ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

これは…、と勘が働く

2024-04-04 08:41:14 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「顕と隠」3月27日
 東京学芸部吉井理記氏が、『デマにあらがう』という表題でコラムを書かれていました。その冒頭、吉井氏は小学校高学年のときの出来事を紹介なさっていました。『級友たちから「ビンボー」などとからかわれた。口げんかが苦手なので黙っていたが、あまりしつこいと腹も立つ。ある日、ついに我慢できずに言い返した。「ぶっ飛ばす」など、乱暴な言葉を使ったと思う。聞きつけた教師は激しく叱った。級友ではなく僕を。「そんな言葉を使うな」とのことだった』。
 悔しかったのでしょうね。だから数十年経った今でもそのときの情景がはっきりと浮かぶのでしょう。そして、その教員に対しては恨み、軽蔑、不信など様々な感情を抱いたことが想像されます。その思いが、教員全般に及んでいないことを祈りたい思いです。
 吉井氏のような経験をしたという人は案外多いのではないでしょうか。自分は何も悪くないのに叱られた、というのであれば反論したり、文句を言ったりしやすいのです。しかし、自分にも落ち度はある、でも相手の方が明らかに「悪」の程度が深い、それなのに自分だけが罰を受けた、あるいはより多く叱責されたというようなケースの場合、そこで感じたモヤモヤ感を上手く教員に伝えることは難しいのです。
 何か言えば、「反省していない」「自分のしたことを悪いともっていない」として、さらに叱られたり、罰を与えられたりする可能性があるからです。そしてそうした思いを抱くのは、「この先生に言っても分かってもらえない」という不信感が既にあるからです。
 この事例を提示して、「教員はどのように対応すればよかったのか」「教員の対応の問題点は何か」という問いを設定して教員に示した場合、ほぼすべての教員が、「叱る前に事情を聴くべき」「そもそもいじめを把握していないことが問題」「子供との信頼関係ができていない」などの回答をすると思われます。その通りです。頭では分かっているのです。でも実際には、この教員と同じような過ちを犯してしまう教員は多いのです。
 なぜでしょうか。多忙も一つの理由かもしれません。でももっと大きな理由は、人間理解の不足、未熟です。人間というものは~、という当たり前の理解が足りないのです。トラブルが発生する、その背景にはそれぞれが抱える問題があるはずだという理解です。
 「そんな言葉を使うな」という叱責に問題はありません。教員が認識した事実に基づいてトラブルを収めることが必要ですから。問題はその後です。吉井氏から暴言を発するに至る経過を聴取し、相手の子供たちからも「被害」の原因として思い当たることを聞き取るのです。そして両者の言い分を突き合わせ、トラブルの背後にある事実関係を把握し、それぞれに指導をするのです。その際、子供の感情には共感を示すのです。「〇〇さんの気持ちは分かる。悔しいよね」と。その上で、「でも~」と行為については認めないという姿勢を示すのです。そしてさらに、トラブルの相手に対してもどのような働きかけと指導をしたかを伝えて、裁きの公平さを納得させるのです。
 普通レベルの教員は、これでお終いでしょう。しかし、出来る教員は、相手側の子供たちが何で「ビンボー」としつこく言ったかという点に切り込みます。友人関係、家族との関係など何か悩みがあり、その負の感情のはけ口として吉井氏が選ばれた、というのであれば、吉井氏へのからかいはなくなっても、他の形で、他の子供が攻撃対象にされるということは十分考えられるからです。そこまでの対処が必要なのですが、実際にはなかなかできません。
 私も現役の教員時代には、目に見えたことだけに基づいて一方的に叱って終わり、というような対応をしてしまったことは数限りなくありました。猛省です。でも、全てに理想的な対応ができるというレベルの教員ではなかったのですから、現実的には仕方がなかったのかもしれません。
 ただ、吉井氏のように将来にわたって心に傷が残るようなケースについては、「あっ、これは重大な局面だぞ」と勘が働くようにはなりたいものです。こうした勘は教員にとってとても重要な意味をもつものです。

 

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