住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

四国遍路行記-16

2008年05月10日 17時13分57秒 | 四国歩き遍路行記
禅師峰寺の石段を下り、また来たハウス農家の間の道を戻る。左に土佐湾を眺め、入り江を渡る。昔は渡し船に乗ったそうだが、今では橋が架かっている。桂浜の看板も目に入る。近いようだが七キロ半ほどの道のりがなぜか長く感じる。車道のお陰で舗装道路をぐるりと回って33番雪渓寺に到着。

門を入ると、正面に本堂が見える。だが臨済宗のお寺のためか横に長く坐禅堂といった雰囲気を漂わせている。延命十句観音経の額が正面横に掛けられている。わずか十句で観音様への信仰を説く経だ。江戸時代の傑僧白隠禅師が重視し霊験記を著したため、今日でも臨済宗ではこの延命十句観音経を勤行などでもよく読誦する。

本尊薬師如来は鎌倉時代に訪れたという運慶の作。脇士の月光菩薩、日光菩薩及び弟子の湛慶作の毘沙門天、吉祥天女、他に海覚作の十二神将十体があり国の重要文化財。雪渓寺は、鎌倉時代の仏像の宝庫といわれている。

大師堂は、沢山の千社札や心経が貼り付けられ、痛々しい。丁寧に心経を唱え、また歩き出す。来たときには気がつかなかったが、門前には数件の遍路宿が軒を連ねていた。遍路道保存会の小さな道しるべにならって歩く。

早くも、夕刻に迫ってきた。高知の街からそう遠くまで歩いてきたわけでもないが、それぞれ2時間ほどの距離を歩き、それぞれの札所で懇ろに読経してきたためか。大きなビニールハウスの間を通り、右に水路のあるのどかな道をしばし歩く。

よろず屋や農協があり、今晩の夕食を買い込む。おむすびに海苔巻き。それを持って街を抜けたと思ったら、田んぼの中にお寺が見えた。34番種間寺。門を入り納経所の前を通ると、すぐ右に大師堂、奥に本堂。誠に手狭に感じられる。

種間寺は昔、仏教が伝来して間もなくのこと、百済から大阪四天王寺を建立するため仏師達が招かれ、帰国の途中暴風雨に遭い秋山の港に寄港。この時、航海の安全を祈って薬師如来を刻み本尾山頂に安置した。

後に、弘法大師が訪れ薬師如来を本尊とし堂宇を建立、唐から持ち帰った五穀の種をまき、種間寺と号したという。本尊薬師如来は今日では重文に指定されている。平安時代には、村上天皇より「種間」の勅額を賜り、江戸時代には藩主山内家の加護を受け栄えた。

しかし、明治の廃仏毀釈で一端廃寺となり、明治13年には再興されるが、往時の華やかさは取り戻すことは出来なかったのであろう。ゆっくり拝んでいたら暗くなってきた。厚かましいながら「ひさしでもお貸し願えませんか」と納経所に願い出ると、なんと、接待堂があるという。

山門手前の大きな建物に案内して下さった。蒲団まである広い部屋に一人。何とも贅沢な一夜となった。翌朝暗いうちに起きて本堂にお礼に行くとご住職にお会いした。落ち着いた優しげな老僧さんだった。お礼を述べ種間寺を後にした。

次の日は早々に雨模様。頭陀袋の中からポンチョを出してかぶる。足元が冷たい。素足にビニール紐の草鞋のためだんだんと擦れて赤くなりしまいに血が出てきた。それでも歩かないわけにいかないので、擦れるところをかばいつつ歩く。途中薬局でバンドエイドを買い貼ってみる。

35番清滝寺は、土佐市の街に入り、そこから北に抜け、みかん畑の中を縫うように登っていく。もう着く頃かと思って登るのでなかなか到着しない。木の枝で暗くなった道を抜け歩くと、やっと清滝さんの境内に着いた。大きな観音様が出迎えて下さった。

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