法事でお経を唱えます前と後に、どこのお宅に参りましても、必ず十三仏の掛け軸を前に、座布団に額をつけ投地礼をいたします。その日の回忌に当たるご本尊さまに法事をさせていただくご挨拶であり、仏さまを敬い、法要の功徳を賜りますようにとお願いをいたします。
それから着座して真言宗の常用経典である理趣経を読誦し、法事の後半ではご一緒に「仏前勤行次第」をお唱えいたします。勤行次第のはじめには、合掌礼拝、懺悔、三帰、三境と続きますが、みなさんはどのような思いを込めてお唱えされているでしょうか。合掌礼拝を「うやうやしくみほとけを礼拝したてまつる」と唱えるとき、自然に頭が下がり、また「深く三宝に帰依したてまつらん」と唱えるとき、心から三宝を敬う気持ちが生じているでしょうか。
三宝はブッダ(仏)という名の宝・ダンマ(法)という名の宝・サンガ(僧)という名の宝のことです。ですが、あまり身近に感じられていないかもしれません。しかし、檀那寺を大切に思い供養をささげるみなさんは、本当は意識するしないにかかわらず三宝に帰依し敬っていることになるのです。なぜならば、お寺は仏さまを祀り、その教えである経を唱え、僧侶がその教えにしたがって住まうところですから、本来三宝そのものなのだと言っても過言ではないからです。
それではそのブッダ・ダンマ・サンガとは、私たちにとってどのような意味のあることなのでしょうか。
まずブッダとは、簡単に言ってしまえば、私たちの生きる目標のことです。ご存知の通り二千五百年前にこの地上にあって最も崇高な生き方を示されたお釈迦様のことなのですが、お釈迦様は私たち誰もが求める最高の幸せを自ら勝ち取った人とも言うことができます。「帰依仏」とは、そのお釈迦様・ブッダを自分の生きる最高の目標として敬い、より所とすることです。
お釈迦様はすべての悩み苦しみを打ち負かし、六道に輪廻する苦の連続から解き放たれた人です。世の中のあらゆることに精通され、多くのものたちを教え諭し、私たちに最上の幸せとは何かを指し示してくれました。私たちと同じ人として生まれ、私たちに可能性を示されたとも言うことができます。
次に、ダンマとは、その幸せに向かって生きていくための教えのことです。つまり私たちを最高の幸せに導くマニュアルのようなもの。「帰依法」とは、その教えを自分の人生の大事な手引きといたしますということです。その教えは、時代を経ても古くなるものでなく、盲信するのではなく自ら学びその正しさを確かめられるもの。二千五百年も経過して込み入った感も否めませんが、本来はとってもスッキリした教えです。
そして、サンガとは、最高の幸せに向かって生きる人たちの集まりのことです。お釈迦様のさとりの教えに励み伝える仲間たち。「帰依僧」とは、そうした聖なる生き方を選択した人たちを大切にすることです。自分の心を支えてくれる仲間であり、ともに励み、支えあう関係でもあります。
ところで、その昔お釈迦様に教えを乞う人また弟子たちは右回りに三周し正面に向かい投地礼を三度して、それから話し始めたと言われています。インドのサールナートという仏教発祥の聖地にダメークストゥーパという高さ33メートル、外周が55メートルもある大きな塔がありますが、今日でもその塔をお釈迦様のように慕い、右回りにぐるぐる回りお経や真言を唱える多くの巡礼者の姿を見ることが出来ます。
また、以前チベット亡命政府のあるインド北部のダラムサーラというところへ行って、チベットのお寺の法要に参加したことがあります。本堂内ではお坊さんたちの読経が続く中、外の後ろの方では数人の信者たちがその間中何度も何度も五体投地を繰り返していました。法要中の本堂に、正に仏さまが示現している様が見えているかのように一心不乱に礼拝を繰り返す迫力に感動させられたものです。
このように帰依する心を形に表すものが礼拝であり、仏教の儀礼に礼拝は欠かせないものです。ですが、儀礼だけ形だけのものとしてしまわないためには、その最高の幸せのこと、お釈迦様とはどんな人でどれだけ大変な意味のあることを成し遂げたのかということを少しは知ってほしいのです。そうでなければ、心から帰依します、という気持ちにはなれないのではないでしょうか。
そして、それを自分の人生に意味あるものとするためには、本当は自分にとって何が一番大切なのかをたずねることこそが求められているのかもしれません。とはいえ、法事の席では、礼拝する姿の後ろで、ただ眺めているだけではなく、やはり合掌しともに仏さまを礼する姿勢は欲しいと思います。
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それから着座して真言宗の常用経典である理趣経を読誦し、法事の後半ではご一緒に「仏前勤行次第」をお唱えいたします。勤行次第のはじめには、合掌礼拝、懺悔、三帰、三境と続きますが、みなさんはどのような思いを込めてお唱えされているでしょうか。合掌礼拝を「うやうやしくみほとけを礼拝したてまつる」と唱えるとき、自然に頭が下がり、また「深く三宝に帰依したてまつらん」と唱えるとき、心から三宝を敬う気持ちが生じているでしょうか。
三宝はブッダ(仏)という名の宝・ダンマ(法)という名の宝・サンガ(僧)という名の宝のことです。ですが、あまり身近に感じられていないかもしれません。しかし、檀那寺を大切に思い供養をささげるみなさんは、本当は意識するしないにかかわらず三宝に帰依し敬っていることになるのです。なぜならば、お寺は仏さまを祀り、その教えである経を唱え、僧侶がその教えにしたがって住まうところですから、本来三宝そのものなのだと言っても過言ではないからです。
それではそのブッダ・ダンマ・サンガとは、私たちにとってどのような意味のあることなのでしょうか。
まずブッダとは、簡単に言ってしまえば、私たちの生きる目標のことです。ご存知の通り二千五百年前にこの地上にあって最も崇高な生き方を示されたお釈迦様のことなのですが、お釈迦様は私たち誰もが求める最高の幸せを自ら勝ち取った人とも言うことができます。「帰依仏」とは、そのお釈迦様・ブッダを自分の生きる最高の目標として敬い、より所とすることです。
お釈迦様はすべての悩み苦しみを打ち負かし、六道に輪廻する苦の連続から解き放たれた人です。世の中のあらゆることに精通され、多くのものたちを教え諭し、私たちに最上の幸せとは何かを指し示してくれました。私たちと同じ人として生まれ、私たちに可能性を示されたとも言うことができます。
次に、ダンマとは、その幸せに向かって生きていくための教えのことです。つまり私たちを最高の幸せに導くマニュアルのようなもの。「帰依法」とは、その教えを自分の人生の大事な手引きといたしますということです。その教えは、時代を経ても古くなるものでなく、盲信するのではなく自ら学びその正しさを確かめられるもの。二千五百年も経過して込み入った感も否めませんが、本来はとってもスッキリした教えです。
そして、サンガとは、最高の幸せに向かって生きる人たちの集まりのことです。お釈迦様のさとりの教えに励み伝える仲間たち。「帰依僧」とは、そうした聖なる生き方を選択した人たちを大切にすることです。自分の心を支えてくれる仲間であり、ともに励み、支えあう関係でもあります。
ところで、その昔お釈迦様に教えを乞う人また弟子たちは右回りに三周し正面に向かい投地礼を三度して、それから話し始めたと言われています。インドのサールナートという仏教発祥の聖地にダメークストゥーパという高さ33メートル、外周が55メートルもある大きな塔がありますが、今日でもその塔をお釈迦様のように慕い、右回りにぐるぐる回りお経や真言を唱える多くの巡礼者の姿を見ることが出来ます。
また、以前チベット亡命政府のあるインド北部のダラムサーラというところへ行って、チベットのお寺の法要に参加したことがあります。本堂内ではお坊さんたちの読経が続く中、外の後ろの方では数人の信者たちがその間中何度も何度も五体投地を繰り返していました。法要中の本堂に、正に仏さまが示現している様が見えているかのように一心不乱に礼拝を繰り返す迫力に感動させられたものです。
このように帰依する心を形に表すものが礼拝であり、仏教の儀礼に礼拝は欠かせないものです。ですが、儀礼だけ形だけのものとしてしまわないためには、その最高の幸せのこと、お釈迦様とはどんな人でどれだけ大変な意味のあることを成し遂げたのかということを少しは知ってほしいのです。そうでなければ、心から帰依します、という気持ちにはなれないのではないでしょうか。
そして、それを自分の人生に意味あるものとするためには、本当は自分にとって何が一番大切なのかをたずねることこそが求められているのかもしれません。とはいえ、法事の席では、礼拝する姿の後ろで、ただ眺めているだけではなく、やはり合掌しともに仏さまを礼する姿勢は欲しいと思います。
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