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四苦八苦をやわらげるために

2022年04月29日 16時32分55秒 | 仏教に関する様々なお話
四苦八苦をやわらげるために



四苦八苦の人生

私たちは意識するしないにかかわらず四苦八苦の人生を生きている。仏教では、煩悩のままに生きるていること自体が苦であるとするが、それは四苦の中に生も老も含まれていることからも知られる。生苦は生れる苦しみ、老苦はそれからの一生に着いてまわる老いる苦しみ。私たちは泣いて生まれても、笑って生きていたいものではあるが、その間に病いになることもあり、いずれは死を迎えてしまう。この生老病死の四つの苦しみのほかに、この後述べる八苦に悩まされ続けていることも経験上思い当たる。

八苦とはこの四苦のほかに別に四つの苦しみ、求不得苦・怨憎会苦・愛別離苦・五取蘊苦をあわせて八苦というが、これも定めのように私たちについてまわる。普段私たちは考えもしないが常に老死が隣り合わせにある。深刻な病気が発覚するかもしれないし事故に遭うかもしれない。生まれてきた以上、いずれは死がやってくる。どんなに科学が進歩しても不老長寿などあり得ないのだから、この求めても得られない苦しみ・求不得苦は一生の間私たちの喉元に突き付けられた苦しみとしてある。

そんな人生なら、仲の良い人、心楽しい人たちと生きていたいと思っても、必ずそりの合わない人、考えの対立する人、心を逆なでするような人と出会う。それは私たち人間社会の常であり、そうした嫌いな人、怨み憎しみあう人と出会わねばならない苦しみ・怨憎会苦も誰もがものごころついた頃から老いる迄ついてくる苦しみとしてある。

その逆に、肉親や兄弟姉妹も含め、大切な人、この人とはいつまでも仲良く一緒に交際していたいと思った人でも、時間の経過とともに距離が離れたり、疎遠になったり、もしくは死に別れたりということがある。愛すべき人と別れ離れざるを得ない苦しみ・愛別離苦も誰もが何度も経験しなければならない。

さらに、こうして心と身体を持つ身なるが故に様々な欲求欲望が自ずから湧いて自ら苦しみを作り出している。五蘊といわれる、自らの身体のほかにも物質的なものや精神的なものに対する自分勝手な思いにより執着をつのらせて苦しむ・五取蘊苦が、前の七つの苦を総括するものとして八つ目の苦にあげられている。

四苦八苦はただ受け入れるしかないのか

これら四苦八苦は、迷いの世界に生きる私たちには必ずおとずれる苦しみであるとされ、その苦しみを現実のものと認識してその原因を知り、正しく仏道を学び一心に瞑想実践してその原因を滅し消していくことにより苦しみから解放されるとするのではあるが、四苦八苦の苦しみを少しでも和らいだものにするすべがあるなら知りたいのが人情であろう。いずれにせよ受け入れねばならない四苦八苦であったとしても、すこしでもその苦しみを軽いものにするにはどう生きたらよいのか。

はじめの四苦はこの世は無常なのであるから、必定のこととして諦めねばならないのだろうか。確かに無常なるが故に、私たちは成長し学ぶこともできるし、出会い別れを経験して心豊かに生きることもできる。喜びがあり幸せと思うことも経験させてくれる。しかし、その中でも生苦は、母胎から出産することではなく、輪廻する衆生として生を受けることを言うのでこうして人間として生を受けている限りいかんともしがたいが、残りの老病死はいかがであろう。老と病について、何とかその苦しみを軽いものにするにはどうするか、かつてこのブログに書いた文章を引用してみたい。

老苦を生きるには

「若々しくあるために」と題して2009年5月に投稿した文章から、体の衰えを感じつつも心は若々しくいられたら、すこしは老苦を和らげることにはならないかと思うのであるがいかがであろう。

「まず第一に、今に生きるということ。私たちはどうしても過去にこだわり未来に希望や望みを託す。そして今がおろそかになる。「一夜賢者経」という経典にお釈迦様が教えられているように、過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来たらず。ただいまなすべきことを正になせ。これである。あれこれ過去のことを後悔したり、また過去の栄光に酔ってみたり。過去は過去であって、今のあなたではない。また、先のことを心配し、将来の絵空事に胸を沸き立たせるということもあるかもしれないが、それも今のあなたではない。今にあなたがいないから今のあなたがもの足りない空虚感に苛まれている。あなたは今ここにしかいないということを知るべきであろう。今のあなたが充実して楽しく明るい心であったなら、日々若々しい心でいるということになるのではないか。

第二に、自分のこと、周りのこと、とにかく好奇心をもって様々な物事やその変化に気づくこと。漫然と時を過ごしていては、楽しいことはない。人の言うこと、周りの情勢に流され鵜呑みにしていては、自分自身にとって何の発展も成長もない。日々、何事かに気づき、疑問に感じ、自ら考える。気づくということ。好奇心旺盛であれば、常に心若々しく過ごせるであろう。

第三に、年を忘れるということ。年を意識することで閉鎖的な発想に陥る。年だから何とかというのが口癖になったりする。身体とは相談しなくてはいけないかも知れないが、そうでなければ年を意識せず何にでもチャレンジする元気が必要だろう。また、年を忘れるというのは、誰をも平等な目で見られるということでもある。年による上も下もなく、みんなを分け隔てなく見ることが必要だろう。年で相手を見るということは自分の年を意識しているということだから、そこからは若々しい心は生まれない。

ところで、仕事別に長寿度を測定すると、やはり、僧侶や医者というのが最も長寿ということになるらしい。昔、「童心は道心なり」と言われ、インドで貧しい子供たちの成長を楽しみにボランティアを続けておられる長老がいる。はたして、あの良寛さんもそう言われたかどうかは知らないが、良寛さんは、飄々と小さな庵に住まい、托鉢して暮らしていた。良寛さんも、近くの子供たちとは、まこと自分を忘れて、童心そのものになって遊んだと言われている。

自分を忘れるというと、「忘己利他」という言葉が思い出される。自分自分という思いが私たちの苦しみの根源にあり、それを忘れ他と共に生きることができれば幸いであろう。自分という思いが過去の記憶だとするならば、やはり、過去ではなく今に生きることが大切だということにもなる。それは、年を忘れるということにもつながる。まずは目の前の現実を見つつ、様々なことに気づき、今に生きる。とっさに答えたことではあったが、結局は、仏教の瞑想をそのまま日常にいかすということが、もっとも、若々しい心で生きることができるということに結論づけられたようである。」

今という瞬間にのみ思いをいたして生きる。好奇心を持って生き、歳のこと自分のことなど忘れて他のために一生懸命に生きる、そうすればたとえ身体は老いても、おのずと心は老いずに生きられはしまいか。

病苦をさける生き方

次に、病苦について、2006年4月「天寿を全うするために『病気にならない生き方』を読んで」と題して、新谷弘実先生(胃腸内視鏡外科医・アルバート・アインシュタイン医科大学外科教授)の著作から学ばせていただいたことをブログに書いたものを参考にしてもらって、できるだけ病気にならないで過ごすにはどういう生き方をしたらよいのだろうか。

「世間で健康のためと思いしがちな所謂食の常識を斬り捨てる。緑茶やコーヒーを含むお茶を常飲している人の胃は胃の粘膜が薄くなり萎縮性胃炎となり、胃ガンになりやすい。肉食は成長を早める、がそれはつまり老化を早めることである。牛乳は脂肪分を均等化するために攪拌する過程で乳脂肪分が過酸化脂質、つまり錆びた油になり、さらに殺菌のために百度以上の高温にするためタンパク質を変質させ、エンザイム(体内酵素のことで、動物でも植物でも生命があるところに必ず存在して物質の合成や分解、輸送排出解毒など生命を維持するために必要な活動をしてくれるタンパク質の触媒のこと)も死滅した最悪の飲物だと言われる。そして、カルシウムを補給するためと推奨され牛乳を飲む人も多いが、飲むと血中カルシウム濃度が急激に上がり、その濃度を体は通常値に戻そうとして恒常性コントロールによって逆に体内のカルシウム量を減らしてしまうので、本当は骨粗鬆症のためにもマイナスであるという。

さらに腸整効果があるとされるヨーグルトを常食している人の腸相も良くない。そして、植物油だからと多用されるマーガリンも。市販されている食用油の多くは溶剤抽出法という原材料に化学溶剤を入れて抽出される。この油は悪玉コレステロールを増やしガン、高血圧、心臓疾患の原因になる。この油を用いた代表選手がマーガリンであり、またスナック菓子に使われるショートニングであるという。またガン患者の食歴から、肉、魚、卵、牛乳など動物食を沢山摂っていた人はガンになりやすく、特に早い年齢でガンになる人ほど幼い頃から頻繁に肉、乳製品など動物食に偏っていたことが分かっているという。

ガンを含めどんな病気もその原因があり、薬に頼りきることなくその原因こそ取り除く必要がある。どんな薬も基本的に薬は毒であり、症状を抑えることは出来ても、薬で病気を根本的に治すことは出来ない。食事の量や質、時間やストレスなどその病気の原因そのものが除かれない限り根本的に健康を回復することは出来ないと断言される。

では私たちは何を食べるべきなのか。先生は動物の食性を表す歯に注目される。人間の場合、肉を食べる歯が一なのに比べ植物を食べる歯が七あるということから、植物食を85パーセント、動物食を15パーセントにすべきであると言われる。つまり、穀物を50パーセント、野菜や果物が35から40パーセント、動物食は10から15パーセントとし、穀物は玄米など精製していないもの、他のものもなるべくエンザイムを沢山含む新鮮な物がよい。動物食は人間より体温の低い魚で摂るのがよく、牛乳、乳製品、マーガリンは避け、揚げ物もなるべく摂らないこと。

そして、一口に50回程度よく噛み、消化されやすくする必要がある。なぜならば腸壁で吸収されなかった場合、過剰に食べた場合同様に腸内で腐敗、異常発酵が起きるため、その解毒にエンザイムが浪費されるからだという。よく噛むことで食事に時間がかかり、その間に血糖値が上がり食欲も抑制され、食べ過ぎを防ぐことが出来る。つまりダイエットにもなり、腹八分目でも満腹感が得られる。小食を心がける必要がある。出来れば子供の時からこうした食習慣を身につけるのが良いという。

なぜなら、病気は遺伝ではなく、その生活習慣の継承にあるから、といわれる。良い食材、良い水を摂り、規則正しい生活をして薬は極力飲まない、そうした体によい習慣を受け継げば子供は苦労せずに健康を維持し続けることが出来るであろう。そして、糖分、カフェイン、アルコール、添加物が細胞や血液から水分を奪い血をドロドロにしてしまうジュース、ビール、コーヒーやお茶を水代わりに飲むことなく、血液の流れを良くし新陳代謝をスムーズにするためには、よい水を毎日1500から2000cc飲むのが良いのだそうだ。先生は、朝起きがけに500cc、昼食と夕食の一時間前に500ccずつあまり冷たくない浄水を飲まれているという。良い水はダイオキシンや様々な環境汚染物質、食品添加物もちゃんと体外に排出し、バイ菌やウイルスが侵入しやすい気管支や胃腸の粘膜も良い水によって潤っていると免疫細胞の働きが活発化してウイルスの侵入しにくい場所になるともいう。

そして、食事以外のことで必要なのが、3、4キロを歩くなどの軽い運動と、十分な睡眠、また昼食後の昼寝なども大切なこと。それから、副交感神経を刺激して精神の安定を促し免疫機能を高める深呼吸を暇さえあればすること。そして、ストレスのない愛情に充ちた幸福感を感じる生活をするならば天寿を全うできるであろうと結論される。勿論これら総てをすぐに実行することは難しいかもしれない。家族もあり、一人だけ食べ物を替えることは簡単なことではない。しかし出来ることから実行することで少しでも良い方向に変えていけるのではないか。特に持病に悩み薬に頼ることに疑問を感じ始めている人には朗報であろう。」

いかがであろうか。これはあくまでも一人の先生の著作からの教えではあるが、病苦をなるべくやさしいものにすべく、このように生きられたら無病息災に長く生きられはしないであろうか。

死苦の迎え方

そして、さらに四苦の最後には死苦が来るわけだが、どのような最期を私たちは迎えるか。その時に至って後悔ばかりが残るその時は迎えたくないものである。周りの人たちに感謝を述べ、温かい良好な人間関係により惜しまれつつ最期を迎えるにはいかに生きるべきなのか。一般に仏教徒の戒である五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)、さらには十善(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見)を心掛けるだけでも良好な人間関係は築けるであろう。

ところで、アメリカには救命士という制度があって、事故や災害などによって余命幾ばくかもない人の所に駆けつけていろいろと処置する人たちがいる。ニューヨーク州の救急救命士マシュー・オライリー氏は、死の直前、人が最後に思うことには三つあるという。一つは、許しを請うこと。人にはみんな後悔することや心にやましいことの一つ二つはあるが。それらについて謝り許しを請う気持ちが沸いてくるという。二つ目には、憶えていて欲しいという気持ち。誰にも忘れ去られていく寂しさ、悲しみがあるが、死に及んで死後も出来れば親しかった人、愛する人たち、誰かの心の中で生き続けていたいという思い。三つ目は、人生に意味があったと知りたいということ。自分の人生、一生が無意味なものではなかった、しっかり生きてきた、みんなのために役に立つ、立派な、よい人生だったと知りたいのだという。

何十年も生きてきたら後悔することもいくつかはあるのが普通であろう。しかし後悔するのも煩悩の一つと数えるのが仏教である。過去を回想し、過ちや失敗を思い出しては悔いるということもあるかもしれない。しかし、それよりも、今の行いについて自らの心に、また周りの人たちに恥じない行いをすることが必要だと教えられている。そうして良好な円満な人間関係を心掛けつつ、安心してその時を迎える。さらには、最後の時にあたって、自分の人生について回想し、それがいかに意味あるものであったかを思い、満足して最後の時を迎えたいものである。日頃からそんなことを一人静かに考えることも死苦に対処するために必要なことであろう。

残りの四つの苦しみに対処する

ここまで、四苦について思い当たることを述べてみた。次に、残りの四つの苦しみについても思いつくことを述べてみたい。

まず、求不得苦は、不死を求めてももちろん得られないわけだが、老いてなお身体的に若くありたいと願う人は多い。このほかにも巷にあふれる様々な情報から求めるべきものでないものを欲して様々な問題を起こすこともある。周りと比較して欲を掻き立てられることもある。他と比較するのではなく、自分にあるもの、持てるものに目を向けてみれば、新たな価値を見出し、求めるということ自体から開放されるのではないか。

次に、怨憎会苦、愛別離苦については、すべての出会いに因縁あり、それも無常であることをまずは知るべきではないか。永遠なるものはないことを思い、嫌いな相手もいずれは去るものであり、愛する者もいずれは離れゆくものと心得る。かつてあれほど苦手で嫌いだった人が、いつの間にか自分を守ってくれる身近な存在として感じられる人であったと気づかされることもある。好きな相手も自分を束縛し、依存してしまっている自分に気づくこともある。その関係も時間の経過とともに愛憎が変化するのを冷静に観察しつつあれば、いざという時の苦しみも軽減されるのではないかと思われる。

最後に、五取蘊苦については、執着をもって生きることがそのまま苦であるとする仏教の教えを学び実践することこそがこの苦に対処することにはなるのだが、その実践の中でも少欲知足が最も基本的な生活態度であろう。眼耳鼻舌身意の五官と心に入るものに欲を掻き立てられ翻弄されないよう、余計なものを見ない聞かない嗅がない味あわない触らない考えないに尽きるが、入るものを遮断することも必要だし、入っても自分のこととせずそのまま流してしまう習慣を身につけることも必要である。

以上八苦についていかに対処すべきか思いめぐらしてみた。必ず訪れる四苦八苦なれども、各々ここに挙げたことなどを参考にしてやり過ごす、また苦をいくらかでも和らげられる工夫として考えてみたのであるが、いかがであろうか。


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