住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

一本の電話から

2019年01月04日 11時27分23秒 | 様々な出来事について
昨日三日昼前に一本の電話があった。かつて日本の古寺巡りというバスツアーで案内をしていた頃に、よくご参加下さったご主人からだった。電話の要件は、身寄りの無い知り合いが亡くなったのだが、長く施設にいたこともあり、葬儀に立ち会う人もないのだが、今はやりの直葬ではかわいそうだから、通夜代わりに今日晩にお経を上げてもらえないかとのご依頼でした。檀那寺も宗旨もわからず、心許ないことではありましたが、お困りのご様子なので通夜に読経だけで良いのですねと確認した上でお引き受け致しました。

亡くなられたご婦人は九十七歳。二度結婚したものの夫に早く死なれて子もなく、ずっと一人で商売をして暮らし、老後は施設暮らしで亡くなられた、薄幸の一生であったとのことでした。読経の前に、棺の窓から御挨拶しご縁あってお経を唱えますことをお断りしました。礼拝焼香の後、懺悔文、三帰三竟、十善戒、発菩提心真言、三摩耶戒真言、開経偈、理趣経一巻、無量寿如来大呪、光明真言、御宝号、回向文。

読経終わり、少しだけお話し申しあげました。「この度は、ご縁あってお招きいただきお経を唱えさせていただきました。故人様とは生前お会いしたこともなく、お話ししたこともないのですが、先ほどうかがいましたら、ご家庭に恵まれない人生であったと、気の毒な幸せの薄い一生であったとうかがいました。

私たちは、生まれてくるとき、赤ちゃんとして、純粋無垢に見えるわけですが、みんな業をもって、善い業も悪い業も沢山抱えて生まれてきます。何回も生まれ変わりしてくる中で抱え込んだ業にしたがって生まれ、その後様々な出会い行いを繰り返して新たな業を作り重ねて、長い人生を過ごして参ります。それが外見上ではどのように見えましても、大事なことは、ご本人の持って生まれてきた業をよりよいものにし、心をより清らかなものにするべく、学び多い人生であったかどうかということです。

厳しい苛酷な人生であればあるほどそこから学び糧とするものは大きいのではないでしょうか。故人様は、そういう意味において、ご本人にとりましては、おそらくとても意味のある、価値のある大事な九十七年間をお過ごしいただいものと思います。そう思いつつ、お経を唱えさせていただきました。ご苦労様でございます。明日はご縁有る皆様で懇ろに葬送下さいますようにお願い申しあげます。」このようなお話しをさせていただき退席いたしました。

直葬とまではいかずとも、数年前から、親族葬、家族葬が増えてまいりました。以前のように会葬者が百人を超える普通葬は少なくなり寂しいかぎりであります。盛大にしたら良いというのではなく、人一人が長い人生を生きてくるには周りの沢山の方々のお蔭であるということを考えれば、亡くなればその故人に代わり、喪主や家族、親族がそのことを近隣の方々に御礼申しあげて、故人同様に今後も交誼をお願いする機会として葬儀があり、それがこれまでの本来のあり方でした。

命を大切に、命の尊さと言葉ではいいながら、今私たちのしていることは正にそれに逆行することであると言わざるを得ません。しかしそれだけ近隣とのつきあいの濃さも以前に比べ薄くなり、携帯、パソコン、スマホでいくらでも離れた人とのつきあいが出来ますし、物もネットで注文したら翌日には配達されるようになり、物理的な近隣との深いつきあいが必要ない時代になってしまったということなのでしょう。そうした心の変化が、人が亡くなっても、身内だけで済ましてもよいだろうと思えるほどに近くの人との交流が浅くなっているということなのかもしれません。しかし、以前のように何度も近隣の葬儀に出席して人の死をみとることのなくなった現代人は自らの人生の行く末を考える機会を失っていることも忘れてはならないでしょう。


にほんブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 福山情報へにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする