住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

お寺とは何か

2005年12月08日 17時10分09秒 | 様々な出来事について
先日ある葬儀社から電話があり、「亡くなった人があるから枕経に来てはくれまいか」ということでした。即座に「お寺の檀徒になって下さらないといけないのですが、いかがでしょうか」と問うと、そのようにすると言われている、とのことでした。

そこで、枕経に伺ったところ、先に亡くなられた方の、生年やら生前の人となりを聞いていると、喪主さんから気にかかっていた葬儀に係る費用について質問があり、結局、それなら結構ですということで、お経もあげずに帰って参りました。

お寺を葬祭関係の便利屋だと思っておられるのか、死んだときだけ来てもらえればいいと思われているのかとも思えました。葬儀屋さんの下請けとでもお考えなのかと思うと閉口します。お寺とは何か。坊さんの仕事とは何か。そんなことを改めて考えさせられました。

今日、寺の役割は誠に限定したものとなっているような印象を誰もが持っているようです。葬式法事、先祖供養の法要がお寺の主たる業務とでも言える現状なのかもしれません。だとすれば、電話で人が亡くなったからといって、出前を取るように坊さんを呼べばいいと思われても仕方ないことなのかもしれません。

私たち僧侶にとって、誠に原初的な問いかけを自らにすべき問題なのかもしれません。私は何のために僧侶なのかと。私は何をするために坊さんになったのか。そのことに自らはっきりと答えを出すことによって初めて、お寺のあり方、僧侶の役割、葬式に対する姿勢について答えうるのではないかと思います。

もしも、僧侶としてただ葬式法事が自分の業務であると思うような人が万が一いたとしたなら、その人は、お経をあげたとしても、その問いに答えることは出来ないでしょう。出家の目的とは何かをはっきりと自覚することによって初めて亡くなった人にも剃髪させ、戒を授け、引導を渡すことも出来るのではないでしょうか。葬式は日本においては、正に出家の儀礼そのものなのですから。

僧侶は、本来自ら悟りを求めるため、ないし自己研磨のために出家するものだと言われます。だとするならば、お寺は修行をする場であり、単に儀礼の執行者、建物の管理人の住処などではないのは当たり前のことです。

お寺は、それぞれの僧侶の修行に加え、縁ある人たちにその修行の法味をお分けするために、また多くの人々の幸せのためにも様々な活動をしなければなりません。布教をしたり、様々な行事を通じて教えを伝えていくことも大切なことです。そして今日ではお寺にとって、お寺の建物を整備し、僧侶の生活を支えつつ、仏教徒として教えを学び、お寺の活動を支援する多くの信仰者を必要とします。

その信仰する人々にとって、そのことは、つまりお寺を護持するということは、自らの良い来世を迎えるために、また先祖の供養のためにも、とても大きな功徳となるものです。その功徳を得る人々こそがお寺の檀徒であり、お寺を維持発展させていく大切な人たちです。

そして、お寺にとって大切なその方々の中に万が一不幸があったならば、お寺に住持する僧侶が馳せ参じ、死後の冥福を祈り、来世での行く末を案じ引導を懇ろに渡すのは当然のことです。誰かが亡くなったときに葬式を頼まなくてはいけないからお寺があるわけではないのです。

このお寺と檀徒、住持する僧と檀徒との自然な信頼関係、お互いに思いやる関係こそが寺檀制度となり今日に至っているものなのだと思います。この寺檀制度、檀家制度は江戸時代には法で縛られたものでしたが、今日では法による拘束力はありません。ですから、仏教の教えやお寺が嫌ならいつ離檀しても差し支えないのです。

しかし今日まで、江戸時代から結ばれたこの関係がこうして21世紀にまでほぼそのままに維持されているのは、このあり方が人の死という場面での安心とともに日常にも檀那寺がある安心感、先祖代々支えてきたお寺があるという誇り、そして勿論そのお寺の様々な活動、教えを受け入れ心の安寧を得ているということを多くの日本人が感じているからなのだと思えます。

今日、そのことに甘え、本来のあるべき姿を忘れてしまった僧侶が多いことも事実のようです。何よりも、私自身が本気で悟りを求め修行に打ち込んでいるのかと問われることなのでしょう。日常の雑事に流される中で、常に自問し続けていかねばならないことなのだと思います。

また例え檀那寺があったとしても仏教徒としての意識も希薄で、仏教ばかりか宗教に価値を見出し得ない人々も多い世の中です。今一度、檀那寺を持つ人も持たない人も、生きるとはいかなることか、いかに死を迎えるべきか、お寺とは何か、ということをあらためて自らに問い直して欲しいものだと思います。

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10 コメント

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勉強不足 (fky)
2005-12-15 21:00:15
政教分離か何か知らないが

宗教の何たることか?

何を目的に 

何を教え

何をしているのか

イスラムは キリストは ブッタは?

公的に 何も教えられていない現代社会

どう考え、どう選択し、どう活用するか?



あまりにも 無知であろう

宗教は 火や金と同様であろうか

使い方を誤ると大変危険である

それを個人の自由ということでいいのだろうか?



昔は 武士道、儒教、修身?

今 何が 生きていく道を教えてくれるのだろう

便利で 楽をする生き方

自由と人権と平等、個人だけを教え



節約、責任、義務、扶助はどこに

日本の美徳である『人』を教えていない



祖先から自分へ そして子孫への

流れ、恩送りでしょうか

自分がその歴史の中にいることを!

自分だけでないことを! 

慈悲を!知恵を!



今 歩き遍路で

歩きながら考える。歩くことは学ぶこと。
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お寺に期待すること (とんぼ玉)
2006-01-03 21:14:31
はじめまして

ある寺のホームページからリンクをつたってこの日記にたどり着きました。

当たり前のお話なのですが、とても真剣に書かれた日記の内容に感動しました。

私自身、不信心者で、以前は寺や僧侶の役目は葬式や法要のためだけとしか考えていませんでした。



私はちょうど一年前に、我が家の檀那寺とは無関係なある寺のご住職様と知り合うご縁をいただき、その寺に出入りさせていただくようになりました。

最初は気軽な遊びのようなつもりで、ご住職のお仕事の邪魔をしておりました。

そのような中で、初めて寺の運営やお勤め、行事の大変さを知りました。

定期的な行事をこなしつつ、通夜や葬儀などにいつお呼び出しがかかるかわからないから、一般人のように家を留守にすることも出来ない。

このような僧侶の生活は普段、寺の外に居る人間には全くわからないものです。



その数か月後、突然に私の父が亡くなるという出来事が起こり、それまで他人事だった人の死が急に身近な問題となってしまいました。

自分なりにいろいろ悩む中で、(檀那寺には申し訳ないことですが、)知り合いになったご住職様との交流を通して、人の死にどのように対処すべきかを教えられたように思います。



自死に向かう人が増加し、国内では年間3万人を越える自死者があるそうです。

これは物質的にはどんどん豊かに便利な世の中になる中で、心の豊かさがないがしろにされている結果だと思います。

人が生きて行く上での心の安寧を得るため、宗教は大きな力を持っていると思います。

昔は、寺参りなんて死期が近づいた年寄りがするものなどと馬鹿にしていました。

しかし、様々なストレスの中、心に不安を抱える人が急速に増えつつある現在、心を安寧に導く手助けをしてくれる寺の果たすべき役割は多大であると思います。

その役割を存分に発揮していただくためには、もう少し寺の敷居を低くしていただく努力も必要かな?なんて勝手に思ったりもします。

備後國分寺ご住職様の益々のご活躍を期待しております。
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Unknown (全雄)
2006-01-04 07:41:16
とんぼ玉様、お読み下さり、コメントまで残して下さってありがとうございます。



私はお寺の生まれではありませんから、お寺とは如何にあるべきか、僧侶とは何かなどと考えなくても良いことを考えてしまいます。



その時の基本になるのはやはり本来いかなるものか、つまりお釈迦さまの時代はどうであったかという視点です。また日本の仏教が起こったときにはそれぞれの宗祖はどうであったであろうかということです。



時代が変わり、仏教というものに対する社会の期待度が極端に低い時代だと思います。と言うよりも全く仏教を知らない、他のものに目を奪われ、古来大切にされてきたものに目を向けないようになってしまっている。



他の目新しいもの、より刺激あるもの、楽しそうなものにお株を奪われ、真に私たちのためになるものに心が向かわないようにさせられている状態なのかも知れません。



仏教をその時その時の時代に受け入れられるように紹介する役割が本来僧侶にはあるはずです。時代を問わず仏教は価値あるものです。その価値を今ある人々に魅力あるものに衣替えすることも必要なことなのでしょう。



とんぼ玉さんのコメントを励みに今年も精進して参りたいと思います。ありがとうございました。
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寺社の存在意義 (muni)
2006-01-20 03:52:58
はじめまして。

私は三十路前の俗人です。私見ですが、寺社領を奪われたとはいえ、僧侶は数少ない特権階級者であり羨ましく思えます。

さて江戸時代以前の寺社は、様々な役割を担っていました。いわゆる生臭坊主も沢山いましたが。しかし明治維新や敗戦後、時代の波により寺社は冠婚葬祭の仲介者・文化財の管理者になったと認識しています。もちろん学会や天理教等、隠然たる力をもっている宗教団体は存在します。

寺社の存在意義とは一体何なのか?難しいですね。(^^)
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結局金ですか・・・・ちょっと残念 (神奈川の愚か者)
2010-09-20 20:13:34
住職様の日頃の御活躍たいへん嬉しく思います。

檀那寺を持ちたくても、信仰したくても、我が家みたいに金銭的に仕方なく、葬式坊主に来てもらうと言う現状もあります。

わかってください。
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神奈川の愚か者様へ (全雄)
2010-09-22 08:59:42
この記事の中には、費用の話から物別れになったというような書き方になっていますが、実際には、仏教でなくてもいいのだ、仏壇も用意するかも分からないというようなことを言われたので、帰ることにしました。

費用の点だけなら考慮することも出来ますが、信仰のない方に押し売りするような儀式は出来ないと考えました。この時には葬儀屋さんからの連絡で慌ただしく出かけていったためにこのようなことになりました。

檀那寺もいろいろなので、高額の布施を要求するところばかりではないと思いますので、まずは、いろいろなお寺に出入りすることから始められてはいかがでしょうか。
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なるほど・・・ (愚か者@神奈川)
2010-09-22 22:21:40
住職様
そうでしたか・・・・・。

信仰心と供養する心が伴わないといけませんね。

我が家は派遣僧侶でお願いしましたが、その方はとても尊敬できる方でした。

住職様の今後の御活躍とご教示を楽しみにしております。

頓首再拝

bluefountain67@gmail.com です。
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愚か者@神奈川様へ (全雄)
2010-09-23 08:27:29
重ねて恐れ入ります。

派遣僧というのがどのような組織か存じませんが、私も普通の家の出身で、お寺がなかった頃には、顧問僧というシステムを考えたことがありました。

顧問弁護士等というのがありますが、それと同様に、いろいろな心の相談から、仏事にいたる総合的な関わりを結ぶ制度です。

派遣僧というのは、限定されたものに思えますが、良い方と巡り会われて良かったですね。
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わからなくはないです。 (名無し)
2018-12-15 23:38:04
通りすがりです。
書いてある内容は理解できます。
ただ、 亡骸を目の前にして、お経を読まずに帰られたのはやや気になります。
しっかり読経されて、そこから仏壇を祀る意味、お位牌は何のためにあるのかを説く方法もおありかと思います。
それも僧侶の大切な役目と考えることはできませんか?
みんながみんな信心な家で育つわけではありません。
死者を弔う場は大事な教化の場にもなり得ます。
何のために僧侶になったのか。そこに死者を弔うためは無いのでしょうか。
自分の修行だけが目的なら山奥で充分です。
わたしも同業者ですが、少し引っかかってしまいましたので、戯事を書かせていただきました。
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名無しさまへ (全雄)
2018-12-18 06:55:56
お越しくださり、コメントをいただきありがとうございます。この少し前のコメントで申し上げている通りです。

亡骸を目の前にして、お経を読まずに帰られたのはやや気になります、と言われますが、亡くなった方に仏教に対する信仰がなかったとしたら、逆に嫌う気持ちがある方であったらいかがですか。それでも亡骸を前にお経をあげるべきですか。

死者を弔う場は大事な教化の場、そのように心得てもちろん檀務を行っております。が、この場合、葬儀だけしてくれ、金を払うからそれでいいだろという方に、安易にお布施のために葬儀をするのが果たして教化につながるのかどうかと考えなくてはいけません。かえって拒絶することの方がその方に何事かを考えさせる機会になるとは言えませんか。

亡くなった方にお経をあげるとはどういう意味があるのでしょうか。お釈迦さまは遺体置き場での修行を勧められましたが、そこで死者に教えを説けと教えたわけではありません。その亡き姿を見つめよと教えられたのではないでしょうか。

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