ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

柔軟性い欠ける私

2018-03-25 08:10:51 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「人間という生き物」3月19日
 論説委員福本容子氏が、『あの避難は間違いだった?』という表題でコラムを書かれていました。その中で福本氏は、東京電力福島原発災害における長期避難についての海外研究者の研究報告について紹介なさっています。『結論とは-。誰も長期避難の必要はなかった』というものだったそうです。
 試算法は、『(放射線を浴びず寿命を縮めずに済んだ)効果と、そのためにかかった費用を一つの数値に表し、一定以下なら避難したかいあり、とする評価の仕方』であり、その試算結果に、『我が家に戻れない悲しみや不安、ストレスが招く病や自殺といった現実をさらに積み重ねてみる。放射線被害を軽くしたプラス面に比べ、マイナスがあまりにも大きい』というわけです。
 私に科学的なことは分かりませんが、以前から避難生活のストレスを過小評価しない方がよいと考えていたため、福本氏の結論には賛成です。とはいえ、これはあくまでも第三者の感覚に過ぎません。こうした研究結果は、今後の防災対策といった大きな視点では有効に生かされるべきですが、個人の行動を強制することに使われてはならないと思います。同じような災害が起こったとき、長期避難を物理的に阻止したり、罰則を設けたりすることは望ましいことではないと考えます。不安の感じ方は人それぞれであり、人間は、合理的な判断のみで行動できる生き物ではないからです。
 私は、教員として、あるいは教委の幹部として、多くの問題ある行動をする子供や保護者に出会ってきました。授業を抜け出してリストカットを繰り返す生徒。彼女がリストカットをするのは必ず授業を抜け出した直後で、場所も学校近くの土手と決まっていました。彼女なりに、発見されやすい条件を無意識のうちに自覚していたのでしょうが、それでも発見が遅れて命を絶ってしまう危険性は無視できません。教員に注目してほしい、話を聴いてほしいという思いを実現するためにはもっと安全な方法がいくつもあるにもかかわらず、命がけの手段を選ぶ、その不合理な判断を責めても何の意味もありません。
 教員という仕事は、子供や保護者の「集団」に対しては、合理的な価値判断を語り続ける必要があります。それが子供に望ましい価値観や判断力を培うために有効だからです。一方で、様々な矛盾を抱えた存在である一人一人の子供に対して、合理的な価値観や判断を押し付け、断罪することには慎重でなけれななりません。わけの分からない、もしかしたら子供本人も気付いていない不安やこだわり、悲しみなどを想像する柔軟性をもたなければならないのも事実です。
 私は、特に若いころの私は、そんな柔軟性に欠ける理屈屋でした。反省です。

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