住職のひとりごと

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自己発見の旅-インドから神戸へ [平成7年(95)3月記]

2019年11月30日 10時45分19秒 | ナマステ・ブッダより
自己発見の旅 -インドから神戸へ(インド編)
 [平成7年(95)3月記]



1992年2月、二度目のインド巡礼の旅の途中、お釈迦様が初めて説法された聖地サールナートを訪ねた。そこで、既にインドに十四年も住み込み、現地の人達に囲まれて暮らす一人の日本人僧に出会った。

この方から私はインドで仏教が生き続けてきていたことを知らされ、そして今こうしてお寺の中で日曜学校を開き、次には無料中学校を設立しようと計画していることをうかがった。お寺の近くに住むモウリアというアショカ王の子孫たちと共に貧しい子供たちのための中学校を作りたいと言われた。

私は何か出来ることがあるなら手伝わせていただこう。こう即断し、次の日からサールナートの仏跡地に一緒に出かけ、旅行者に寄付を呼びかけたり、日曜学校の手伝いをして過ごした。

そして、一週間後には一旅行者としてではなく、ここに住み込んでもっと深くかかわりたいと思うようになった。ヴィザのため一度日本に戻って留学の手続きをし、またインドの僧侶として戒律を授かり正式にこのお寺に住み込むことを決めていた。

自分の将来に対して決められた方針があったわけでもなく、一僧侶として何ができるのか、何をすべきなのか、そう常日頃考え続けていたこともあり、ここでの生活に自分を必要としてくれる場を見い出したのであった。

こうしてひと月を過ごした後、日本に戻り、ヒンディ語の学習とベナレスにある大学への留学手続きを進めた。殊の外スムーズにすべてのことが進み、この間新聞や雑誌などに「個人ボランティア奮闘中!インドの子供に学校を・サールナートの邦人僧が設立運動.カンパ募る」という見出しで広報活動も行えた。

そして、その年の10月アヨディアでの聖地奪還をめざすヒンドゥー教徒とイスラム教徒の紛争が起き、ますます宗教対立、階級闘争という内患を抱えるインドに仏教の平等と慈悲の精神を基礎にした教育の必要性を実感させられたのであった。

そして、翌年の93年3月いよいよサールナートのチベット上級研究所の隣に位置する法輪精舎(ベンガル仏教会サールナート支部)に住み込むことになった。私にはベット一つ置かれた八畳程の部屋が用意され、お寺の中で日本人住職と二人の生活が始まった。

毎朝、暗いうちに起き出し、水をくんだり食事を準備したり掃除をしたり。日中は日常使うヒンディ語と仏教語であるパーリ語の習得や寺の雑用を済ませるという生活。そして特に日本の協力者たちとの通信事務が私の仕事として与えられた。

無料中学の設立をその年の7月に控え、気温が四十度を越える4月から6月の間、お寺の中に仮校舎の建設や建物の壁面塗装といった修繕工事のため毎日5,6人の工事夫が出入りする落ち着かない毎日であった。

そして7月25日、法輪精舎根本佛教学林の開校式と第一回入学式が執り行われた。あいにくの大雨の降る中で、近隣の大学からも来賓がみえ盛大な開校式となった。中学一年生25人が入学しインドの学校制度に照らした教育がスタートした。

私にとっては日々住むところと食べることの心配がないインドのお寺でパーリ語の学習とお寺の雑用に毎日が暮れていった。ベナレス・サンスクリット大学に籍を置き、二度の儀式を経て、6月にはインドの僧侶として黄衣をまとった。

暑い時期には外にベットを出し蚊帳をつって眠り、寒い時期にはセーターを着込んで寝袋に入って休んだ。

私は法輪精舎で過ごした一年間ではたして何が出来たのだろうか。一人の日本人僧が個人の努力で地元の子供たちのために日曜学校を開き、さらに無料の中学校を開校した。そのことを日本の人達にお知らせる広報活動や募金活動、それに「法輪精舎だより」という会報も発刊した。

それらが主な目に見える活動であったと思えるが、私の本当の仕事は地元の協力者、特に日常出入りしている若いスタッフたちと拙いヒンディ語で話をすることではなかったかと思える。他愛もない会話の中に彼らの本音が現れ、お寺の仕事をする上での潤滑油となっていたのであろう。

日本から送られてきた衣類を学校の子供達に配布するという簡単な仕事にも現地スタッフの気持ちが複雑に揺れていく。日本の良質ではあるが古着をもらうことに何のためらいもなく配れる人とやはり子供たちにとってその行為がどう影響していくのかと心配する人もあり。

自分の家族にも欲しいと思う人もあれば、黙って持っていってしまう人も出てくる。与えることで与えられた側はもらって当たり前と思うようになり、乞食の気持ちを植えつけてしまうのではないか、と考える人も出てくる。

中学校の学期末試験をして数学の平均点が極端に低かったときには、数学の教師をどうするかで議論が分かれた。彼が免許のない代用教員であったことも話のこじれる原因であった。正式な教員免許を取るには高校卒業後教員養成学校へ入らねばならず、その為には相当な額の賄賂やコネが必要なのだそうだ。

能力があり、企業への就職や留学を希望しても実力本位で事がスムーズに進まない社会であることが教育の普及を遅らせている要因のひとつなのだと思える。
                              
日曜学校では、ノートとボールペンを与えお経や英語を教えていたが、生徒が増えるにしたがい、勉強をしに来ているのか、その後配るビスケットとパン二、三枚をもらいに来ているのか分からないような子供も多くなっていった。

更に小学生以下の子供たちはただビスケットをもらうだけのためにお寺に集まって来てしまうようにもなっていった。わざわざ赤ん坊をかかえて来るような子もいて、毎週300人もの子供たちが近くの村々から集まって来た。

多く集まり、お寺が有名になっていくと喜ぶ人もあれば、こんなに増えてはお寺の資金を逼迫させてしまう。それにただもらえると思わせてはやはり乞食の根性を植えつけるのではないか。そう心配する人も多かった。

そして、こうして集まってくる本当に貧しい家の子供たちはたとえ無料であっても学校へ行こうとしない。教科書代も払えず、文房具代も続かないのだという。字が読めない親たちの多くは子供にだけは教育を、という気持ちも起きないのが現実だという。

さらには、小学校から数えて8年生、10年生、12年生のときに国家試験があり、それぞれの合格率が三割に満たない厳しい状況である事も高等教育が広く行きわたらない要因になっているとのことだ。

また、日曜学校にはヒンドゥー教徒のほかイスラム教、シーク教といった様々な宗教の子供達が集まり、肩を並べて勉強し一緒に遊んでいた。しかしそれも高校大学と進むにつれ、やはり同じ宗教のそれも同じ階級の仲間との付き合いに変わっていくのだそうだ。家や仕事のつながりで自然とそうなっていくと言うのだが。

共和国憲法ではカーストは否定されたにもかかわらず、役所や大学の書類にはいまだに階級を書き込む欄があり、それは、不可触民や部族民などの指定カーストといわれている人達に大学への進学、官庁への就職に特別枠を設けるという制度があるからで、そのこともカーストを意識させられる要因であり、今では逆に指定カーストの保護が階級間の争いに拍車をかけているとの事であった。

また、日本製のオートバイが町を駆け抜け、電気製品が店頭を賑わせている一方で、社会の底辺で暮らす人々の暮らしは一向に改善の兆しがない事も大きな社会問題のひとつとして残っている。

貧しい子供たちにも教育の機会をという気持ちでインドにやって来たのではあったが、一つ一つの問題の奥深さを痛感させられる毎日であった。とにかく私の仕事は、好奇心旺盛で世話好きの若い現地スタッフたちとこのような様々な問題について話し合うことではなかったかと思える。今は、こうしたことが個人レベルの日印の相互理解につながってくれていればと念じている。

入学した中学一年生のクラスがほぼ軌道に乗り学年末を迎えようという頃、私は日本に戻ることになった。日本での広報活動のためであり、またあらためてインドでの活動に対して考える機会を持ちたいと思ったからでもある。

特に海外に出て一外国人として支援活動をする際に大切なことはその国の文化伝統に対して尊敬の念を持つということではないだろうか。たとえ貧しい生活をしているように見える人々にもそれまでに培ってきた歴史と誇りがあるはずなのだから。

ともに生活させてもらい、お互いの違いについて理解を深める段階で、互いに何かを学び合うという姿勢が大切なのではないだろうか。様々な問題を抱えつつも、豊かさという点では、彼らの方がはるかに自然と親しみその恵みを享受しているのかもしれない。

本当は私達こそ彼らから多くのことを学ばせてもらわなくてはいけないのではないだろうか。こんなことをひとり考えつつ、昨年の3月、日本に帰ってきた。無料中学校は、昨年7月に新一年生を迎え2学年となり、その後お寺の近くに600坪の土地を購入、校舎の建築許可が下り次第着工する予定である。

その後、私は10月にはインドへ戻る予定だったのがインド国内のペストの流行で行きそびれ、東京で新年を迎えた。そして、1月17日未明。太平の眠りを覚ます大震災が兵庫県南部を襲った。地震直後から何かできることがあったらしなければと思い、取り敢えず神戸市の災害対策本部宛に食料を自分なりに梱包し送ってはいたが、物足りなさが残り申し訳ない思いが続いていた。

そこへ、サールナートのお寺の日本連絡所を引き受けてくれている芦屋の知人から、カウンセラーという精神面のケアーをする人が足りないのだが、という話に早速現地に赴くことにした。・・・・

(神戸編)へ
https://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/fb2959a6d40127bfef7d5a6de7ddda81

(生命科学振興会ライフサイエンス誌95年6・7月号掲載)


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あるべきようは [平成9年(97)2月記]

2019年11月30日 06時50分06秒 | ナマステ・ブッダより
あるべきようは-私の十年を振り返って [平成9年(97)2月記]



最近になって「どうして坊さんになったんですか」という質問をよく受ける。僧侶になったのは既に十年ほど前のことになるが、当時はいろいろと考えを重ねて決断したように思い出される。

が、今では、その問いに対してそう簡単には答えることが出来なくなってしまった。当時考えていたことの根底にあった深層の意識が本当は私の身の振りを決めていたと思えてきたからでもある。しかし、ともあれ、この十年を振り返ってみると、自分にとってとても自然な歩みであったと思える。

<僧侶に>
「お寺の息子だったんですか」、これが、当時、僧侶になると会社の同僚に私が言ったときの返事であった。

「いやいや、出家は家庭を持たないものなのですから、もとはお寺に息子なんていなかったんですよ」とでも答え、寺の生まれでもないものが僧侶を志す正当性を主張したのを記憶している。

サラリーマン九年目にして僧侶になると決めてからの私は、まことにすがすがしく、頭の中に、もやもやと漠然と抱いていた将来に対する不安や焦燥を一瞬にして吹き飛ばしてくれた。周りと比べられ、競走し、世間の体裁を気にする生き方、常に何かと張り合い、精一杯走っていなければいけないといった強迫観念からも解放させてくれた。

<仏教との出会い>
そもそも私が仏教と出会い、こうして今日あるのは、大学二年目に再会した高校時代の友人たちに感じた反発からであろうか。彼らが語る西洋の哲学に、何か私たちがそもそも身に備えたものとの隔たりを感じていたのかもしれない。

そしてそれが、その後間もなく、その時まで宗教書など手にすることもなかった私が仏教書と出会うきっかけとなった。その最初の本は増谷文雄先生の「仏教の思想・知恵と慈悲<ブッダ>角川書店刊」であった。

パーリ経典にもとづく、ありし日のお釈迦様のお姿を彷彿とさせるその文体に惹かれ、それから次から次にと仏教書を紐解く日が続いた。いつの間にか僧侶を志し、自然と高野山への道が開かれた。

そしてこのはじめて手にした本によって得られた、お釈迦様をはじめとする仏弟子たちのお姿を慕う思いが、高野山の真言僧侶修養の道場・専修学院を経て、なお、インドの地へと私を急き立てることになった。

<インドへ>
灼熱のブッダガヤ。ヒンドゥー教の聖地リシケシの雨期。そこで私は、生命の源・ガンジス河の滔々と流れる雪解け水に体を冷やしつつ、現代インドの信仰をつぶさに垣間見ながら過ごした。

宿泊したシバナンダ・アシュラム(道場)を後にする日、荷物をまとめドネーション(寄付)を払いに行くと、そのお金を受け取るスワミジ(ヒンドゥー教の僧)は「あなたは日本で何をしていますか」と聞かれた。日本の仏教僧であることを告げると、インド服を着ていた私に、「なぜあなたは仏教徒のドレスを着ないのですか」といわれた。

私はそのとき、誤魔化しを許さないインドの宗教者の厳しさを教えられた。いついかなる時でも衣を纏い自らの姿勢を明らかにし、世間に染まらず心を浄らかに保つ。そんな簡単なことにさえ抵抗があった自分にとても恥ずかしい思いがしたものだった。

<四国遍路へ>
そして私は日本に戻り、それまで世話になっていたお寺の役僧を辞し、一人住まい托鉢をし、四国八十八カ所の徒歩遍路に出ることになる。そもそも出家とは、定住することなく、樹下を住まいとするものであった。

儀礼や祭祀によって生活するのが僧侶なのではなく、瞑想にふさわしい場所を求め、また聖地をめざし歩く遊行者が出家の理想である。今日の日本でその理想を少しでも味あわせてくれるのが四国巡礼ではないかと、私は思っている。

一人錫杖を突きつつ、網代笠の下、地面を見つめ、ひたすら歩く。遍路道で出会う見ず知らずの人たちから受ける情け、ご飯や飲み物などを施されるお接待のありがたさ。出会いの妙。それまでの自分を振り返り、そんな至らぬ自分に施しをされるお気持ちに涙することもあった。

四国遍路は、正に心を見つめつつ歩く瞑想の道場とも言えまいか。
                           
<インド僧へ>
しばらくそうした生活を続けつつも、はたして僧として自らのなすべきことは、と考え始めたとき、再度インドを訪れる機会を得た。

そしてそのときの縁で、後にカルカッタに本部を置くインドの伝統的仏教教団・ベンガル仏教会で南方上座部の僧侶として、三年あまりの間黄衣を纏い過ごすことが出来た。

カルカッタのフーグリー河に十五人の黄衣姿のインド僧を乗せた小船の上で私の具足戒式(ウパサンパタ゛ー・正式な僧侶になるための授戒式)は行われた。そして、本部僧院で他のベンガル人のお坊さんたちと共に生活し、様々な儀式にも参加させていただいた。

彼らの生活は今日でも非常に質素である。持つものが少ない身軽さ、心もまことに軽快である。生涯独身の僧院生活を送る彼らの持ち物はといえば、衣類と僅かな書籍、それに鞄やひげ剃り、傘など必要最小限の生活必需品と多少の現金くらいなもの。

昼は、仏教徒の家に招かれ、食事の供養を受けることが多い。在家の信者にそうして布施の功徳を積ませる存在であり、それだけ日頃の生活に清貧さと供養を受けるに値するものとしての気概が求められる。         

<南方仏教僧の生活>
この間私は、インドから一時日本に戻った際にも当然のことではあるが茶褐色の袈裟衣を常に身につけて過ごした。そのときはじめて実感されたことは、一つには、日本の僧侶に比べとても身軽であるということ。

衣が何種類もある日本の僧侶とは違い、出家されて五十年になる大長老から十代の見習い僧まで皆同系色の腰に巻く下衣と身に纏う上衣、普段はこの二枚の袈裟だけ。寒いときにはもう一枚袈裟を纏うか、同じ色のシャツや靴下を身につける。

足袋も白衣も数珠もいらない。白いものを身につけない手軽さ。外出時にあれこれと身支度する必要もなく、寝る際にも上衣を外すだけ。まことに簡便な合理的生活が送れるものだと実感することが出来た。

そして食事も朝と昼のみ、午後からは固形物を口にすることが出来ない。一日二食と考えるとどうも栄養が足りないのではと考えられる向きもあろうが、過食気味の食生活を送る現代人には却って適度な健康的な食習慣ではないかと思えた。

そしてこの二食のお蔭で、夕方から夜の時間がまことに有効に生かすことができた。夜外出することもなく、余裕ある意義ある時間を毎日のように作り出すことになった。日々のなすべきことに追われる生活の中に、次元を変えた充実した時間を作り出す秘策とでも言えるものだと思えた。

住まいは、インドではもちろんベンガル仏教会の僧院に逗留したが、日本では知人の寺に居候をさせてもらっていた。そのお蔭もあるが、この間日本にあっても、金銭について全くといってよいほど気遣うことなく過ごすことができた。

それは、何もせずとも常に袈裟を身につけている安心感、充実感があったればこそなのだと思える。お釈迦様の教えを学び、実践しつつ、縁あった人々と語り合う。これ以外のことから解放された存在なのだといえる。

逆に言えば常に身につけている袈裟が余計なものに心が向かうことを防いでくれるとも言えようか。インドにいる間、暑いため僧院内では上衣を外して過ごしたいところであったが、師匠からは常に身につけていなければいけないと、ことある毎に教えられたことを思い出す。

<捨戒し帰国>
九六年八月、カルカッタの僧院で上座部の僧侶の戒を捨戒し黄衣を脱いだ。インドで経験した簡素な生活は、世事に煩わされることなく、時間と活力を無駄なく僧としてなすべきことへ身を任せる礎であると思えた。袈裟そのものが普段着の仏教。お釈迦様の教えとは本来こうしたものであったのだと知ることができた。

誰しも生きている一瞬一瞬の営みがその人を作るのであって、私たち僧侶もあらためて袈裟を纏う特別な時間はその発露であるにすぎない。常に原点を忘れず、お釈迦様や宗祖の時代を慕い、自らを律する真摯な姿勢が必要ではないかと思う。

かつて明恵上人がインドの地にあこがれ、お釈迦様の時代に生まれ得なかったことを嘆かれたように、今の時代にあっても“あるべきようは”と自らに問う営みが必要ではないか。自らの生活習慣によって、自分も、周りの人々も自然と心浄らかなものとなるよう心がけることが、僧侶にとって肝要なことではないかと思う。 

アジアの仏教国を旅した人なら、それらの国々では颯爽と街を行く僧侶の姿をしばしば眼にしたであろう。多くの僧侶がいるはずの日本で、街にそうした姿を見かけることは誠に稀ではないだろうか。

心が問われている現代社会にあって、今仏教という心の教えを日々の生活や様々な問題の解決に生かしていくことが、切実に求められているのではないかと思う。仏教を今の社会の中にいかに浸透させていくか、私たち一人一人がその使命を担っていることも忘れてはなるまい。

(大法輪・平成9年4月号掲載)

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