おはようございます。
えー、月曜日ということで、まあ、元気にがんばっていきたいわけですが、
まあ、最近は、デニムの下に履くタイツが手放せません(笑)。
まあ、とにかく暖かくしないと・・・ということで、もう、ほんと、防寒装備バリバリです。
まあ、ゆっくりと春を待ちますかねー。
さて、久しぶりに歴史の話でも、しますかー。
昨日、BSで聖徳太子の話やってましたねー。
まあ、いわゆる、
「聖徳太子については、日本書紀にその記述があるだけで、多くの功績があるが、それをひとりの人物がやったとは、証明できない」
「だから、これは、複数の人物の功績を、ひとりの象徴的な人物を作り上げ、その人物の功績とした・・・のではないか」
という説ですね。
まあ、番組では、いろいろな観点から論じてましたけど、結論的には、
「乙巳の変で、蘇我氏を倒した中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我氏は悪人だったから、とでっちあげたくて、その代わりに、聖徳太子の子を殺した蘇我氏」
「の印象悪くするために、100年前の聖徳太子そのものをスーパーマン化した」
ということでしたけど、まあ、それはそれとして、
「十七条の憲法も、日本書紀を書いた人間の創作ではないか」
という物言いについては、僕は明確に反対の立場です。
というのも、十七条の憲法を読んでいけば、この条文を書くには、仏教道教その他の知識がまず、根底になければ、書けない内容だ、ということがわかるからです。
かなりの知識人でなければ、書けない内容であり、さらに、僕がこの十七条の憲法を重要だと考えている理由は、第一条として、
「和をもって尊しとなす」
をあげているからです。
これは、日本人の最高正義を言い当てているんです。
これを見極められるひとってのは、相当の知識人であり、知恵者でなければ、ならない。
つまり、この仕事を成し遂げられる人間は、限られてくる、ということです。
で、この仕事を成し遂げられる人間であれば、例えば、当時の対中国外交の話も、納得が行くんですね。
まあ、有名な話ですけど、当時、日本が中国に送った書簡は、
「日出処の天子、書を、日没する処の天子にいたす。恙無きや」
なんですけど、これー、僕は考え違いしていたのは、
「日出処、日没する処」
という表現が、仏教書で、東、西という意味を現していた、ということなんですね。
つまり、これを書いた人物は、その仏教書の出典を俺は知っているんだぞ、というアプローチだったりするわけです。
まあ、中国の皇帝は、これくらい知っているだろうということで、ある意味、煬帝は、試されたということです。
当時の日本は、中国に比べれば、東夷そのものだったわけで、
この書簡を送った人間は、
「俺はインテリだけど、おまえ、この出典わかるか?」
とぶちかましてきたというわけで、中国の皇帝はさぞや、
「こいつ、やるな」
と思った、ということになるわけです。
まあ、よく教科書なんかでは、対等外交を狙ったなんて解説がありますが、
今ひとつよくわからなかったんですけど、
「おまえ、これくらいの知識あるか?」
という問いですからね。これ。
だから、
「俺は東夷でもなんでもない。おまえ、これわかるか?」
というメッセージなんですよ。
だから、対等外交になるんですよ。そういう解説がないとだめなんだよねー。
まあ、だいたい外交というのは、当事者がどれくらいの能力を持っているか、それを見切る、という行為が大切になりますから、
この書簡を送った人物は、かなりのやり手だったと想像出来るわけです。
だから、この書簡を送った人物と、「和をもって尊しとなす」を十七条の憲法の第一条に置いた人物は、同程度の知恵者であり、
同一人物と考えても、いいのではないか・・・と僕は考えていますね。
知恵者と知識者は、違うんです。
知識がいくらあろうと、そこから知恵を引き出せなければ、単なるウィキだ、そいつは。
まあ、番組では、多くの渡来人が厩戸皇子に知識を与えたから・・・みたいな話をしていましたが、
結局、知恵者にならないと、知識者を使えませんからね。
だから、僕は、そこのニュアンスが違うと思いましたね。
多くの知識者がいたから、厩戸皇子は多くの業績を残せた・・・そういうニュアンスではなく、
多くの知識者から知識を預かり、そこから知恵を作り出していたからこそ、日出処の天子表現だったり、和をもって尊しとなすをしっかりと言葉に、
出来た・・・それが知恵者、厩戸皇子であり、だからこそ、多くの業績を残せた・・・そう僕は見ますねー。
知識者になんか、なっちゃいけない。常に知恵を作れる人間でないと。
まあ、だから、僕は、聖徳太子はいた、と考えますね。
知恵者になり得た厩戸皇子だからこそ、聖徳の号を得た・・・そういうストーリーだと僕は見ますね。
ま、このあたりは、さらに研究が必要だと思いますがね。
とりあえず、知恵者厩戸皇子だからこそ、というのが、結論かなー。
業績を残せるのは、知恵者です。知識者は、思考しなければ、知恵者になれませんからねー。
そのニュアンスの違いが、大事なんだなーと僕は思いますね。
さて、今日は月曜日。寒いかもしれませんが、がんばりましょう!
ではでは。
えー、月曜日ということで、まあ、元気にがんばっていきたいわけですが、
まあ、最近は、デニムの下に履くタイツが手放せません(笑)。
まあ、とにかく暖かくしないと・・・ということで、もう、ほんと、防寒装備バリバリです。
まあ、ゆっくりと春を待ちますかねー。
さて、久しぶりに歴史の話でも、しますかー。
昨日、BSで聖徳太子の話やってましたねー。
まあ、いわゆる、
「聖徳太子については、日本書紀にその記述があるだけで、多くの功績があるが、それをひとりの人物がやったとは、証明できない」
「だから、これは、複数の人物の功績を、ひとりの象徴的な人物を作り上げ、その人物の功績とした・・・のではないか」
という説ですね。
まあ、番組では、いろいろな観点から論じてましたけど、結論的には、
「乙巳の変で、蘇我氏を倒した中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我氏は悪人だったから、とでっちあげたくて、その代わりに、聖徳太子の子を殺した蘇我氏」
「の印象悪くするために、100年前の聖徳太子そのものをスーパーマン化した」
ということでしたけど、まあ、それはそれとして、
「十七条の憲法も、日本書紀を書いた人間の創作ではないか」
という物言いについては、僕は明確に反対の立場です。
というのも、十七条の憲法を読んでいけば、この条文を書くには、仏教道教その他の知識がまず、根底になければ、書けない内容だ、ということがわかるからです。
かなりの知識人でなければ、書けない内容であり、さらに、僕がこの十七条の憲法を重要だと考えている理由は、第一条として、
「和をもって尊しとなす」
をあげているからです。
これは、日本人の最高正義を言い当てているんです。
これを見極められるひとってのは、相当の知識人であり、知恵者でなければ、ならない。
つまり、この仕事を成し遂げられる人間は、限られてくる、ということです。
で、この仕事を成し遂げられる人間であれば、例えば、当時の対中国外交の話も、納得が行くんですね。
まあ、有名な話ですけど、当時、日本が中国に送った書簡は、
「日出処の天子、書を、日没する処の天子にいたす。恙無きや」
なんですけど、これー、僕は考え違いしていたのは、
「日出処、日没する処」
という表現が、仏教書で、東、西という意味を現していた、ということなんですね。
つまり、これを書いた人物は、その仏教書の出典を俺は知っているんだぞ、というアプローチだったりするわけです。
まあ、中国の皇帝は、これくらい知っているだろうということで、ある意味、煬帝は、試されたということです。
当時の日本は、中国に比べれば、東夷そのものだったわけで、
この書簡を送った人間は、
「俺はインテリだけど、おまえ、この出典わかるか?」
とぶちかましてきたというわけで、中国の皇帝はさぞや、
「こいつ、やるな」
と思った、ということになるわけです。
まあ、よく教科書なんかでは、対等外交を狙ったなんて解説がありますが、
今ひとつよくわからなかったんですけど、
「おまえ、これくらいの知識あるか?」
という問いですからね。これ。
だから、
「俺は東夷でもなんでもない。おまえ、これわかるか?」
というメッセージなんですよ。
だから、対等外交になるんですよ。そういう解説がないとだめなんだよねー。
まあ、だいたい外交というのは、当事者がどれくらいの能力を持っているか、それを見切る、という行為が大切になりますから、
この書簡を送った人物は、かなりのやり手だったと想像出来るわけです。
だから、この書簡を送った人物と、「和をもって尊しとなす」を十七条の憲法の第一条に置いた人物は、同程度の知恵者であり、
同一人物と考えても、いいのではないか・・・と僕は考えていますね。
知恵者と知識者は、違うんです。
知識がいくらあろうと、そこから知恵を引き出せなければ、単なるウィキだ、そいつは。
まあ、番組では、多くの渡来人が厩戸皇子に知識を与えたから・・・みたいな話をしていましたが、
結局、知恵者にならないと、知識者を使えませんからね。
だから、僕は、そこのニュアンスが違うと思いましたね。
多くの知識者がいたから、厩戸皇子は多くの業績を残せた・・・そういうニュアンスではなく、
多くの知識者から知識を預かり、そこから知恵を作り出していたからこそ、日出処の天子表現だったり、和をもって尊しとなすをしっかりと言葉に、
出来た・・・それが知恵者、厩戸皇子であり、だからこそ、多くの業績を残せた・・・そう僕は見ますねー。
知識者になんか、なっちゃいけない。常に知恵を作れる人間でないと。
まあ、だから、僕は、聖徳太子はいた、と考えますね。
知恵者になり得た厩戸皇子だからこそ、聖徳の号を得た・・・そういうストーリーだと僕は見ますね。
ま、このあたりは、さらに研究が必要だと思いますがね。
とりあえず、知恵者厩戸皇子だからこそ、というのが、結論かなー。
業績を残せるのは、知恵者です。知識者は、思考しなければ、知恵者になれませんからねー。
そのニュアンスの違いが、大事なんだなーと僕は思いますね。
さて、今日は月曜日。寒いかもしれませんが、がんばりましょう!
ではでは。