ドクターNは月に一度、我が家に来てくれる。「訪問診療」というやつで、この制度といい、ドクターNの存在といい、私はこれをとても有難いことだと思っている。
ところがこのドクターN、一つだけ不満がある。ふつうの訪問医なら、まず「お体の具合はいかがですか?」などと訊くのだろうが、この老齢のドクターNは患者(=私)のことなど一切おかまいなしで、終始一貫、自分の思いをひたすら機関銃のようにしゃべり続けるのである。私が「あのう、先生、実は・・・」などと口をさしはさむ余地は全くない。
その日、ドクターNは「外国には寝たきりの患者が全くいないのですよ」と話していた。外国では、高齢者が寝たきり状態になると、胃ろうなどの延命措置は行わず、自然の成り行きにまかせるのだという。
「まあ、宗教の違いですかね。西洋はだいたいキリスト教ですから」というのがドクターNの見解だったが、キリストの教えと「延命処置を行わない」こととの関係が、私にはよく解らなかった。(質問しようにも、ドクターNは私に質問する隙を与えてくれなかった。)
日本の宗教は西洋との対比でいえば、一応、仏教だといえるが、この仏教の思想と「延命措置を行う」こととの関係も、私にはよく解らない。
そんなことがあったためか、私は、デイサのスキマ時間に『最後の親鸞』(吉本隆明著)を読んでいたら、こんなことばに出会ったことを思い出した。
「人間はたれも、〈 生きている〉 ということのさ中では、その状態を永続的なものとかんがえて 安心している。たまたま、近親 や、他人の飢餓の死、病死、戦乱の死を眼のあたりにみて、その瞬間だけは生死の〈はかなさ〉を 垣間見るが、 すぐに忘れはてる。なぜならば、死を忘れていることは、生の重要な条件だからだ。忘れなければ絶対的なすがたで個を襲う〈死〉という暴力をこらえることはできない。」(71頁)
う〜む、いいことばだ。このことばには、人間の〈生〉と〈死〉にまつわる真実が書かれている。私は自分を顧みて、「ホント、そうだよなぁ」と納得したのだった。老い先短い私でさえ日ごろは生死の〈はかなさ〉を忘れているのだから、「死を忘れていることは、生の重要な条件だ」ということは、よくわかる。
吉本は親鸞を読み込んだ末に、こうした感慨にたどり着いたのだろう。やはり親鸞はすごい思想家だーー私は初め、そう思ったのだが、これはしかし私の早とちりだったようだ。よく読み返してみると、これは、「一遍ら時衆の思想家」が「和讃」を通して「現世の生死の〈はかなさ〉の憂苦を唄った」ことば(を、吉本が自分のことばに置き換えたことば)であるらしい。
「親鸞にとって 現世の相対性、はかなさ、憂苦を唱うことはそれほど意味をもちうるはずがなかった」と吉本は書くが(91頁)、吉本が言いたいのは、そういうことなのだろう。親鸞の〈他力〉の思想は、そうした時宗的感慨を克服したところに成り立つ、ということである。
ところがこのドクターN、一つだけ不満がある。ふつうの訪問医なら、まず「お体の具合はいかがですか?」などと訊くのだろうが、この老齢のドクターNは患者(=私)のことなど一切おかまいなしで、終始一貫、自分の思いをひたすら機関銃のようにしゃべり続けるのである。私が「あのう、先生、実は・・・」などと口をさしはさむ余地は全くない。
その日、ドクターNは「外国には寝たきりの患者が全くいないのですよ」と話していた。外国では、高齢者が寝たきり状態になると、胃ろうなどの延命措置は行わず、自然の成り行きにまかせるのだという。
「まあ、宗教の違いですかね。西洋はだいたいキリスト教ですから」というのがドクターNの見解だったが、キリストの教えと「延命処置を行わない」こととの関係が、私にはよく解らなかった。(質問しようにも、ドクターNは私に質問する隙を与えてくれなかった。)
日本の宗教は西洋との対比でいえば、一応、仏教だといえるが、この仏教の思想と「延命措置を行う」こととの関係も、私にはよく解らない。
そんなことがあったためか、私は、デイサのスキマ時間に『最後の親鸞』(吉本隆明著)を読んでいたら、こんなことばに出会ったことを思い出した。
「人間はたれも、〈 生きている〉 ということのさ中では、その状態を永続的なものとかんがえて 安心している。たまたま、近親 や、他人の飢餓の死、病死、戦乱の死を眼のあたりにみて、その瞬間だけは生死の〈はかなさ〉を 垣間見るが、 すぐに忘れはてる。なぜならば、死を忘れていることは、生の重要な条件だからだ。忘れなければ絶対的なすがたで個を襲う〈死〉という暴力をこらえることはできない。」(71頁)
う〜む、いいことばだ。このことばには、人間の〈生〉と〈死〉にまつわる真実が書かれている。私は自分を顧みて、「ホント、そうだよなぁ」と納得したのだった。老い先短い私でさえ日ごろは生死の〈はかなさ〉を忘れているのだから、「死を忘れていることは、生の重要な条件だ」ということは、よくわかる。
吉本は親鸞を読み込んだ末に、こうした感慨にたどり着いたのだろう。やはり親鸞はすごい思想家だーー私は初め、そう思ったのだが、これはしかし私の早とちりだったようだ。よく読み返してみると、これは、「一遍ら時衆の思想家」が「和讃」を通して「現世の生死の〈はかなさ〉の憂苦を唄った」ことば(を、吉本が自分のことばに置き換えたことば)であるらしい。
「親鸞にとって 現世の相対性、はかなさ、憂苦を唱うことはそれほど意味をもちうるはずがなかった」と吉本は書くが(91頁)、吉本が言いたいのは、そういうことなのだろう。親鸞の〈他力〉の思想は、そうした時宗的感慨を克服したところに成り立つ、ということである。
このように辿ってみると、親鸞の〈他力〉の思想がますます深遠なものに思えてくるが、さて、一遍(時宗)の思想にせよ、親鸞の思想にせよ、これは「延命措置を行う」こととどう関係するのだろうか。