「逃亡地帯」 1966年 アメリカ
監督 アーサー・ペン
出演 マーロン・ブランド ジェーン・フォンダ
ロバート・レッドフォード
ストーリー
石油成金が牛耳る、週末ごとの派手なパーティや子供たちの乱痴気騒ぎが日常化している退廃的な町に、この町の出身者でもある脱獄囚のババー(ロバート・レッドフォード)が戻ってくる。
たちまち始まる人間狩りはまるで血に飢えた狼のようだった。
暴動を必死で止める保安官のカルダー(マーロン・ブランド)の努力も空しく、抑えられていた感情が爆発し、地獄絵図が繰り広げられる。
その中で、ババーの妻アンナ(ジェーン・フォンダ)の魅力に取り付かれた石油成金の息子は、爆発でとんだタイヤの下敷きとなって死に、逮捕されたババーは保安官事務所の前で突然飛び出してきた男に射殺される。
翌朝、死の町のような人気の絶えた通りをカルダー夫妻が去っていき、同時に二人の男を失ったアンナが気の抜けたようにしゃがみ込んでいた。
寸評
私が最初にアメリカ映画はすごいと思った作品である。
かつてはどこにでもあった駅前の映画館でしか映画を見たことがなかった頃、初めて一人でロードショー館に見に行った。
やけにふわっとしたエンジ色の椅子だったことを覚えている。
自分が見てきた圧倒的多数のプログラムピクチャとは違った雰囲気の映画だった。
そう思ったのは、70ミリ映画のせいだけではなかったと思う。
何よりも画面がかもし出す匂いが違うと感じたものだった。
スクリーンから燃えさかるタイヤがこちらに向かってきたシーンは衝撃的だった。
今まで自分が見てきた映画とは明らかに違う映画がそこにあった。
マーロン・ブランドを初めて知ってファンになったのもこの映画がきっかけである。
その後しばらくの間は洋画ばかり見ていたが、そうなるきっかけもこの作品だったのだ。
あまり俳優さんに興味を持たないで洋画を見ていたが、この作品ぐらいからすごい俳優さんがいるものだと感じてきたと思う。
ジェーン・フォンダを後日知って、逃亡地帯に出ていた素敵な女優さんが彼女だったことを再確認したような気がする。
この作品でも、彼女はいいです!
ロバート・レッドフォードの日本初登場作品だと思う。
ババーという脱獄囚役だが、感じのいい、ついてない男のイメージを演じている。
「明日に向かって撃て!」のパンフレットを見て、サンダンス・キッド役の素敵な彼がババーだった事を思い出した。
アーサー・ペンはアメリカン・ニューシネマの代表作「俺たちに明日はない」を撮っているのだが、僕は本作を
アメリカン・ニューシネマの先駆け作品と思っていて、「俺たちに明日はない」よりも評価している。
当時のアメリカの社会に渦巻く"不安と退廃"、そして、人間の内なる暴力性を鋭く抉り出した、社会派ドラマの秀作でもあると思う。
脱獄囚の"人間狩り"に狂喜する人々の描写がとても衝撃的だ。
二人の若い囚人が、テキサスの刑務所から脱獄し、一人は通りすがりの男を殺して自動車を奪って逃げてしまう。
もう一人の青年ババー(ロバート・レッドフォード)は、すぐ頭にくる単純な奴だが、根は人がよく、殺人など到底出来ないたちだ。
しかし、今や相棒の殺人容疑まで背負うハメになり、ただ、やみくもに故郷の小さな町へ走って行く。
その町には、妻のアン(ジェーン・フォンダ)がいるのだが、彼女はこの町一番の実力者で、町を支配する石油成金のバル(E・G・マーシャル)の息子ジェイク(ジェームズ・フォックス)と関係を結んでいるのをはじめ、町の連中の何人かが、この脱獄囚のババーに対し、スネに傷を持っているのだ。
ババーがこの町に向っているという知らせは、町の人たちを様々に動揺させ、大騒ぎとなっていく。
バルは息子が復讐されるかも知れないと聞いて、金の力で息子を保護しようとするし、折りから、この町で開催される中小企業団体の大会に集まって来た連中は、正義の守護神気取りになって、ババーをなぶり殺しにしようと待ち構える。
正直をモットーとする昔気質の貧しい老人たちは、この機会に町の上流階級である成金どもの性的乱脈さが暴露されることをほくそ笑んで、見守っているし、黒人たちは、白人たちの争いには一切巻き込まれまいと自分の殻に閉じ籠るというありさまなのだ。
そして、若者たちは、ババー退治に火炎ビンまで投げて熱狂するかと思えば、血みどろになって捕まったババーを、今度は英雄に祭り上げるという調子なのだ。
主人公のマーロン・ブランドの役は、この町の保安官で、彼はババーを私刑から救うために、ほとんど町中を相手に単独で戦わなければならない状況に陥っていくのだ。
これがジョン・フォード監督あたりの映画なら、彼の訴えは必ずや、町の人々の一部の理性を目覚めさせることになるのだが、この映画の場合、古き良きアメリカのモラルといったものが、階級的、人種的な憎悪や、力の誇示の中で消えてしまっていて、理性の訴えは、"集団的ヒステリー"に包囲され、孤立していくのだ。
そこには、当時のアメリカの進歩派知識人の孤立した、いらだたしい心情が刻み込まれているのだと思う。
この映画の前半は、それらの複雑な人間関係の説明がごたごたしていて、多少わかりにくいのだが、後半になると俄然、アクション・ドラマとしての展開になっていき、グイグイ画面の中に引き込まれていってしまう。
このあたりのアーサー・ペン監督の緊迫感の盛り上げ方は、実にうまい。
善良なる市民と自負しているらしい連中が、保安官のマーロン・ブランドを半殺しのめにあわせて、餓えた狼のように私刑のエサを求めて、脱獄囚のババーに殺到するのだ。
これは、さながら戦争で、やっと保安官がババーを助け出すと、保安官事務所の前に待っていた一人の市民が、無抵抗のババーを拳銃で射殺してしまう--------。
この場面では、かつてのケネディ大統領暗殺のオズワルドを警察署の入り口で射殺した市民がいたことを、つい思い出してしまった。所も同じテキサスだ。
この映画で描かれている話は、これをアメリカの普通の姿だとは誰も思わないだろうが、原作者、脚色者、監督たちがここに描いているのは、単なる特殊な地域の話ではなく、アメリカ社会が内包する病巣、暗黒面に対する警告のような気がしてならない。
先駆的というより描いてこなかったものを描いた作品だったと思います。