住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

「両親に感謝する」

2019年11月22日 07時08分54秒 | 仏教に関する様々なお話
商工会青年部の皆様への法話「両親に感謝する」

私は皆さんと同じ普通の家に生まれました。なぜ坊さんになったのか、今思うと前世からの因縁という様なことしか思い浮かばないのです。そもそも私が仏教に興味を持ったのは、夜間大学の二年の時高校の友人らとある大学の門前で待ち合わせ、その晩語り合ったことにあります。その後仏教書をいくつも読み、坊さんになろうと思ったのですが、坊さんの世界に知り合いもなく、自分で調べ訪ねていきました。そして、そのまた紹介で高野山の山内寺院の弟子となり、26才のとき高野山で出家。サラリーマンを辞め、そのお寺で専修学院に入る前三か月間住み込みで寺の生活を学ばせてもらいました。

実は、両親は高校三年の春に分かれて暮らし、それ以来、私は父親とは疎遠でした。いよいよ専修学院に入る数日前に、父に宛てて手紙を書いたのですが、その時には、たった二枚の手紙を書くのに三時間も要し、ずっと涙が溢れていました。生み育ててくれたこと、不義理をしたこと、出家すると報告したとき応援してくれたことなど、小さなころの思い出や様々な思いが交錯して涙が止めどなく流れたのでした。

専修学院を28才の時卒業し、高野山を下山。以来12年間、東京のお寺に住み込みで仕事をし、インドを放浪、四国遍路を歩いたり。また、東京で托鉢して生活したり、インドの僧となり、その間神戸でボランティアを経験しました。それから日本の坊さんに復帰して東京の小さな御堂の堂守をして、それだけの下積みを経て、有難いことにご縁あって、ここ國分寺までたどり着きました。

先代は大変厳しい方で、14年間お寺で一緒に過ごしましたが、10年ほどして、やっと気心が知れる様になったと思ったら亡くなられました。亡くなってから、お寺のこんな事は先代ならどう考えるだろうかと思ったり、昨年あたりから親父という言葉で先代に心の中で呼びかけていることがあります。生前目の前にしたら、とてもそう思えないことが亡くなってから心が寄り添う様になってきたように思います。この地での坊さんのやり方、作法などを習い、様々な行事についても教えてもらい、朝のお供えも当時のまま今もしておりますが、同じ事をしてきている者だからこそわかる気持ち、先代の苦労のほどがわかり、今頃になって遅いのですが、先代の気持ちを思いはかり、深く感謝しています。

皆さんが先代や家族に感謝しようと思うのはどうしてなのか、それは、今の恵みに気づいてのことではないでしょうか。各々の業界の慣習や仕事はおのずから見て知っていたり、また教えられたりして、割とスムーズに習得されたかもしれませんが、その仕事がしたかった人ばかりでもないと思います。それでも親の仕事の意味、大切さ、先代と共に頑張ってきた社員の方たちを思うとき、継がざるを得なかったという人もあるかも知れません。が、それでも、こうして会社を動かし、毎月社員に給料が払え、家族を養い、いまあるのは、先代や家族のお蔭であると思えるということだと思います。業界や関係会社、また社内での皆さんの立場も先代あってのことだと思います。

若くして社長として世間の荒波に触れて、大変な事もありましょう。外の人たちから先代のことを聞いて、知らなかった、先代の頑張りや努力、偉大さなどいろいろなことを知ったという人もあるでしょう。とにかく、今の恵み、今あるのは先代のおかげなんだと素直に思えることが素晴らしいことだと思います。お釈迦様も、「善き人の立場とは、今の恵みに気づき感謝し、その恩に報いようとすること、これがまことある人の習いとすること」だと『父母報恩経』というお経で教えられています。

では、そもそも親とはいかなるものなのでしょうか。私たちは両親がいてこそ、この身体と命を授かり、何もできない赤ちゃんの時から何から何まで手を取り教えられ、食べ物や排便の世話までしてもらって大きくなってきたわけです。その『父母報恩経』というお経には、「自分が百歳になり、なお親が存命で、沐浴させ糞尿の世話をしてもなお、両親に何ごとかつぐないを果たしたということにはならない」と言われていて、それだけ両親には絶大な恩義があるということなのです。

両親も含め、仏教では、私たちの命を養うために恩を感じるべきものとして四つのものをあげています。四恩といい、父母、衆生、国王、三宝の四つであり、これらがあってはじめて、私たちは命ある人間として、つつがなく生きることができると考えるのです。その第一にあげられるのが、この命を授けて下さった父母です。では父母をどのように大切にすべきか、①両親を養い②両親の用事をし③家系を存続させ④遺産など相続を適正にし⑤先祖各霊を供養すること、と『六方礼経』にあります。

では、ご両親の立場から皆さんへどのように思われているか、おそらく、自分と同じ仕事を選択して後を継いでくれたことをとてもうれしく思い感謝されていることと思います。ご両親の願うことは、皆さんがいつも元気で幸せに会社を運営してくれることだと思います。売り上げを伸ばしたり、業界でトップになるなどということよりも何よりも皆さんの健康と幸せを願っていることと思います。

それでは、次にその命とは何なのでしょうか。命のサイクルを仏教では四有(しう)といい、今こうして生きているのを本有といい、死ぬ時を死有といいます。そして、次の身体をもらうまでを中有(中陰)、生まれることを生有というのです。この四有をグルグル繰り返しているのが衆生という存在で、生きとし生けるものは、みんな、生まれては死んでを繰り返す、何回も輪廻転生すると考えます。そうした何万回もの過去世の末に今があり、この次には来世もあるのだと思って生きる必要があるということです。

すべてのことには因と縁があって結果すると仏教では考えますが、人と人との関係にも因縁があり、今生で深く縁あった人とは過去世でも出会ってきて、来世でもまたまみえると言う方もあります。(『前世療法(ブライアン・L・ワイス著)』)親兄弟伴侶や親友などとして何度も私たちは出会いと別れを繰り返し、様々な善悪の行為をしつつ、色々なことを教訓として学び、ともに精神的な成長を遂げていくのです。両親ともそういう間柄なのだと思うと、さらに今生での関係性の意味することを深く理解できるかもしれません。そうして、お釈迦様のようにすべてのことを知り尽くして、達観して、何があっても何が無くても動じない、安らかな心を作ることを最終的な目標に生きるのが私たちの理想的な生き方なのだと思います。

ところで、私が高野山の専修学院を終えて、東京の寺に役僧として住み込んで三ヶ月ほどしたある日、本堂の床を水拭きしていて、ふと、この寺はあの友人たちと再会して仏教の道に入るきっかけとなった大学の門前の真ん前にある寺だったと気づいた瞬間に、走馬灯のように過去の様々な出来事が目の前を通り過ぎていきました。

まさに、人生の瞬間瞬間のつまらない様なことの積み重ねのすべてにとても意味があり、様々な人生の岐路に立って一つも間違わずに選択してきて今がある。すべてのことはあるべくしてある。ここにいまあるためにこれまでのすべてのことががあった。今は過去のすべてのことが凝縮した瞬間であり、未来は今の瞬間の積み重ねなのだとわかりました。みなさんも、今そこに居られるために過去のすべてがあった。今あるのはそうあるべくしてあります。大変な苦労の末に今があると思うけれども、いまを頑張っていけば、それはすべて自分や周りのためになると信じて励んで欲しいと思います。

最後に、皆さんに四つのエールを贈りたいと思います。
①他と比較しない自分の世界、俺の世界を持つ。プライベートでも仕事のことでもいい。なにがあっても、心に余裕ができる。
②無駄なことはなにもない。すべては地道なことの積み重ね。失敗も、嫌な仕事も、つまらないと思うことにも、遊びにも。何か自分を成長させ、将来の役に立つものがある。
③事業でも、個人的な目標でも、その目標の意味、真に求めるべきことは何か。その先の先の、数字ではない大きな目標を据えること大切。一喜一憂しなくなる。
④つねに言葉遣い、行いを丁寧に、他者に礼儀を尽くす。周りから大切にされ、何かあるとき救いの手を差し伸べてくれる。

追記 ここに記憶にある格言を記し、皆様の公私にわたるご精進とご多幸を祈念します。

『鶏口となるとも牛後となるなかれ (史記)』
『男子三日会わざれば刮目してみるべし (三国志演義)』
『たとえどぶの中で死すとも前のめりで死にたい (竜馬がゆく)』

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