ゆこちんのトランペット

トランペット奏者 藤井裕子のコンサート情報、トランペット談義のつもりが…こぼれ話や大きな声では言えない話も…毎日更新中♪

自己肯定感とインナーチャイルド

2020年11月22日 23時55分00秒 | こころ、メンタル、身体
こんばんはー!!

表紙の写真は、葱ぼうずっていう新潟の居酒屋さんの1000円の弁当。これねー、めっちゃ美味しいよー!!お店が大流行りで大忙しなんで、注文してから20−30分はかかっちゃうんだけど、その価値ありでっせー!!


そんな美味しいお弁当をたらふく食べて、そろそろ風呂に入るべきだね、というタイミングでございます。


いやー、、、ホント、藤井はこの時期にいろんなモノを吐き出して変身できるか、それとも誤魔化し誤魔化しなんとか平和そうに生きるかの瀬戸際にいるように思います。


ここで(この時期に)いろいろ吐き出したからと言って、変身できるかっていう保証はないけど、でも今まで直視してこなかった何かには向き合うことになっている気はするし、いろんなことの「原因」が見えてきてるから、そこの黒をオセロのように白にすることができれば、少しは良くなるのではないか?と思うわけで、、、


今は、楽器のことが良くなったり、やっぱりうまくいかない、、、となったりを常に振り子のように行ったり来たりしている感じで、ホントに困ってた時よりはマシだし、原因は見えてきてはいるモノの、わかるのとできるのは全然違うんで、そこがホントにまだまだ。

自分を許せずにいる分、すぐに首が固まって、結果として呼吸がうまくいかないってことになったときには、ホントなんとかやり過ごす、、、みたいな感じになるし、

首がうまくリラックスできて呼吸がうまくできる時は、ああートランペット吹くってこう言うことだよね〜みたいなハッピーな気持ちになって、あー生きてるって良いねー!!みたいな。そしてどっちが先なのか分からないけど、身体も軽くなる(どっちが先か?ってのは、身体が軽いから楽器の調子がいいのか、調子良く吹けるから体が軽いのか?が分からないってことね)。


で、その部分はその部分として、若い頃は楽器がうまくいってるから、なんとなく体も軽く、メンタルもイケイケだったのだけれど、

どっちが先かわからない、首が動かないから、うまくいかない、うまくいかないから心が重い、、、というループに入ることが多くなると、楽器さえ調子良くなれば、、、みたいに思っちまったりするけど、でも冷静に考えると、もっと根源的なモノが影響しているようにも思えてくる。


それで、

いろいろ見たり聞いたりして、「自分探し」をしているんだけど(あ、いわゆる自分探しの旅みたいなことじゃなくて、先入観とか教え込まれたモノとかを取り除いた、自分の魂の本来の姿みたいな意味ね!)、昨日気がついたことがあって。


どうしても自己肯定感が「仕事」によってしか高められなくて、そいつがうまくいかなかったら、もう完全に自己肯定感はダダ下がりで、もう心もドンヨリドヨドヨ、、、


でも、その仕事って、ワタシも場合は演奏かレッスンかですけど、それも「ワタシスゴイでしょー??見てみて−!!!」とか「楽しいよー!!聞いてみてー!!楽しくなるよー!!」とかってことでもなく、

気がつけば、あまり身内には見せたくないな、、、みたいなメンタルでずーっと来ていて、

もちろん仕事だから、ひと様にお見せするためにやるわけですけど、来て見てくれたらありがたいけど、、みたいなスタンス。

そんな心がけで、よくぞ今日までやってこれた!!!奇跡の人!!←我ながらスゲー!!
ホント、ワタシなんぞがこうやってやって来れているというこの奇跡に、もはや感謝するしかないよーん。私も私なりに頑張って生きて来ましたしねー。


んで、今日はこういう「どうせ私なんぞが何かやっても誰も喜ぶわけがない」というメンタルはどこから来ているのかに、ふと気がついたので、書いてみることにしました。

こんなことを書かれても、だから何だ??って話でもあると思うけど、

ひょーっとしたら、同じように自己肯定感の低さに苦しんでいる人がいるとして、その人にとっての何かしらのヒントとか、ひとりじゃない、みたいな気持ちになってもらえれば、ちょっと良いではないかぁー?と思ったりしているわけだぁ。


そう!!そんなわけで、


私は3人兄弟の一番上で、母方のウチでは初孫でもあって、生まれてすぐはどうやらめっちゃ可愛がられたらしいんだけど、残念ながらその頃の記憶は全くなく、自分の中での記憶は、もう弟がいる頃から。


で弟は、今は果てしなくシッカリしていて、私なんぞのおよびもつかない感じだけれど、ふんわりとしていてとても可愛くて、体も弱くて、大人しく物分かりの良い子どもだったのね。

まだ小さい頃に腸重積っていう病気(?!)になって、下手したら死んじゃう?手術??みたいになったことがあって、

その手術室の前で、まだ小さかった私ですらジリジリとした気持ちでどうなるんだ???と待ったことを今も思い出すんだけど、

結局、うまくガスが抜けてくれて、手術もせずに済んだわけだけど、そんな風に一瞬でも死にかけたもんだから、母などは「生きてさえいてくれればいい」とそこで思ったようだ。

そんなこともあったりで、というか、もっと前からだけど、

それまで一身に向けられていた愛は弟の方に行ってしまい、どうやら私は赤ちゃん返りをして、それまで結構良い子だったのが、なかなかに聞き分けが悪くなったらしく、私は第一子でもあるし、それまでうまく行っているように見えた子育てが、何やらしくじってるのか?という風に母は思ったのかもしれない。赤ちゃんの面倒もあるのに、もう一人赤ちゃんになられちゃー、、ってパニクったのかもしれない。

とにかく、何かとさみしかったり辛かったりしてた気がする。

で、これは今になって分かったことだけど、

どーでも良いことなんだよ、

でも、その頃、例えばちょっとしたお土産とかが、弟に買ってきたモノの方が羨ましかったりして、自分のが気に入らなく見えて、「こんなのヤダー!!あっちが良い!!」なんて言って、機嫌が悪くなると、

なんでせっかく買ってきてあげたのに、、悪い子だね、みたいな空気になって、

で、弟の方は聞き分けがいいので、「取り替えてあげて」なんて言われると素直に差し出したりなんかして、

そうすると「あー、良い子だねー、やっぱり」みたいになってね、

本当は、それが欲しかったわけじゃないんだよね。そうじゃなくて、なんか自分の方が可愛がられてないから、こんなお土産なんじゃないかって思って、それが悲しかっただけなんだけど、

私は悪い子で弟は優しくて良い子っていうレッテルがバッチリ貼られて、

それがもう耐え難くて、死ぬほど辛くて、
体の中にうぉぉぉっぉおー!!!と何かマグマのような煮湯のようなものが湧き上がってきて、悲しくて悔しくて、ワーワーワーワー、、、もう誰も手がつけられないほど泣いて、

「あー、、もう!!!本当にこの子は!!!!」ってさらに白い目で見られ、放置されてしまい、

今思えば、単に愛が欲しかっただけの「やだー!」のひと言で、さらに「悪い子」のレッテルも貼られ、弟の株は上がり、より一層差がつく、、、

本当にもうねー、耐えられなかった。

だから、泣き止められないの。手に入ったお土産なんて、全然嬉しくないんだから。

そんなことより、ヨシヨシってして貰えばそれで満足だったんだと、今は思う。


いろんな場面でこういうことが起きていて、


「何でも好きな服、買ってあげるよ!!」

って言われて、「これが欲しい!!」って言うと、それが母や祖母の好みじゃないんだよね。

そうすると、「あらー!!!そんなのよりこっちが良いじゃない?」って言われるわけよ。

「好きなの」って言っても、ほとんどいつも、私の好みなんか「そんなのより」のひと言で片付けられ、結局母や祖母の好みのモノになっちゃう。

きっと、別にその「おすすめの服」が嫌だったんじゃないんだ。

「そんなのより」っていう、結局無視するんだね!!っていう理不尽じゃないか!!っていう気持ちが、辛かったんだと思う。

自分が選んだ服も、こういうことが続くから、おおよそ本当に欲しい服でもなかった気もするんだけど、

だから、その服が最終的に手に入ったとしても、もうすでに私のことは尊重されない、という思いで心がいっぱいになっていて、

買い物に行くのが全く楽しくなくなった。

どうせ、そうなるんだ。

で、やっぱり耐えられなくなってワーワー泣くこともあった。

そうすると、「どうしてこの子はこんなに因業なんだろうね?」と「どうしようもない困った子」というレッテルが貼られる。

それがまた本当に耐え難くて、

でも子どもで表現が未熟だから、それがどういう気持ちなのかがわからない。

だから、また泣く。

それでまたもっと怒られる。。。。ループ。。。。


たぶん母も祖母も、服買ってあげるって言ってるし、買ってあげてるのに、何が気に食わないの?って思ってただろうなって思う。

でも、私が欲しかったのは多分服じゃないんだよね。

服なんて、別に何だっていいんだよ。

それより、愛されたかっただけなんだよね。

私が選んだものを、「あらー!!似合うね−!良いじゃない!!」なんて言ってもらったことは1回もない気がする。

大抵は、母か祖母が選んだモノを着せられて、「ほら!!こっちがいいよ!似合うよ!」と説得されるのだ。

それならさ、最初から「好きなの選びな」って言わなきゃ良いって思う。ぬか喜びだし、そのあと無視されて、さらに「悪い子」になるのは服が買ってもらえることなんかとは引き換えにできないくらい切ないのだ。

えー!?なーに?そんなにモノ買ってもらうのに文句?って言われそうな気もする。

子どもながらに、それも思ってたと思う。買ってもらうんだから、、、

でも、もうその「否定される感じ」が耐えられなかったんだよね。そのころはそうとは思ってなくて、「また私は悪い子なんだ、、、ごうじょっぱりなんだ、、、」そう思って、でもそれもそれで本当に辛くて。

だって、誰だってできたら「良い子」で可愛がられたいでしょ?

小さい私はこんなに「愛」を欲してたんだなーって今になって思う。

近所の人に「ほら!挨拶しなさい」って言われて、どうして良いのか分からなくて、勇気も出なくて、モジモジしながら反発していたら、「全くこの子は!!」ってしょうもない子っていう目で見られたことも、今でも忘れないなー。

あー、、、私は挨拶すら出来ない子なんだって。

こういうのって、普通に良くある光景だよね。

「こんにちは」って言えないって、素直じゃない子って感じだよね。きっと親もそう思ったんだと思うし、自分でももっと素直になれれば、言えたよな、、、って思う反面、そんなの普段言ったことないから、急に言えないな、、っと今になれば思う。

口の機能としては言えるけど、心も一緒に練習しないと無理なんだよね、きっと。

まぁ、そんな風に素直じゃない子に見えていたと思う。

だし、そうしながらやや頑なでもあったと思うし、姉ちゃんだからシッカリしないとっていう刷り込みもあって、

そして、小さいうちから長期の休みには祖母のウチに預けられるようになって、

それはそれで、婆ちゃん子だったら、ウチにいるよりいいや、みたいな気持ちもあったんだけど、

今考えると、無条件に甘えられるって感じでもなく、一定の距離感が常にあったようにも思う。

もちろん、いろいろなところに遊びに連れて行ってくれたりしたよー。

でも、戦争中にいっぱい火傷した人が飛び込んだ川とか、焼夷弾が降って来た話とか、神社の地獄極楽絵図とか、、、そういう、良い子にしてないとどうなるかとか、生き死にのことをいっぱい教えられた気もする。

おお!地獄、、、みたいな気持ちになった。


子どもは何も分かってないと思って、大人は結構いろんなことを話してるけど、

もちろん子供らしく、全く分かってない子もいると思うけど、それはみんなじゃない。


子どもだから、本当に細かい部分は分からなくても、ほとんどの意味は分かってるんだよ。

それは、今の大人も気をつけたほうがいい。

褒めたり良いことを言うのは良いんだけど、良くないニュアンスの話とかは、細かい部分がわからないだけに、ニュアンスだけが伝わってしまい、子どもは自分のことを言ってるんじゃないか?って疑心暗鬼になったりするからね。

そんなワケない、って思ってる大人よ、

子どもの中には気づいてない芝居をしている子もいるから、注意が必要よ!!

子どもにとってはそれが生きる術なのだから。特に大人の間で育ってる子ね。一人っ子とか、長子とか。


こんな風に、いろいろ拗らせて、本当は愛されたかったのが、どんどん「悪い子」というレッテルを貼られていく。

偶然、学校の勉強はそこそこできたので、それによって、何とかポジションを保てるようになった気がする。。。


とはいえ、これは愛が得られるってことじゃなくて、何か取り柄がゲットできたってくらいの話で、これは根本的な解決じゃなかったんだよねー、きっと。

でも、その時点では、こういう学校の成績だの、作文や作品なんかが賞をもらったりなんかのおかげで、何となく自己肯定感がUP。

だけど、どこか「自分の付属品」的なモノの価値であって、「私本人」の価値ではないって思いが、気がつかなかったけどずーっとあったんだと思う。

だから、この「付属品」というメッキがハゲたら、もうクズになるな、という恐怖がどこかあって、だからあまり人に見られたくなかったんだと思う。

うまく行ってる時は、演奏を聴いた人が「偶然」喜んでくれてる、、、的なね。

この辺が、今、ついに露呈してきてるんだと思う。

親がいけないっていう意味ではない。

今の自分の半分の年で、私を産んで育ててくれたと思うと、頭が上がらん。私にはとってもじゃないけどできない。

それに、自分の今の年齢でこの拗らせ具合だ。親が私の半分の年齢で、「完全なオトナ」であろうはずがない。

だから、その辺をよーく見つめ直して、親も大変だったし、まだ理解がお互いできてなかっただけで、それぞれが「悪い人間」であったわけではない、ってところを良く見直す必要がある。

じゃないと、私の心の中の「インナーチャイルド」は、いまだに、「悪い子だ!!!」って言われてた日々を引きずって、自分自身を許さずに責め続けている。

悪い子だから、人に迷惑をかけている
悪い子だからこんな目に遭う
どうせ誰にも喜ばれない
自分が何かしたからって、ひとの迷惑になるだけ

そんな、書いててもしょーもない、どーでも良いこと、、と頭ではわかるのに、ソイツらが常に自分を責め立てて、なかなか心穏やかに前に進むことができないんだ。

ホント、くっだらない!!!めっちゃ思う。ホントにどーでもいい。

でも、どうしてもどうでも良くないのだ。。。。


ちょっと前に芸能人が立て続けに自殺したよね。

あんなに美人だったりハンサムだったりして、お金もあって、才能もあって、ファンもいっぱいいるのに、どうして???って思う反面、ちょっとわかる気がする部分もある。

どう考えても、贅沢などうでもいい、くだらないことなんだけど、

ソイツが繰り返し繰り返し、自分を責めて許さない。

「これさえできれば!!」みたいに思って頑張るけど、それができたからって根本解決にならないし、またそれができなかった時には、ああああああ、、、ダメだぁ、、、やっぱりダメだぁ、、、となってしまうんだよ。


でもね、ここで例えば死んでしまったとしても、それはさらに何の解決にもならないってことも知ってる。

これはね、この気持ちというかこういう感情とか思い癖を、どこかで断ち切って、自分は幸せで愛されていて、人のことも愛することができる存在だ!!と思えるまで、何世でもリピートするんだよ。

だから、それがイヤならどこかで理解して片付けてしまわなくては。

どうにかして、今やりたい。

これはね、おそらく他のウチにもあることかもだけど、親は親から、その親はその親から、、、と脈々と続いていることなんだよね。みんな愛されたい、、、って思って、なにかしら拗らせているんだよね。

自分が育てられたように、育ててしまうんだよ。だから、誰かが気づいて断ち切らないといけない。

私は気がついた、ってところまではできたけど、その思いを「断ち切れるか」ってところ。でもこれはもう繰り返したくない。

だから、2−3年計画で、何とかしようと思う!!さすがに2年あれば、、、何とかなるんじゃないかぁー!?


そんなわけで、そんなこと思ったこともないよぉー!!っていう人には、長々とどうしよーもないことを書いてしまいましたが、もし同じような気持ちで苦しい人がいたら、ここはひとつ断ち切ることができるように、頑張りましょうよー!!!

んで、人を喜ばせて、自分も喜んで生きるっていう人生にしましょー!!

おー!!

それでは、みなさんまた明日ー!

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2 コメント

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Unknown (癒されたいピアニスト美果)
2020-11-23 07:19:31
おはようございます♪

連チャンでコメントです(´ー`)

わかりますー。私もそうでした(;´∀`)
多分どんな人もこういう経験ってあるのじゃないかナ。
みんな親の愛を独占したいってのは子供はあるから、感性が鋭い子は後々まで引きずると思います。
だから親って大変だナって思ったり。。。

子供に愛情だと思っても接しても結局は親の期待による自己愛だったりすることが多く、子供によってはそれを見抜く子がいます。ダメな部分があってもあなた自身が大事なんだということがわかると子供は愛を感じるようです。
でも親も家庭を経験しながらわかっていくこともあるだろうし、完璧にお互いが愛をやりとりできるかは、その時の年齢や状況などに左右されることがあるので難しいですネ。

私の場合は年齢を重ねてお互いに許せるという境地になったことでしょうか。そのために自分がまず幸せであることを大事にした気がします。本当に自分が幸せに感じるその本音は、きっと誰に説明してもわからないから自分自身に問いかけ、正直に行動することで心に余裕が出てきます。そうすることでいろんなことがわかってきました。

って言っておきながら 人生長いのでまだまだ色んなことがありそうですけれど( ;´Д`) 
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Unknown (yukofujii_2008)
2020-11-24 00:47:22
美果ちゃん、

連チャン歓迎ですー!!
分かってくれますー?!!そっかー、美果ちゃんもそうでしたかぁー。うんうん。

いやー、10年くらい前には両親にも感謝でき、お互いにとてもいい関係を築けたなーって感じがして、子供の頃のこともまるで他人の出来事のように感じていたりしてたんだけど、、、

でも、なーんとなく、その頃でも「子供の頃の気持ち」をちょっと話すと、「そのことには触れてくれるな!!未熟だったんだよ!!」という反発感があって、なるほどアンタッチャブルなのね、、、少しはそのときの感情を共有して清算したいなって思ったんだけど、無理なんだな、、、って思ったことを思い出しました。

そー、それでも何となく全体的にはいい感じになってると思ってたんだけどねー。。。

アカシックリーディングをしてもらったときに、「小さい女の子が膝を抱えてさみしそうにしてるのが見える」って言われて、そのセッションの間に何とかしてくれようと試みてくださったのだけど、その時には「私がかわいそうな子なのではなく、私はジャイアンみたいな悪モノの方だ」って感じて、それをお伝えしたもんだから、別なことをしてくださったんだけどね、

その小さい女の子ってのは、こういう私の子どもの頃の気持ちなのではないか?って気がついて!!
悪い子なんだって思ってたけど、とてもとても寂しかったんだなと。。。

「自分がまず幸せであること」って、なんだか素敵💗

それ大事だねー。幸せって、自分が何を考えるかで同じ現実でも幸せにも不幸せにもなれちゃうから、不思議だよね。
だから、「幸せできる」ってのは努力だし、エネルギーだと思う!!!

私も「まず幸せであること」ができるように精進します🥰
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