住職のひとりごと

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幅広く仏教について考える

わかりやすい仏教史⑥ー仏教中国化の歴史 2

2007年07月25日 08時32分32秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
入竺求法僧法顕

羅什到着前の三九九年、法顕(三七七ー四二二)は六十歳を過ぎてから、同学十余人とともに、当時未だ完備されていない律蔵を求めてインドにいたり、グプタ王朝の都パータリプッタでサンスクリット語を学び、聖典を書写。また帰路セイロン島に滞在して経や律を入手するなどして、四一三年海路帰国。最初の入竺求法僧となりました。

彼は主に戒律に関する梵本(サンスクリット語原本)や部派教団所伝の経典などを持ち帰りました。これらを帰国後、自力でまた同学とともに翻訳し、それにより中国には完全な律蔵が四種類備わることになりました。そして、これらが比較研究され、僧団の運営や受戒、布薩、安居といった様々な作法や行事の仕方が正しく理解されるようになりました。

また法顕の後にも、次々にインドで仏教を見聞したお坊さんが現れ、この頃から直接インドの仏教が取り入れられ研究されるようになりました。
 
仏教弾圧と護法運動

東晋時代(三一七ー四二〇)にその基礎を築いた仏教は、南北朝時代になると、上層階級ばかりか庶民にも深く浸透していきました。仏教は、老荘思想に神仙の教えを付加して発展した道教や儒教をも圧倒し栄え、北朝の胡族朝廷をも仏教化していきました。

道教は、南北朝時代に仏教をまねて教団を組織化し、三蔵にならって道教経典を作成するなどして、仏教に対立する勢力となっていました。

そうした組織化に貢献したのが道士寇謙之であり、彼を信任し道教を信仰していた北魏の太武帝(在位四二三ー四五二)は儒士崔浩らの言を入れ、四四六年、僧尼の増加や瀟洒な寺院が数多く造営されることによる国家財政の圧迫と僧尼の堕落から、仏教教団の大整理を断行。堂塔を壊し、仏像経巻を焼き、僧尼をことごとく還俗させました。

これが「三武一宗の法難」といわれる中国で行われた廃仏の最初で、次の文成帝の時、早くも仏教復興がはかられます。潜伏していた仏教徒は、急速な復興に取り組み、破却された堂塔を再興し、重刑囚を労働力として受け入れて寺田の耕作や開拓に奉仕させるなど、社会奉仕事業にも着手しました。

洛陽遷都後は北魏の仏教興隆をしたって数千もの外国僧が来訪したと言われ、洛陽には天宮の如く壮大な大伽藍が甍をつらね、金碧をもって荘厳した千あまりもの寺院が建ち並んでいました。北魏末には、僧尼二百万、寺院は三万余りに達していたと言われています。しかし、その後も北シナでは、北周の武帝(在位五六〇ー五七八)の時大規模な廃仏が行われました。

こうした廃仏は、かえって仏教護法運動を惹起させ、雲崗や竜門などに石窟寺院が開鑿されて大小様々な石仏が彫られ、泰山、徂徠山には経文を永久に残すため、経典の文字を石に刻した石経が作られていきました。

菩薩天子ー梁の武帝

南朝では、歴代の王や貴族が仏教を愛好し、建康を中心に仏教は盛んでした。特に、梁の武帝(在位五〇二ー五四九)は、即位以前から多くの仏典に親しみ、仏教を国教と定めました。五十歳を過ぎると、女色も断ち菜食し質素な生活を心がけました。そして、国王たるものは、お釈迦様から仏教を護持し興隆すべき遺嘱を受けているものとの信念から、梁仏教界の全僧尼に酒肉を断つことを制約させました。

さらに武帝は、社会救済事業のための基金を設けたり、宮城の北に建立した同泰寺にて自ら仏典を講じたり法要をつとめ、また度々自身を三宝に寄付して捨身し、寺の労役に服したと言われています。天子を寺から買い戻すために、王室や臣僚は莫大な財物を同泰寺に布施したということです。

武帝は盂蘭盆会を南京でいち早く営み、また北朝では、灌仏会(お釈迦様の生誕祭)が洛陽最大の大祭となるなど、この頃には仏教行事も中国社会の中で定着しておりました。

仏教受容の特徴②

[国家仏教へ]仏教僧団は、もともと国家の統制外にあって、法律的にも経済的にも国家から出世間として認められる存在でありました。人々の任意の布施により成り立ち、法臘(出家後の年数)によってその序列が決められ、一切の身分制度から自由でありました。

しかし、中国では、伝来当初から国家の庇護のもとに普及し、官寺が次々に建てられるなど、もともと国家と強く結びついていました。そして、民衆の反乱や煽動に道教や仏教が利用され宗教一揆が起こり、また貴族が免税される寺院に土地を寄進したことにして脱税をしたり、税金逃れのためにお坊さんになる者もありました。そのため国家による統制が必要となり、中国の仏教教団は次第に国家機構の中に組み入れられることになりました。

東晋の安帝(在位四〇二ー四〇五)の時、僧尼を統率し諸大寺を管理するために僧主、悦衆、僧録の三職を置く、僧綱の制度がさだめられました。後には、僧正、都維那、僧都など、今日我が国でも用いられる名称が使われ、僧尼が中国の身分制度の一端として組織されることとなりました。が、本来出家者がこのような官職に就くということは、仏教にはあり得ないことでありました。

そして、南北朝時代の北魏において、四九三年「僧制四十七条」が制定され、国家統制に入るさきがけとなりました。

[大乗戒の誕生]中国での訳経はそのはじめから大乗経典が中心であった訳ではなく、五世紀の初めまではかえって部派教団所伝の三蔵が、はるかに大乗経典を凌いでいました。しかしながらそれら部派仏教の研究はあまり行われずに、次第に中国仏教は大乗一色に塗りつぶされていきました。

そして、中国仏教は純大乗仏教であるとの立場から、戒律も大乗の菩薩に相応しい利他の精神に基づいた戒を受持すべきであるとしました。そのため五世紀中頃、菩薩戒を説く「梵網経」が中国において制作されたと言われています。在家出家を区別せず衆生共通の戒として、仏性の自覚のもとに十重禁戒、四十八軽戒を説く梵網戒が、その後中国仏教界に広く浸透していきました。

[儒教との融合]中国では、社会の基盤として儒教があり、親に対する孝、君に対する忠が重んじられておりました。ところが、仏教は孝という徳目を特別に強調しないばかりか、出家は親に仕えず子孫も作らず、親の死後その霊魂の祭りも出来ない。儒教思想からすればこれ以上の親不孝はないとの非難が起こりました。そこで「父母恩重経」が中国にて作られ、それによってお釈迦様も孝の道を説いたとされました。

そして、儒教において後漢ごろから招魂儀礼の形代とされた木主を、仏教にても位牌として依用し、もともと仏教になかった追善供養を営むという儒教の習慣が採り入れられていきました。そのため「盂蘭盆経」という祖先供養を説く経典までも中国にて作られたと言われています。

このように仏教は中国に入り、中国社会に相応しい経典まで新たに作られ、中国化することによって広まり、いわゆる中国仏教が形成されていきました。

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「日本呉音」が南朝的色彩が濃厚であることの理由 (嶋田一雄)
2008-11-18 13:57:36
大変興味深く拝読させて頂きました。
拝見した切っ掛けは、日本最初の漢字音と思われる「日本呉音」が仏教経典と共に大陸から渡来したのではないかとの推測から、仏教経典と支那大陸南朝との関係をネットで検索している過程で、このブログを発見させて頂きました。
日本列島に現存している最古の文書は、ことごとく仏教関係のもののようですが、支那大陸への仏教の伝来が、ご指摘のように、最初はシルクロード・西域を経由したものであると致しますと、日本最初の漢字音と思われる「日本呉音」が南朝的色彩が濃厚であることの理由が腑に落ちません。
どうかご教示の程、御願い申し上げます。08.11.18
嶋田一雄 < pithecan1894@gmail.com > 
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