「白い恐怖」 1945年 アメリカ
監督 アルフレッド・ヒッチコック
出演 イングリッド・バーグマン グレゴリー・ペック
レオ・G・キャロル ジョン・エメリー
ウォーレス・フォード ロンダ・フレミング
ストーリー
舞台はアメリカのバーモント州にある精神病院。
所長のマーチソンが辞め、新しくエドワーズ博士という人物が後任で来ることになった。
恋愛に興味がないと評判の女医コンスタンスは、歓迎会でエドワーズ博士を見た瞬間恋に落ちてしまう。
しかしコンスタンスが病院内に作るプールの説明を始めたところ、白地のテーブルクロスに書かれた線を見たエドワーズは不機嫌になってしまう。
翌日、父親を殺したと思い込んでいる患者ガームズを診療した後、コンスタンスはエドワーズに散歩に誘われ、
その日の夜、エドワーズが書いたサイン入りの本を読んだコンスタンスは所長室を訪ねた。
互いに惹かれていることが分かり抱き合う二人だったが、コンスタンスのガウンにあった縞模様を見たエドワーズに発作が起きてしまう。
その直後、ガームズが自殺未遂を起こしたという知らせが届いた。
手術室でエドワーズが錯乱状態になってしまいコンスタンスは介抱するが、彼が彼女に渡したサインとエドワーズが書いた本に記された著者のサインが違うことに気がつく。
正体を疑ったコンスタンスはエドワーズを詰問したところ、「自分がエドワーズを殺した」との一点張りで、彼は記憶喪失に陥っていた。
ただ彼の煙草入れにはJ.B.というイニシャルがあり、それが名前らしいということが判明する。
J.Bは置手紙を残してニューヨークへ逃亡、後を追ったコンスタンスは自身の恩師であるブルロフ博士のところへ連れていく。
ベッドの縞模様や洗面台にできる白地の縞模様を見て再び発作を起こすJ.B。
博士の治療で彼の発作はガブリエル・ヴァレーでの出来事が原因だと判明する。
コンスタンスと共にそこへ向かい、スキーをするうちにJ.B.は記憶を取り戻したのだが・・・。
寸評
雑なところもあるけれど、テキパキとストーリーを運んでいくので楽しめる。
早々にヒロインのイングリッド・バーグマンが登場し、やがて新任の院長としてグレゴリー・ペックが登場する。
病院の先生たちが集って食事をしている所で初めて対面したイングリッド・バーグマンとグレゴリー・ペックは一目で恋に落ちる。
いわゆる一目ぼれというやつだが、これはちょっと唐突過ぎる描き方でご都合主義に感じる。
そこでグレゴリー・ペックの異変が示され、いよいよミステリーの開始だとわかる展開はスムーズだ。
ところが、精神科病院のためかやたらと心理学的な説明や夢に対する説明が多くて、その場面になると間延び感を感じてしまう。
この時代ではフロイトに代表されるような心理学がもてはやされていたのかもしれず、それが映画にも反映されたのかもしれないなと思う。
その為に、グレゴリー・ペックが語る夢の幻想シーンで使用されるダリの作品があっという間の描写で終わったような気がした。
作品中で一番ハラハラさせるシーンとなっていているのがJ.Bとコンスタンスの恩師であるブルロフ博士が対峙する場面だ。
J.Bはひげを剃ろうとカミソリを手にしたところ、白の恐怖に次々と襲われる。
錯乱状態となって隣の部屋に行くと、そこにはブルロフ博士がいる。
博士の所に行った時のアングルは、J.Bが持ったカミソリ越しに博士の姿があり、今にも襲わんかなという雰囲気を醸し出すものである。
画面の手前に大きく映るカミソリがあり、J.Bの全身は画面になくカミソリを持つ手だけが見える。
そして差し出されたものはまたしても白の象徴でもあるミルクだ。
飲み干すミルクがJ.Bの視線でとらえられ画面をふさいでいく。
そして次のシーンで椅子に横たわっている博士が映し出される。
一連の流れるようなカメラワークには惚れ惚れするものがあり、思わず「上手い!」と叫びたくなる。
演じているのがグレゴリー・ペックなので、彼がエドワーズを殺していないことは分かっているものの、予想外の人が真犯人で「ああ、なるほど」と思わせるのだが、もう少し伏線があっても良かったように思う。
グレゴリー・ペックの幼児体験も納得できるものだが、描き方には物足りなさを感じる。
そもそもどのようにして記憶喪失になったのかが分からないので、記憶が戻る時のインパクトも弱い。
しかし、そこからもうひとひねりしているのはサスペンスとしては合格点だ。
この映画では完全にイングリッド・バーグマンがグレゴリー・ペックを凌駕していて、眼鏡をかけて理知的なイメージを出す彼女の魅力が前面に出ている。
逃亡劇においても彼女がリード役となっているし、刑事の前でも堂々たる態度を貫いている。
ラストシーンを見ると、彼らは本当のハネムーンに出かけるようなのだが、きっとこの夫婦はグレゴリー・ペックが尻に敷かれるのだろうなと思わせる。
人間には多かれ少なかれ、幼児体験によって、自らを無意識に規制することが、ままあるような気がします。
このアルフレッド・ヒッチコック監督、イングリッド・バーグマン、グレゴリー・ペック主演の「白い恐怖」は、原題の「SPELLBOUND(呪文で綴られた)」が示すように、そんな幼児体験によって、無意識に"罪の意識"に縛られた男が、愛する者の協力によって、それを克服していく愛の物語になっていると思います。
とある精神病院に、新院長のエドワード(グレゴリー・ペック)が赴任してきます。
女医のコンスタンス(イングリッド・バーグマン)は、彼に次第に惹かれていくが、実は彼が本物のエドワードではなく、記憶喪失者であることがわかってきます。
やがて、彼に本物のエドワード殺しの容疑がかかるが、無実を信じるコンスタンスは、彼の記憶を甦らせようと、一緒に逃亡しながら、精神分析を駆使して真実を究明していくのだった----------。
1944年のこの作品「白い恐怖」は、アルフレッド・ヒッチコック監督が、以前から興味を抱いていたという、フロイトの精神分析学をストーリーに大胆に導入した、初めての心理学映画になっていると思います。
以後、彼の作品には、「サイコ」「マーニー」など、同系統の作品がしばしば登場することになりますが、特に精神分析学が"謎解きの鍵"となる心理サスペンスという点で、「マーニー」の先駆的作品になっていると思います。
しかし、当時としては斬新に見えたであろう、このストーリー展開も今の時点で見ると、正直、少し陳腐なものに見えてしまいます。
「濡れ衣を着せられた者の逃避行」だとか、「追われながら追う」と言ったヒッチコック作品の典型的なスタイルをとってはいるものの、フロイトの精神分析や夢判断を露骨に導入し過ぎているため、謎解きが定石通りであまりにも呆気ないのです。
このことは、後の「マーニー」にも言えることで、つまり、論理では説明不可能な人間の心理を多く見ている、我々現代人にとって、この作品のストーリー展開は、あまりにも物足りないのです。
ストーリー的な難点はまだあります。
グレゴリー・ペック扮するエドワードが、自分の正体がバレて、逃亡する時、イングリッド・バーグマン扮するコンスタンスに置き手紙を書きますが、「君に迷惑をかけたくない」と言っているわりには、ちゃんと自分の居場所を明記しているのは、ちょっとむしが良すぎるのではないかという気がします。
また、その置き手紙を病院の者が発見しても、気にせずバーグマンに渡すのも、何か間が抜けているように思います。
このような、いくつかのストーリー上の問題点があることで、この作品が現代の私を含む多くのヒッチコック映画の愛好者にとって、彼のフィルモグラフィーの中で、あまり重要な作品ではないのではないか?----------と。
だが、答えはNO! だと断言できます。
この作品は、ヒッチコック自身を語る上で、実に重要な作品の一つだからです。
この「白い恐怖」のキー・ワードは、「人間の罪の意識」だと思います。
実際、作品の中にも、精神科医エドワードの著書名、あるいは、バーグマンやペックのセリフの中などに「罪の意識」という言葉が、頻繁に出てきます。
このことから考えると、それはそのままヒッチコック自身の問題でもあったのではないか?
実際、彼は幼少の頃を振り返って、「幼い時から、悪いことをして罰せられることが一番の恐怖だった」と語っています。
厳しい戒律を重んじるイエズス会の学校で学んだヒッチコックは、そんな「罪に対する恐怖」を生涯持ち続けながら、"抑制と規律"の中に生きて来たのではないだろうか。
そして、それは多分、死ぬまで続いたのだろう。
だからこそ、このような映画を作って、自らを慰めたのだと思います。
このことを暗示するように、作品の中に次のようなバーグマンのセリフがあります。
「人はしたことのない事に罪の意識を、子供の時の空想を、現実と混同する事がよくあります----、それが大人になっても罪の意識として残る事があるのです----」と。
つまり、この作品は、そんなヒッチコック監督自身の内に秘めた「心の叫び」と「願望」が、色濃く出たものであり(以降、彼は後の作品でその傾向を露骨に表現するようになります)、自らサイコセラピーを楽しんだ作品なのだと思います。
バーグマンが、ペックに自分の恋心を素直に打ち明け、初めてキスをするシーンで、突然、幾重にも続いた扉が次々と開かれる映像へとオーバーラップします。
これは深読みをすると、ヒッチコック監督自身も、バーグマンが扮する女性のような、知的でクールなブロンド女性に、自分の心の扉を開いてもらいたかったのではないかと思えるのです。
スクリーンの向こう側で、安堵の表情を浮かべるヒッチコック監督の姿が見えてきそうです。
また、この作品に関して、あまりにも有名なのは、夢のシーンのイメージ・デザインをシュール・レアリスムの鬼才サルバドール・ダリが担当していることです。
これに関しては、ヒッチコック監督のたっての希望で、ダリが起用されたにもかかわらず、出来上がった作品が、余りにも極端で複雑過ぎたために、20分ほどあったシーンを、たったの1分20秒にまでカットしてしまったという逸話が残っていますね。