仏教は、およそ二五〇〇年ほど前、一人の修行者がインドブッダガヤの地で深い瞑想に入り、人の生き死にの現実を神通力によって知り、その因を知ることでさとりの智慧が生じ、この迷いの世界からの解脱を果たされたことに始まる。その解脱に至るための教えは、厳格に守られていくが、その後、自ら大乗と名乗り、救いを求める多くの大衆に向けて説いた教え・大乗仏教が生まれた。
主にその教えが中央アジアに至り多くの西域の思想が付加されてシルクロードを通り西暦紀元前後に中国に伝えられた。伝来した経巻を悉く漢訳し、その後中国独自に思想として発展した。中国に仏教が伝わってから三百年ほどして、中国から朝鮮に伝わり、わが国には、欽明天皇七年(538)百済の聖明王が、釈迦金銅像と幡蓋などの仏具、それに経巻を天皇に対し献じて公式に仏教が伝えられた。
①聖徳太子の存在
わが国に仏教を採用するにあたっては、新しい教えを積極的に採り入れようとする蘇我氏と古来から祀られている神祇の怒りを招くとする物部氏との対立が起きたとされている。次の敏達天皇は仏教を信じなかったが、この時代に仏像や仏舎利が百済や高句麗からもたらされた。
敏達天皇十三年(584)には、仏像に仕える僧が必要とされ、蘇我氏の仏殿にてわが国最初の出家得度式が高句麗僧恵便を戒師に挙行され、司馬達等の娘ら三人の尼僧が誕生している。次の用明天皇は天皇として初めて仏教に帰依するが、即位二年で崩御すると物部守屋が挙兵し、蘇我氏が後の推古天皇を奉じて討伐。崇仏派の蘇我氏が勝利したことにより、豪族たちは競って氏寺を建て美しい仏像や経典類の調達に奔走した。
そして推古天皇が即位すると用明天皇の子聖徳太子が皇太子になり、四天王寺を大阪難波に建立。翌年には、高句麗僧恵慈を師として仏教を学んだ聖徳太子は、三宝興隆の詔を発して、仏教による道徳精神を国民に宣布。推古十二年(604)に制定した十七条憲法第二条には、「篤く三宝を敬え」として、
近隣諸国に倣い仏教を採用したことを述べた。さらに、太子は勝鬘経、法華経を自ら講じ、後にそれら経典の注釈書を認め、仏教の導入が国家レベルに達していることを内外に示した。
当時仏教を採り入れることは、金銅や木彫の仏像制作には精緻な彫刻加工技術、瓦葺きの大規模な堂塔は精密な建築技術、仏壇、逗子などの仏具類は精巧な工芸技術、法会には伎楽などの仏教音楽、経典書写には筆や紙の製法など、数多の先進文化技術を導入することを意味した。これにより、短期間で近隣諸国に並ぶ国際レベルの国家形成を計ることができたのである。
太子は日本仏教の祖とも言われるが、それは単にわが国最初の仏書を著するなど教えを深く研鑽されただけでなく、随という先進国レベルにわが国を押し上げんがため、仏教を国の教えとして国造りをする範を示されたことにあるのである。
②奈良仏教
奈良時代は、天災や疫病、飢饉や政治の動揺を沈め、国家の安泰を祈るために様々な仏教施策がとられた時代である。律令体制の充実を誇示し飢饉や疫病からの攘災招福の意を込めて遷都した平城京は、奈良の都から仏教を全国に広める発信源となった。
聖武天皇は、皇后とともに政情の安定を願い一切経の書写を発願し、諸国に丈六の釈迦仏、脇侍菩薩を造らせ、大般若経や法華経の書写、七重塔の建設を命じた。天平十三年(741)には、国分僧寺尼寺建立の詔を発して、護国経典・金光明最勝王経による国家鎮護を願われた。そして、帝都奈良には総国分寺として東大寺を創建。当時世界最大の金銅仏である盧舎那大仏を造り、理想国家の象徴として万民の幸福を願ったのである。
天平勝宝四年(752)、東大寺大仏が開眼し、その翌年、中国から伝戒の師鑑真和上が来朝する。大仏殿前に戒壇を設け、聖武太上天皇、孝謙天皇はじめ四百余人が鑑真和上から菩薩戒を受け、官僧八十人ばかりには三師七証という正式な授戒式が行われた。これによって、わが国
にも具足戒を僧尼に授戒する、他国に認められる制度が整えられていくのである。
そして、この時代には、遣唐使らによって中国から伝えられた仏教学派が誕生している。これらは南都六宗と呼ばれ、空の思想を研究する三論宗、付随して研究された成実宗、唯識説について研究する法相宗、その基礎学としての倶舎宗、統一国家の原理とされた華厳教学を学ぶ華厳宗、戒と律全般について研鑽する律宗があった。
③平安仏教
平安時代には日本仏教の二大巨人と言われる最澄と空海が登場する。延暦十三年(794)、桓武天皇は人心の一新と仏教界の刷新のため平安京に遷都。京の鬼門に当たる比叡山に草庵を結ぶ最澄を宮廷の仏事に奉仕する内供奉十禅師に任じ、延暦二十三年(804)に入唐させる。
最澄は帰朝すると桓武天皇の熱烈な歓迎を受け、延暦二十五年には天台、密教、禅、戒律の四つを兼学する一大仏教センターとして天台宗を立宗。後の円仁円珍らの入唐によって本格的な密教がもたらされ天台宗も密教色が強まる。
一方、最澄と同じ第十二次遣唐使に加わった空海は、長安の恵果和尚を訪ね、インド伝来の密教の大法を悉く相伝されて帰国、すべての教えを包摂した広大な実践的思想体系である真言教学を構築し真言宗を開宗した。
空海は東大寺の別当に任ぜられると奈良の仏教界を密教化し、さらには宮中の仏教儀礼をも密教化した。仏教は国家鎮護を祈るものとしてだけでなく、律令体制の衰えによって台頭する特に貴族文化人のために悪霊退散や病気平癒など現世利益への要求が高まり天台、真言の密教による祈祷や儀礼ならびに音楽や絵画は歓迎された。
山岳修行者らが天台真言の密教と結合して組織化され修験となり、神仏の習合が進み、神は仏が姿を変え現れたとする本地垂迹説が説かれた。
また末法思想が流行し、永承七年(1052)から末法の世が始まるとされ、災害が頻発したり社会不安が蔓延したこともあり、人々は現世に絶望し来世に期待するようになる。そうした時代に、空也が京の街角で念仏を広め、源信が往生要集を著して念仏往生の教えを説いた。宇治の平等院などに見られるように貴族たちはこぞって阿弥陀堂を建築した。また寺院に属さない聖という民間布教者が現れて浄土教は全国に広まった。
この時代私的支配が進んだ多くの荘園をもつ大寺院が現れ、貴族の子弟が入寺して階層化し、また地方の治安が乱れて武士団が形成されると、下級僧侶が僧兵化し、さらに院政をとる上皇が正式に出家をして法皇になると、寺院は保護され、横暴を極め中央政治の権力が及ばない時代が続く。
平安時代は、密教という人々の願いを叶えてくれる力ある教えが求められ、宮廷貴族から一般大衆にも仏教が伝わり、心の安寧を神をも包摂した仏教に求め始める時代であった。
④鎌倉仏教
鎌倉時代は比叡山で修行した僧らが新たな教えを興す時代である。源平の合戦以来争乱が続き、さらに天災がしばしば起こって社会不安が増大していたが、旧仏教は、特に大寺院では多くの荘園を持ち他の有力寺院と対立したり上級の僧は権門子弟が占めて政治に関与して俗化し、下級の僧は僧兵となり権力争いに明け暮れ横暴を極めていた。
そこで、真に救いを求める人々の願いにかなう教えとして、まず法然が既に流行していた浄土教をわかりやすく弥陀の本願として救われる道として念仏を唱えれば良いとする教えを説き、公家や武士庶民にいたる広い階層から支持されて浄土宗が成立。そこに馳せ参じた親鸞がさらに罪深き身を顧みるとき自力作善はあり得ないとして絶対他力の教えを説いて、武士や農民に広まり浄土真宗を開いた。一遍は弥陀成仏のとき既に一切衆生の往生は決定していたとして六字の名号の功力によって往生するとして諸国を遊行して時宗が成立。
鎌倉武士たちの気風にあった教えとして、中国からもたらされた禅を第一とする教えが京鎌倉の上級武士らに受け入れられ、二度入宋した栄西によって臨済宗が、また道元が宋から曹洞禅をもたらして座禅は仏としての修行であるとして只管打坐を説き曹洞宗が開かれた。また法華経に絶対帰依する日蓮が一切衆生成仏の真髄としての唱題を説いて日蓮宗が開かれた。
一方奈良の旧仏教界でも、新仏教に触発されて、革新の機運が起き、高山寺の明恵、興福寺の貞慶、唐招提寺の覚盛らは、戒律復興を唱えて、菩提心を疎かにし三学を蔑ろにする新仏教のあり方を批判した。また西大寺を復興した叡尊と弟子の忍性は、乞食や囚人などにいたるまで多くの人々に戒律を授け、悲田院療病院を作り慈善救済活動に尽力した。
旧仏教が学問戒律中心の貴族仏教であっのに対し、新仏教は、教義もわかりやすく修行も簡易で、庶民の救済を主とする仏教であり死後の救いを与えてくれるものでもあった。仏教が人々の葬送に関与する習慣ができるのもこの時代からであった。
⑤室町期
室町期は、幕府が支配していた前期には、安定した時代を背景に各宗派が勢力を浸透させ、応仁の乱後の後期・戦国時代には一向一揆などのように大寺院は政治的な一大勢力となり戦乱に巻き込まれ、地方寺院はおのおの戦国大名のもとで共存しながら生き延びる策を講じた時代である。
まず、将軍家の帰依と保護により発展したのは臨済宗であった。足利尊氏は夢窓疎石の勧めで敵味方一切の霊を弔うため天竜寺や諸国に安国寺と利生塔を建立。三代義満の時代には、南宋の官寺の制に倣い五山十刹の制を整え、五山の僧の中には政治・外交の顧問や宋学、五山文学で活躍する僧が出ている。西芳寺庭園など山水画の趣向をいれた禅宗庭園や書院造りなどの建築、佗茶として広まる茶の湯もこの時代に創始された。
曹洞宗は浄土教や真言などとの兼修禅を唱え主に北陸に教線を拡大し、浄土宗は関東地方に布教して、江戸に増上寺を建立する。
しかし、応仁の乱が起こると、京都の名刹寺宝は灰燼と化し、荘園が消滅した諸大寺は衰退した。一方親鸞の曾孫覚如が大谷本廟を中心とした本願寺を建立し、その後蓮如が出て北陸を中心に現在にいたる真宗教団を築きあげると、一向一揆へと展開し加賀一国を統治するまでに勢力が拡大。このほか京都に勢力を張っていた日蓮宗法華門徒や比叡山衆徒など政治権力に対する抵抗勢力として戦国大名に対抗しうる勢力となった。
天下をほぼ手中にした織田信長は比叡山の堂塔を焼き払い、最後まで各地で激しく抵抗していた一向一揆を平定し、石山本願寺とは和睦を結び集結した。その後高野攻めを決行するもののその間に本願寺にて客死、豊臣秀吉は根来寺の全伽藍を焼き、高野山にも軍勢を向かわせたが、木食応其の説得にあい、逆に自らの祈願のために青厳寺を寄進した。秀吉は検地刀狩りによってすべての寺領を没収して寺院勢力の解体を行い、由緒正しき所領のみ与え懐柔。自らの父母供養のため京都東山に建立した方広寺大仏殿落慶には各宗の僧を招き千僧供養を行った。
鎌倉時代に誕生した新仏教が生活文化にまで浸透する一方、大寺院が政治権力に抵抗する勢力として影響力を示した時代であった。
⑥江戸の仏教
江戸時代は、武力も経済力も失った寺院勢力が、幕府に干渉統制され、封建機構の中に組み込まれていく時代である。幕府は江戸に各宗派の触頭寺院を置かせ、全国の末寺を組織統制させた。そして宗内の職制、住職資格、本寺末寺などが規定された各寺院が守るべき法度を定め、本寺、中本寺、末寺などへ通達がいくよう、すべての寺院を本山が組織する中央集権的な組織に組み入れた。そして法談の制限、勧進募財の取り締まり、新寺建立、新興宗教の禁止自由な布教、新しい教義の提唱が禁止された。
さらに、キリシタン禁制のため全住民に寺請が強要され、どこかの寺院の檀徒になることが義務づけられた。これにより、婚姻、旅行、移住、奉公の際にも寺請証文の携行が、また死亡時には住職検分の上、引導を渡すことが義務づけられた。
今日にいたる檀家制度がこのとき始まるのであるが、これによって、全国民が仏教徒になり、葬式、年忌法要、墓碑の建立が定着し、一家一宗旨、檀那寺の変更も禁止されるに至る。仏教僧が故人の葬儀を執り行うことがこの時期から一般化する。
この時代の仏教は、自由な活動を制限する一方で、檀林、学寮など学問所が整備され宗祖研究、経典解釈など教学の振興が図られた。
檀家制度ができて生活が安定し安逸に陥った仏教界に非難の声が上がると、僧風の粛正や戒律の復興運動が各宗で起こった。比叡山の妙流、霊空、浄土宗の忍徴、霊潭、真言宗では淨厳、慈雲といった学僧らが本来あるべき仏教への回帰を唱えた。
民衆の管理統制の役割を担い、信仰を問わず全国民に仏教徒としての勤めを強いることになり人々に崇高なる信仰の価値を見失わせる発端となった一方、善光寺、高野山や西国などの観音霊場、四国八十八カ所への参拝旅行が一般民衆に流行する時代でもあった。
⑦明治維新と仏教
明治時代、それは日本仏教にとって未曾有の衝撃に襲われた時代である。皇室の保護、国家の体制に護られ、また各時代の為政者に師事されてきた仏教、そして江戸時代には国教と言える地位にあった仏教が、天地逆転して賊教にまで貶められ排斥された。
王政復古の旗印の下に打ち立てた明治新政府は、その権威のため天皇を親権者とする国家神道を国教とする政策を推進する。明治初年、神仏分離令を発令して、神社と寺院を分離したが、それに触発された神職らは幕藩体制下で受けてきた精神的な圧迫に反発すべく民衆を巻き込み寺院建物や仏像経巻など国宝にも比せられる多くのものを破壊した。
神仏分離令から肉食妻帯解禁の布告が出るまでの五年間ほどは各地で廃仏毀釈と言われる野蛮行為が全国に吹き荒れた。寺院が廃合され、僧侶が還俗させられたり、仏像経巻も焼却廃棄された。こぞって僧職が還俗して神官になり、神社に遣えた大寺もあった。そういう時代である。
神道国教化は宮中においても同様に行われ、寺院を勅願所にしたり勅修の仏教儀礼は廃止となり、天皇皇族の菩提所だった泉涌寺との関係は改められ、皇室の葬礼は神式にて行うこととし、黒戸に祀られていた位牌仏具類は泉涌寺などに移された。
敬神愛国を国民に広める役割を神官僧侶に担わせ教導職と呼び、序列を設け、その養成機関として大教院を設立。これは、天皇崇拝と神社信仰を主軸とする宗教的政治的思想を国民に浸透させるものであった。しかしこれは神仏混淆の新たな国教を作ることとなり、当初の神仏分離の原則とも矛盾するものとなり、二年半ほどで解散。
明治五年には、僧侶の肉食妻帯勝手たるべき事との布告がなされ、一般人民同様に苗字を称すこととなり、国家として出家者を特別扱いしないこととなり、これにより仏教の世俗化に拍車がかかったのである。その後、欧米からキリスト教迫害を抗議されたこともあり、神道を非宗教と規定し信教の自由を保障することが通達されるに至る。
こうした仏教排撃の機運に抗して仏教擁護のため僧風の粛正と通仏教の立場から戒律主義による護法運動が起きる。浄土宗の福田行誡、真言宗の釈雲照らは僧侶のあるべき姿を真摯に守るべき事を僧界に要求し、自ら実践して、他宗の僧侶からも民衆からも崇敬された。
さらに学校教育によって西洋の近代的知識が浸透することで社会生活における仏教の知的地位が低下していたが、原坦山、大内青巒、井上円了、村上専精などによる仏教の開明的啓蒙活動が盛んに行われた。
そして、欧州で花開いた近代仏教学が、東本願寺の南条文雄、笠原研寿によってもたらされ、これに楠順次郎が続き、漢訳仏教ではない、インドの原典からの仏教研究が学問仏教では主流となっていった。その後釈興然、釈宗演などスリランカ仏教界に留学する僧侶が現れ、また河口慧海は経典を求めてチベットに潜入した。
そうした中、米国人オルコット大佐がスリランカを経由して正式な仏教徒として、スリランカ仏教界からの親書を携えて来日し、各本山管長と会談し、全国に講演旅行をして仏教の基本を説き日本仏教の復興を後押しした。
また明治半ばより、居士仏教、在家仏教と呼ばれる道心堅固な在家仏教者ないし還俗した仏教者たちにより座禅や聞法、機関誌の発行など様々な仏教啓蒙運動が展開されるが、後に多くの新興宗教を生むことになる日蓮系の組織にあってはこの時代に既に、出家在家を越えて真に信仰を持つ者こそが重要であることを表明して講組織を拡大し教団組織を形成した。
文明開化のこの時代、国家神道体制の枠の中で、僧侶や在家仏教者たちにより、新時代に相応しい仏教のあり方が様々に模索され、仏教の近代化のために様々な活動が展開された時代であった。
⑧近現代の仏教
大正から昭和にかけて戦時体制が強まる中で、思想宗教がなりを潜めていく時代、仏教も同様に圧迫を受け、天皇主義ないし政治教学と言われるような戦争協力的な姿勢を取り戦時体制の中に組み込まれていった。
そうした中、昭和九年には、高島米峰の新仏教運動に影響されて仏教復興運動(真理運動)を開始した友松圓諦、高神覚昇らによるラジオによる法句経、般若心経の講義は大人気を博し、不安な心情の中に生きていた当時の人々の心のより所となった。
各宗団は、植民地政策、大陸侵攻にも深く関わりそこで布教活動を展開した。朝鮮では、皇民化政策の推進のため皇道仏教を押しつけ仏教界を統一し、台湾や満州では日本の宗派が個別に進出して親日的な組織を作り侵略を補助した。
戦後は、都市部の寺院は戦災に遭い、地方では、もともと寺院は一定の土地を所有しそれを小作に耕作させ小作料により維持されてきたが、戦後の農地解放によりそうした土地さえも奪われ、やむなく葬式法事に寺院の主たる活動が特化せざるをえない状況に追い込まれていったのであった。
そして、1952年、真理運動を起こした友松圓諦師らの尽力により、世界仏教徒連盟会議第二回が日本で開かれ、それにより国際社会に復帰する手がかりとしていく。その後、高度成長期に進む都市への人口流入に伴い、明治に起こった在家主義仏教の流れをくむ新興宗教が都市部を中心に浸透し、日蓮宗系の諸団体が大きな勢力となった。
今日では、都市化に少子化が進み、地方寺院と檀家との密接な関係が薄れつつあり、永代供養墓の普及、ならびに都会では地域との関係も薄れ家族葬、直葬が流行している。さらに、墓じまいと言うように、古来日本人が大切にしてきた先祖祭祀の根本であった、先祖代々の墓さえも整理廃棄してしまうなど、己の存立の根拠さえ無くてよいとする、日本人としての宗教観を喪失した時代でもある。
しかし一方で、国宝に指定された仏像などの展示には何十万もの人が拝観に訪れ、奈良京都などの古寺に詣り仏像や庭を鑑賞したり、写経や座禅の実践にのぞんだり、また四国遍路など巡礼にも関心が高く、閉塞した時代の心の癒やしを仏教に求めてもいる。
また、特に都市部を中心に寺離れという現象が問題視される中、1980年代から、スリランカなど南方仏教の僧侶が日本に長期に滞在して布教し、今日では多くの書籍が出版され、全国に布教所や寺院を建立して、多くの人々が聞法瞑想に励んでいる。
さらに最近の話題としては、明治初期に分離された寺院と神社が、東日本大震災後に神と仏が手を結んで、疲弊した多くの人々の心の安寧のために関西一円の大寺社が神仏霊場会を立ち上げたことは特筆されよう。
戦後の占領政策から日本人の宗教観はこの七十年で著しく崩壊したかの感が否めない。それでも多くの人たちが、西洋での仏教ブームにも見られるように進歩した科学文明や過酷な情報社会、経済の低迷の中で精神的な解放を仏教に求めていることは確かなことであろう。伝来以来この国にとって大切な精神的な支柱であり続けてきた仏教は、いま、私たちの心身に無意識のまま浸透しているとも言える。江戸時代につくられた家の宗教としての仏教から、瞑想や巡礼、写経など実践による個人の心の平安、また生き方を模索する手立てとしての仏教へ転換が求められている時代と言えようか。
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主にその教えが中央アジアに至り多くの西域の思想が付加されてシルクロードを通り西暦紀元前後に中国に伝えられた。伝来した経巻を悉く漢訳し、その後中国独自に思想として発展した。中国に仏教が伝わってから三百年ほどして、中国から朝鮮に伝わり、わが国には、欽明天皇七年(538)百済の聖明王が、釈迦金銅像と幡蓋などの仏具、それに経巻を天皇に対し献じて公式に仏教が伝えられた。
①聖徳太子の存在
わが国に仏教を採用するにあたっては、新しい教えを積極的に採り入れようとする蘇我氏と古来から祀られている神祇の怒りを招くとする物部氏との対立が起きたとされている。次の敏達天皇は仏教を信じなかったが、この時代に仏像や仏舎利が百済や高句麗からもたらされた。
敏達天皇十三年(584)には、仏像に仕える僧が必要とされ、蘇我氏の仏殿にてわが国最初の出家得度式が高句麗僧恵便を戒師に挙行され、司馬達等の娘ら三人の尼僧が誕生している。次の用明天皇は天皇として初めて仏教に帰依するが、即位二年で崩御すると物部守屋が挙兵し、蘇我氏が後の推古天皇を奉じて討伐。崇仏派の蘇我氏が勝利したことにより、豪族たちは競って氏寺を建て美しい仏像や経典類の調達に奔走した。
そして推古天皇が即位すると用明天皇の子聖徳太子が皇太子になり、四天王寺を大阪難波に建立。翌年には、高句麗僧恵慈を師として仏教を学んだ聖徳太子は、三宝興隆の詔を発して、仏教による道徳精神を国民に宣布。推古十二年(604)に制定した十七条憲法第二条には、「篤く三宝を敬え」として、
近隣諸国に倣い仏教を採用したことを述べた。さらに、太子は勝鬘経、法華経を自ら講じ、後にそれら経典の注釈書を認め、仏教の導入が国家レベルに達していることを内外に示した。
当時仏教を採り入れることは、金銅や木彫の仏像制作には精緻な彫刻加工技術、瓦葺きの大規模な堂塔は精密な建築技術、仏壇、逗子などの仏具類は精巧な工芸技術、法会には伎楽などの仏教音楽、経典書写には筆や紙の製法など、数多の先進文化技術を導入することを意味した。これにより、短期間で近隣諸国に並ぶ国際レベルの国家形成を計ることができたのである。
太子は日本仏教の祖とも言われるが、それは単にわが国最初の仏書を著するなど教えを深く研鑽されただけでなく、随という先進国レベルにわが国を押し上げんがため、仏教を国の教えとして国造りをする範を示されたことにあるのである。
②奈良仏教
奈良時代は、天災や疫病、飢饉や政治の動揺を沈め、国家の安泰を祈るために様々な仏教施策がとられた時代である。律令体制の充実を誇示し飢饉や疫病からの攘災招福の意を込めて遷都した平城京は、奈良の都から仏教を全国に広める発信源となった。
聖武天皇は、皇后とともに政情の安定を願い一切経の書写を発願し、諸国に丈六の釈迦仏、脇侍菩薩を造らせ、大般若経や法華経の書写、七重塔の建設を命じた。天平十三年(741)には、国分僧寺尼寺建立の詔を発して、護国経典・金光明最勝王経による国家鎮護を願われた。そして、帝都奈良には総国分寺として東大寺を創建。当時世界最大の金銅仏である盧舎那大仏を造り、理想国家の象徴として万民の幸福を願ったのである。
天平勝宝四年(752)、東大寺大仏が開眼し、その翌年、中国から伝戒の師鑑真和上が来朝する。大仏殿前に戒壇を設け、聖武太上天皇、孝謙天皇はじめ四百余人が鑑真和上から菩薩戒を受け、官僧八十人ばかりには三師七証という正式な授戒式が行われた。これによって、わが国
にも具足戒を僧尼に授戒する、他国に認められる制度が整えられていくのである。
そして、この時代には、遣唐使らによって中国から伝えられた仏教学派が誕生している。これらは南都六宗と呼ばれ、空の思想を研究する三論宗、付随して研究された成実宗、唯識説について研究する法相宗、その基礎学としての倶舎宗、統一国家の原理とされた華厳教学を学ぶ華厳宗、戒と律全般について研鑽する律宗があった。
③平安仏教
平安時代には日本仏教の二大巨人と言われる最澄と空海が登場する。延暦十三年(794)、桓武天皇は人心の一新と仏教界の刷新のため平安京に遷都。京の鬼門に当たる比叡山に草庵を結ぶ最澄を宮廷の仏事に奉仕する内供奉十禅師に任じ、延暦二十三年(804)に入唐させる。
最澄は帰朝すると桓武天皇の熱烈な歓迎を受け、延暦二十五年には天台、密教、禅、戒律の四つを兼学する一大仏教センターとして天台宗を立宗。後の円仁円珍らの入唐によって本格的な密教がもたらされ天台宗も密教色が強まる。
一方、最澄と同じ第十二次遣唐使に加わった空海は、長安の恵果和尚を訪ね、インド伝来の密教の大法を悉く相伝されて帰国、すべての教えを包摂した広大な実践的思想体系である真言教学を構築し真言宗を開宗した。
空海は東大寺の別当に任ぜられると奈良の仏教界を密教化し、さらには宮中の仏教儀礼をも密教化した。仏教は国家鎮護を祈るものとしてだけでなく、律令体制の衰えによって台頭する特に貴族文化人のために悪霊退散や病気平癒など現世利益への要求が高まり天台、真言の密教による祈祷や儀礼ならびに音楽や絵画は歓迎された。
山岳修行者らが天台真言の密教と結合して組織化され修験となり、神仏の習合が進み、神は仏が姿を変え現れたとする本地垂迹説が説かれた。
また末法思想が流行し、永承七年(1052)から末法の世が始まるとされ、災害が頻発したり社会不安が蔓延したこともあり、人々は現世に絶望し来世に期待するようになる。そうした時代に、空也が京の街角で念仏を広め、源信が往生要集を著して念仏往生の教えを説いた。宇治の平等院などに見られるように貴族たちはこぞって阿弥陀堂を建築した。また寺院に属さない聖という民間布教者が現れて浄土教は全国に広まった。
この時代私的支配が進んだ多くの荘園をもつ大寺院が現れ、貴族の子弟が入寺して階層化し、また地方の治安が乱れて武士団が形成されると、下級僧侶が僧兵化し、さらに院政をとる上皇が正式に出家をして法皇になると、寺院は保護され、横暴を極め中央政治の権力が及ばない時代が続く。
平安時代は、密教という人々の願いを叶えてくれる力ある教えが求められ、宮廷貴族から一般大衆にも仏教が伝わり、心の安寧を神をも包摂した仏教に求め始める時代であった。
④鎌倉仏教
鎌倉時代は比叡山で修行した僧らが新たな教えを興す時代である。源平の合戦以来争乱が続き、さらに天災がしばしば起こって社会不安が増大していたが、旧仏教は、特に大寺院では多くの荘園を持ち他の有力寺院と対立したり上級の僧は権門子弟が占めて政治に関与して俗化し、下級の僧は僧兵となり権力争いに明け暮れ横暴を極めていた。
そこで、真に救いを求める人々の願いにかなう教えとして、まず法然が既に流行していた浄土教をわかりやすく弥陀の本願として救われる道として念仏を唱えれば良いとする教えを説き、公家や武士庶民にいたる広い階層から支持されて浄土宗が成立。そこに馳せ参じた親鸞がさらに罪深き身を顧みるとき自力作善はあり得ないとして絶対他力の教えを説いて、武士や農民に広まり浄土真宗を開いた。一遍は弥陀成仏のとき既に一切衆生の往生は決定していたとして六字の名号の功力によって往生するとして諸国を遊行して時宗が成立。
鎌倉武士たちの気風にあった教えとして、中国からもたらされた禅を第一とする教えが京鎌倉の上級武士らに受け入れられ、二度入宋した栄西によって臨済宗が、また道元が宋から曹洞禅をもたらして座禅は仏としての修行であるとして只管打坐を説き曹洞宗が開かれた。また法華経に絶対帰依する日蓮が一切衆生成仏の真髄としての唱題を説いて日蓮宗が開かれた。
一方奈良の旧仏教界でも、新仏教に触発されて、革新の機運が起き、高山寺の明恵、興福寺の貞慶、唐招提寺の覚盛らは、戒律復興を唱えて、菩提心を疎かにし三学を蔑ろにする新仏教のあり方を批判した。また西大寺を復興した叡尊と弟子の忍性は、乞食や囚人などにいたるまで多くの人々に戒律を授け、悲田院療病院を作り慈善救済活動に尽力した。
旧仏教が学問戒律中心の貴族仏教であっのに対し、新仏教は、教義もわかりやすく修行も簡易で、庶民の救済を主とする仏教であり死後の救いを与えてくれるものでもあった。仏教が人々の葬送に関与する習慣ができるのもこの時代からであった。
⑤室町期
室町期は、幕府が支配していた前期には、安定した時代を背景に各宗派が勢力を浸透させ、応仁の乱後の後期・戦国時代には一向一揆などのように大寺院は政治的な一大勢力となり戦乱に巻き込まれ、地方寺院はおのおの戦国大名のもとで共存しながら生き延びる策を講じた時代である。
まず、将軍家の帰依と保護により発展したのは臨済宗であった。足利尊氏は夢窓疎石の勧めで敵味方一切の霊を弔うため天竜寺や諸国に安国寺と利生塔を建立。三代義満の時代には、南宋の官寺の制に倣い五山十刹の制を整え、五山の僧の中には政治・外交の顧問や宋学、五山文学で活躍する僧が出ている。西芳寺庭園など山水画の趣向をいれた禅宗庭園や書院造りなどの建築、佗茶として広まる茶の湯もこの時代に創始された。
曹洞宗は浄土教や真言などとの兼修禅を唱え主に北陸に教線を拡大し、浄土宗は関東地方に布教して、江戸に増上寺を建立する。
しかし、応仁の乱が起こると、京都の名刹寺宝は灰燼と化し、荘園が消滅した諸大寺は衰退した。一方親鸞の曾孫覚如が大谷本廟を中心とした本願寺を建立し、その後蓮如が出て北陸を中心に現在にいたる真宗教団を築きあげると、一向一揆へと展開し加賀一国を統治するまでに勢力が拡大。このほか京都に勢力を張っていた日蓮宗法華門徒や比叡山衆徒など政治権力に対する抵抗勢力として戦国大名に対抗しうる勢力となった。
天下をほぼ手中にした織田信長は比叡山の堂塔を焼き払い、最後まで各地で激しく抵抗していた一向一揆を平定し、石山本願寺とは和睦を結び集結した。その後高野攻めを決行するもののその間に本願寺にて客死、豊臣秀吉は根来寺の全伽藍を焼き、高野山にも軍勢を向かわせたが、木食応其の説得にあい、逆に自らの祈願のために青厳寺を寄進した。秀吉は検地刀狩りによってすべての寺領を没収して寺院勢力の解体を行い、由緒正しき所領のみ与え懐柔。自らの父母供養のため京都東山に建立した方広寺大仏殿落慶には各宗の僧を招き千僧供養を行った。
鎌倉時代に誕生した新仏教が生活文化にまで浸透する一方、大寺院が政治権力に抵抗する勢力として影響力を示した時代であった。
⑥江戸の仏教
江戸時代は、武力も経済力も失った寺院勢力が、幕府に干渉統制され、封建機構の中に組み込まれていく時代である。幕府は江戸に各宗派の触頭寺院を置かせ、全国の末寺を組織統制させた。そして宗内の職制、住職資格、本寺末寺などが規定された各寺院が守るべき法度を定め、本寺、中本寺、末寺などへ通達がいくよう、すべての寺院を本山が組織する中央集権的な組織に組み入れた。そして法談の制限、勧進募財の取り締まり、新寺建立、新興宗教の禁止自由な布教、新しい教義の提唱が禁止された。
さらに、キリシタン禁制のため全住民に寺請が強要され、どこかの寺院の檀徒になることが義務づけられた。これにより、婚姻、旅行、移住、奉公の際にも寺請証文の携行が、また死亡時には住職検分の上、引導を渡すことが義務づけられた。
今日にいたる檀家制度がこのとき始まるのであるが、これによって、全国民が仏教徒になり、葬式、年忌法要、墓碑の建立が定着し、一家一宗旨、檀那寺の変更も禁止されるに至る。仏教僧が故人の葬儀を執り行うことがこの時期から一般化する。
この時代の仏教は、自由な活動を制限する一方で、檀林、学寮など学問所が整備され宗祖研究、経典解釈など教学の振興が図られた。
檀家制度ができて生活が安定し安逸に陥った仏教界に非難の声が上がると、僧風の粛正や戒律の復興運動が各宗で起こった。比叡山の妙流、霊空、浄土宗の忍徴、霊潭、真言宗では淨厳、慈雲といった学僧らが本来あるべき仏教への回帰を唱えた。
民衆の管理統制の役割を担い、信仰を問わず全国民に仏教徒としての勤めを強いることになり人々に崇高なる信仰の価値を見失わせる発端となった一方、善光寺、高野山や西国などの観音霊場、四国八十八カ所への参拝旅行が一般民衆に流行する時代でもあった。
⑦明治維新と仏教
明治時代、それは日本仏教にとって未曾有の衝撃に襲われた時代である。皇室の保護、国家の体制に護られ、また各時代の為政者に師事されてきた仏教、そして江戸時代には国教と言える地位にあった仏教が、天地逆転して賊教にまで貶められ排斥された。
王政復古の旗印の下に打ち立てた明治新政府は、その権威のため天皇を親権者とする国家神道を国教とする政策を推進する。明治初年、神仏分離令を発令して、神社と寺院を分離したが、それに触発された神職らは幕藩体制下で受けてきた精神的な圧迫に反発すべく民衆を巻き込み寺院建物や仏像経巻など国宝にも比せられる多くのものを破壊した。
神仏分離令から肉食妻帯解禁の布告が出るまでの五年間ほどは各地で廃仏毀釈と言われる野蛮行為が全国に吹き荒れた。寺院が廃合され、僧侶が還俗させられたり、仏像経巻も焼却廃棄された。こぞって僧職が還俗して神官になり、神社に遣えた大寺もあった。そういう時代である。
神道国教化は宮中においても同様に行われ、寺院を勅願所にしたり勅修の仏教儀礼は廃止となり、天皇皇族の菩提所だった泉涌寺との関係は改められ、皇室の葬礼は神式にて行うこととし、黒戸に祀られていた位牌仏具類は泉涌寺などに移された。
敬神愛国を国民に広める役割を神官僧侶に担わせ教導職と呼び、序列を設け、その養成機関として大教院を設立。これは、天皇崇拝と神社信仰を主軸とする宗教的政治的思想を国民に浸透させるものであった。しかしこれは神仏混淆の新たな国教を作ることとなり、当初の神仏分離の原則とも矛盾するものとなり、二年半ほどで解散。
明治五年には、僧侶の肉食妻帯勝手たるべき事との布告がなされ、一般人民同様に苗字を称すこととなり、国家として出家者を特別扱いしないこととなり、これにより仏教の世俗化に拍車がかかったのである。その後、欧米からキリスト教迫害を抗議されたこともあり、神道を非宗教と規定し信教の自由を保障することが通達されるに至る。
こうした仏教排撃の機運に抗して仏教擁護のため僧風の粛正と通仏教の立場から戒律主義による護法運動が起きる。浄土宗の福田行誡、真言宗の釈雲照らは僧侶のあるべき姿を真摯に守るべき事を僧界に要求し、自ら実践して、他宗の僧侶からも民衆からも崇敬された。
さらに学校教育によって西洋の近代的知識が浸透することで社会生活における仏教の知的地位が低下していたが、原坦山、大内青巒、井上円了、村上専精などによる仏教の開明的啓蒙活動が盛んに行われた。
そして、欧州で花開いた近代仏教学が、東本願寺の南条文雄、笠原研寿によってもたらされ、これに楠順次郎が続き、漢訳仏教ではない、インドの原典からの仏教研究が学問仏教では主流となっていった。その後釈興然、釈宗演などスリランカ仏教界に留学する僧侶が現れ、また河口慧海は経典を求めてチベットに潜入した。
そうした中、米国人オルコット大佐がスリランカを経由して正式な仏教徒として、スリランカ仏教界からの親書を携えて来日し、各本山管長と会談し、全国に講演旅行をして仏教の基本を説き日本仏教の復興を後押しした。
また明治半ばより、居士仏教、在家仏教と呼ばれる道心堅固な在家仏教者ないし還俗した仏教者たちにより座禅や聞法、機関誌の発行など様々な仏教啓蒙運動が展開されるが、後に多くの新興宗教を生むことになる日蓮系の組織にあってはこの時代に既に、出家在家を越えて真に信仰を持つ者こそが重要であることを表明して講組織を拡大し教団組織を形成した。
文明開化のこの時代、国家神道体制の枠の中で、僧侶や在家仏教者たちにより、新時代に相応しい仏教のあり方が様々に模索され、仏教の近代化のために様々な活動が展開された時代であった。
⑧近現代の仏教
大正から昭和にかけて戦時体制が強まる中で、思想宗教がなりを潜めていく時代、仏教も同様に圧迫を受け、天皇主義ないし政治教学と言われるような戦争協力的な姿勢を取り戦時体制の中に組み込まれていった。
そうした中、昭和九年には、高島米峰の新仏教運動に影響されて仏教復興運動(真理運動)を開始した友松圓諦、高神覚昇らによるラジオによる法句経、般若心経の講義は大人気を博し、不安な心情の中に生きていた当時の人々の心のより所となった。
各宗団は、植民地政策、大陸侵攻にも深く関わりそこで布教活動を展開した。朝鮮では、皇民化政策の推進のため皇道仏教を押しつけ仏教界を統一し、台湾や満州では日本の宗派が個別に進出して親日的な組織を作り侵略を補助した。
戦後は、都市部の寺院は戦災に遭い、地方では、もともと寺院は一定の土地を所有しそれを小作に耕作させ小作料により維持されてきたが、戦後の農地解放によりそうした土地さえも奪われ、やむなく葬式法事に寺院の主たる活動が特化せざるをえない状況に追い込まれていったのであった。
そして、1952年、真理運動を起こした友松圓諦師らの尽力により、世界仏教徒連盟会議第二回が日本で開かれ、それにより国際社会に復帰する手がかりとしていく。その後、高度成長期に進む都市への人口流入に伴い、明治に起こった在家主義仏教の流れをくむ新興宗教が都市部を中心に浸透し、日蓮宗系の諸団体が大きな勢力となった。
今日では、都市化に少子化が進み、地方寺院と檀家との密接な関係が薄れつつあり、永代供養墓の普及、ならびに都会では地域との関係も薄れ家族葬、直葬が流行している。さらに、墓じまいと言うように、古来日本人が大切にしてきた先祖祭祀の根本であった、先祖代々の墓さえも整理廃棄してしまうなど、己の存立の根拠さえ無くてよいとする、日本人としての宗教観を喪失した時代でもある。
しかし一方で、国宝に指定された仏像などの展示には何十万もの人が拝観に訪れ、奈良京都などの古寺に詣り仏像や庭を鑑賞したり、写経や座禅の実践にのぞんだり、また四国遍路など巡礼にも関心が高く、閉塞した時代の心の癒やしを仏教に求めてもいる。
また、特に都市部を中心に寺離れという現象が問題視される中、1980年代から、スリランカなど南方仏教の僧侶が日本に長期に滞在して布教し、今日では多くの書籍が出版され、全国に布教所や寺院を建立して、多くの人々が聞法瞑想に励んでいる。
さらに最近の話題としては、明治初期に分離された寺院と神社が、東日本大震災後に神と仏が手を結んで、疲弊した多くの人々の心の安寧のために関西一円の大寺社が神仏霊場会を立ち上げたことは特筆されよう。
戦後の占領政策から日本人の宗教観はこの七十年で著しく崩壊したかの感が否めない。それでも多くの人たちが、西洋での仏教ブームにも見られるように進歩した科学文明や過酷な情報社会、経済の低迷の中で精神的な解放を仏教に求めていることは確かなことであろう。伝来以来この国にとって大切な精神的な支柱であり続けてきた仏教は、いま、私たちの心身に無意識のまま浸透しているとも言える。江戸時代につくられた家の宗教としての仏教から、瞑想や巡礼、写経など実践による個人の心の平安、また生き方を模索する手立てとしての仏教へ転換が求められている時代と言えようか。
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聖徳太子から始まって、歴史のくくりごとにその時代の仏教の様子が書いてありました。とてもクリアでした。
立ち読みでなく欲しいのお。。