王、医者の王様な訳です。ですが、その昔インドで医王と言うとお釈迦様本人を指していました。

お釈迦様のところに行くと誰でも癒されてしまう。その説法も当時の医者の診断処方に則ったものだったと言われています。とても科学的論理的な話しをなさった。だから医王と、でどんなことをお話しになったかというと、私たちが生きるとは何か、なぜ苦しむのか、幸せとは何か、いかに生きるべきかということを諄々とお話しになったのです。これを四つの聖なる真理と言いますが、短くお薬師様のと言いますか、このお釈迦様のメッセージを申し上げますと、「この厳しい人生、苦しみ多いが、自分という執着を乗り越え、覚りを目指して、今を大切に生きよ」ということになろうかと思います。このパンフレットのお釈迦様の写真の下を読んで下さるとおおよそのことが書いてあります。

そして、日光月光両菩薩が厨子の中に一緒に祀られています。それから、インドの古い神である十二神将、そして右奥に真言宗祖弘法大師空海上人、そして地蔵菩薩、

お地蔵様のメッセージというと皆さんお分かりでしょうか。涎掛けをしますから、早くになくなったお子さんの霊を救ってくださる。それもあるのですが、本来は、六道に輪廻する衆生をみなお救いになるということで六地蔵、ですから、そのメッセージというのは、「私たちはみんな輪廻するんだと、死んで終わりではない、生き方によって違うところに生まれ変わる、地獄餓鬼畜生などに生まれないようにしなくてはいけない。少なくとも人間の心を持って人間界に生まれる。ないしは良いことをたくさんして天界に行く。そう自らを励まして正しく生きなさい」と、それがお地蔵様のメッセージだろうと思います。

そして胎蔵界金剛界の曼荼羅、左奥に奈良時代の高僧・行基菩薩、観音菩薩、

観音様を信仰されている人はありますか。慈悲の心を持って苦しんでいる人困っている人と同じ立場お姿になってお救い下さるという観音様ですが、ただ合掌してお救い下さい、助けて下さいというのではやはりいけないわけで、「皆さんも一緒に観音となって周りの人たちを助けてあげよう、共に寄り添うという思いをもって、誰彼となく差別したり分け隔てをしないように」というのが観音様のメッセージですね。

明治以降お預かりしている八幡神など

それで、このようにそれぞれのメッセージを表現されて沢山の仏様がおられるわけですが、この本堂の中心はどこだと、思われますか。本尊様でしょうか。

実はこの大壇と言っておりますが、この正方形の壇こそがこの本堂の中心なのです。真言宗寺院の他にない特徴と言えます。拝む仏様にこちらにお越し願ってこの塔の中の小さな仏様の御像にお招きする、ここに座った導師がその仏様と一体になって供養をする、正にここに仏様が顕現する。だから、まあ、ありがたい場所ということになる訳なのです。いろいろと器がありますが、火舎、六器、それらに盛られる御供えをお越しになった仏様に供養するというセッティングになっているのです。

最後にこの、内陣の小さな仏さんを見てください。西側に12体、東側に13体で都合25の菩薩さんたちがおられます。ご存知の方もあるかとは思いますが、来迎二十五菩薩の皆様です。普通は壁画に描かれることが多いのですが、このようにご像として祀られているのは珍しい。阿弥陀様の世界から私たちの臨終に際してお迎えに来てくださる仏様です。あれっ、本尊様はお薬師様なのに、阿弥陀様の世界にと思われるかもしれませんが、ここには現世の御利益を頂く仏様であるお薬師様でいいんですね。それでこの二十五菩薩さんたちは阿弥陀様の世界から迎えに来られた姿を現しているわけです。それで皆さん雲に乗っておられる。

では、これら来迎二十五菩薩様がたの、または阿弥陀様でもいいのですが、そのメッセージ、思いはどんなところにあるのでしょうか。何しててもいいよ、迎えに来てあげるから心配しなさんなということでしょうか。真宗門徒の皆様も多いと思いますが、法然さん親鸞さんはどんな方だったとお思いですか。私が知るところでは誠に深く自分自身について思索をなさった方であったと、とても厳しくおのれを見つめられた方だったと伺っております。

それは阿弥陀様の御心を深く理解されてのことと考えるならば、やはり私たちも、何をしてても阿弥陀さんが迎えてくれると考えるのはいささか軽率かもしれません。やはり、「もう来世のこと、死後のことは引き受けた、それは捨て置いて今のこと現世のことを自分を厳しく見つめつつしっかりやりなさい」ということではないかと思うのです。

そして、こういう話しをしていますと、他力という言葉が思い出されるわけですが、皆様よくご存知ですね。他力は、自分が全く努力しなくても仏様の働きで何事も上手く進む、ただ信じておればいい、そんな教えではありませんね。そうではなくて、自分が懸命に努力しながら、何か成し遂げていく、しかし、その底のところ足元を見てみると自分ではない他の者によって成り立たしめられている、他の大きなものに支えられているということに気づく、そういう中で知られてくるもの、自分とは他によって存在せしめられているという感覚、そういうものだと思うのです。

が実は、それは正にお釈迦様のお覚りになられた縁起という考え方そのものでもあるのです。縁起というのは、これあるからかれあり、これなければかれなしということで、すべてのものが縁起して他のものの影響関わりのもとに成立している。すべての物事がそうして繋がっている、他があるから自分があるという感覚。これを空とも言うわけですが、2500年前の仏教も、大乗仏教も、そして親鸞さんの教えもみんな深いところで繋がっている。仏教というのは学んでいてとてもおもしろいなと思うんです。

少し脱線してしまいましたが、以上、お祀りしている仏様がたのそれぞれの声なき説法と言いますか、発しておられるだろうメッセージを聞くという観点からお話しをさせていただきました。いかがでしたでしょうか。仏様がたの願いは、「私たちを慈悲深く見守ってくださっているというよりも、やはり、しっかりと覚りを目標に励みなさいという熱いエールを私たちに送って下さっている」ようです。皆様も歴史探訪の旅の後は、是非いろいろと疑問を持って仏教を探求し仏様の声をお聞きになってみて欲しいと思います。・・・・。

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13 コメント

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質問です (仏教を勉強中の小僧)
2009-09-08 19:15:20
執着を無くす、非常に難しいですね。お金、物、地位、et cetera 。生きる事への執着?いかに無くせるのですか?六道輪廻は死後ですか?生きてる人の心の中ではないですか?一瞬で仏から修羅になったりしますからね。
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Unknown (全雄)
2009-09-09 06:27:04
仏教を勉強中の小僧様、お越し下さりコメントを残してくださいまして、ありがとうございます。

今どんなことを勉強されていますか。一度に何もかも達成することは出来ません。一つずつ、小さなものから捨てていってはいかがでしょうか。手放す、そこから得られるものを知れば他のものも捨てられるようになる。

輪廻は世界の仏教徒の常識と言ってもいいほどの当たり前の考え方です。世界基準の仏教を学ぶことがこれからの日本人には必要なことではないかと思います。
返信する
Unknown (小僧)
2009-09-09 07:16:04
おはようございます。僕は今高三で来年大学受験です。受かっても受から無くても来年の夏にタイ、インドのお寺を放浪しながら廻りたいと計画中です。親を説得中です。(旅費はバイトの貯金)将来、仏教に関わる仕事を目指してます。僕の周りには仏教に感関心が有る人がいません。お寺に聞きに行きたいけど、入りづらいです。色んな仏教の本を読んでても理解出来ない事が多いです。理解出来る様になれたら凄く嬉しいでしょうね。仏教を肌で感じて生きて行けたら、くだらない悩みは無くなるでしょうかね。
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Unknown (全雄)
2009-09-09 12:11:15
小僧様へ、

大学は仏教を勉強するために行かれるのでしょうか。是非よい大学でよい先生に出会われることでしょう。

インドへ行くのは一人ということでしょうが、危険もつきものですから、慎重に旅されることを申し上げておきたいと思います。

仏教の本は何をお読みですか。ホームページ「ナマステ・ブッダ」にも推奨本が掲示してあります。

また何かありましたら、そのホームページの掲示板下部からメールすることができますので、またお尋ね下さい。
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Unknown (小僧)
2009-09-09 18:44:30
ありがとうございます。書籍はホームページを見て注文しました。大学は駒沢大学仏教学科です。
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お話に感謝 (信濃大門)
2009-09-10 05:40:03
 勝手にブックマークをさせてもらっています。とても身に染み渡るお話に感謝です。
 仏の声は縁によりいつも聞くことができます。聞く耳をもつこと、心のみ見、心の眼重要なことを感じました。
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信濃様 (全雄)
2009-09-10 07:48:07
信濃大門様、ようこそお越し下りコメントまで恐縮です。

日本人にとって、もっともっと仏教が身近なものに、また大切なものになることを願っています。

リンク、ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします。
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訂正願います (権兵衛)
2009-09-13 11:28:12
なかなか興味深い内容うようですが途中からかなり脱線していますね。
脱線も話しの広がりをもたらすので悪くは無いと思います。
ただ貴君の思いはどうも偏りがあるように思える。
以前もあったが特に浄土教系に対してはそうだ。
なんで空海には上人という尊称を使い法然や親鸞はさん呼ばわりなのですか。
自分の宗派にこだわる心が見えて説得力に欠けますよ。
法然、親鸞を上人という表現に変えてください。
両宗派に失礼だと思います。
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Unknown (全雄)
2009-09-14 08:24:48
権兵衛様

いつもお越し下り恐縮です。また度々コメントまで残していただきましてありがたきことと存じます。

一度きちんとご挨拶申し上げたく、出来ればどのようなお立場のお方かお教え下さいませんか。ナマステブッダ掲示板下から直接メールを頂戴できれば、個人的にご返信申し上げます。

ありがとうございました。
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Shahpuhrさま (全雄)
2009-09-18 08:39:00
いつもお越し下りまして、恐縮いたします。御大師様に対して、上人という称号、たしかに不具合ということは存じております。上人というのは、鎌倉以降あたりから遁世した、つまり官僧を脱した立派な僧を指すのではなかったかと思います。

ですが、明治以降あたりからの書物を拝見しますと、真言宗の高僧方でも、この上人を御大師様に使っておられる方もあり、時代と共に宗派にもとらわれず使用されているものですから、普段はこのように言うこともないのですが、特にこの日は、門徒さんばかりだったので、使ってしまったというわけです。今後は気をつけたいと思います。

なお、堀沢師については、インドのサールナートで一度お会いしたことがあります。それ以来何の交流もありませんので、特別に思うこともありません。

仏教は、特に日本において、正確に伝わっていないところが多くあります。しかし、様々な方の努力によって、特にこうしたインターネットの時代には何が正しく何がおかしいのかは次第に明らかになり、じわじわと浸透していくことでしょう。その兆しが既に現れ始めていると思っています。

また写真のことですが、こちらも京都に行く機会もありましょうから、その折にでもお参りさせていただきます。いろいろとご配慮いただきまして、ありがとうございます。
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