あ、これ、6月19日の夕刊の話です。
「よみうり寸評」というコラムが一面に載っているのですが、
念仏の「南無妙法蓮華経」のごとく聞こえた
とあって、ビックリ、ガッカリ したのでした。
「
念仏」というのは、【仏さま】を念ずる事です。
最初の「
南無」は
帰依します、心から信仰します、という「
なーむ」です。
阿弥陀様のお名前を唱える事を意味する事が多いと思います。
が、観音菩薩でも 薬師如来でも 不動明王でも
「
念仏」と呼べるのではないでしょうか。
お祖師さまの お名前の始に「
南無」と付ける事もあります。
「
南無釈迦牟尼仏・・・」
「
南無観音菩薩・・・」
「
南無天台大師・・・」
お名前を 口に出して 繰り返し唱える。
心の中で 【仏さま】の名前を読んだり お姿やお心を想像する。
心の中に その【仏さま】のお姿や お心を想像しながら
お名前を唱える。
そんなのが 「
念仏」だと思います。
一方で、【妙法蓮華経】というのは、お経の名前です。
【法華経(ほけきょう)】という お経の名前を
お聞きになった事のある方も多いでしょう。
【法華経】の
題目に 「妙なる(すばらしい)」を付け、
さらに「
なーむ」を付けています。

吉祥寺本堂の真ん中、導師が座る席の前に並ぶ法華経
【法華経は 素晴らしいお経であるから、
そのお経の名前(
題目)を唱えるだけで
功徳がある。
修行の末に この思想に至ったのは、親鸞聖人です。
親鸞聖人は 天台宗の僧侶として 出家し、修行なさいました。
【法華経】を 大切な経典とするのは 天台宗の教えです。
中瀬の吉祥寺では、通常、
お
題目を唱えるのではなく、法華経の一部分を読誦します。
自我偈 とか 観音経 が多いです。

これを広げるのではなく、折本になっている経本を広げて読みます
でも、「
南無妙法蓮華経」は 「
念仏」とは違います。
この事が 一般常識の範囲に入っているのかどうか、
私はすでに わからなくなっていますが(苦笑)、
一般常識を 世間一般の人より よくわかっているのが
コラムを書く人かと思っていたので、
ビックリして ガッカリしたのでした。
私としては、やはり「
題目」と「
念仏」は 分けて理解してほしい。
コラムで紹介されていたのは、
阪神大震災でトイレに閉じ込められた94歳の俳人が
銅器を洗面台に打ち付けて居場所を知らせ続け、
救出されたというお話でした。
カンカラカン、カンカラカン というリズムを刻んで。
「その音は 念仏の
「南無妙法蓮華経
」のごとく聞こえたと・・・」
「
念仏」も 「お
題目」も 修行のひとつです。
長い時間 修行するためには リズムが大事かもしれません。
「打音の繰り返しは、危機下で 心の均衡を保つ意味もあったらしい」
とコラムニストは言います。
殊に 励まし合う人のいない 一人きりの場合は
効果があるかもしれません。
あれ?
「カンカラカン」って、「南無妙法蓮華経」じゃなくて、
「なむあみだーぶ」のリズムじゃないですか?