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コリント人への第一の手紙

2018-02-27 11:35:50 | 日記
コリント人への第一の手紙
<第4章>
父としての訓練(4・14-21)
14 わたしがこのようなことを書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、むしろ、わたしの愛児としてさとすためである。
15 たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あったとしても、父が多くあるのではない。キリスト・イエスにあって、福音によりあなたがたを生んだのは、わたしなのである。
16 そこであなたがたに勧める。わたしにならう者となりなさい。
17 このことのために、わたしは主にあって愛する忠実なわたしの子テモテを、あなたがたの所につかわした。彼は、キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかたを、わたしが至る所の教会で教えているとおりに、あなたがたに思い起させてくれるであろう。

現象は仏の説法

2018-02-27 11:08:00 | 日記
現象というものを
ただ観世音菩薩の説法であると
一面的道徳的に考えてしまうと、
横の真理の捉えかたが
狭苦しく自由でなくなってしまいます。
以下のご文章をごらんください。
【(参考 正法眼蔵を読む 摩訶般若波羅蜜の巻 谷口清超著)
<風鈴>
先師古仏であるところの如浄禅師の御作に、風鈴を誦まれたものがある。風鈴は、全身が口のようだ。虚空にかかって揺れている。中空で、より好みをしない。東風が吹いても、西風が吹いても、南風でも、北風でも、風のまにまに、ゆらゆらとゆれ、鳴り続け、ただ平等に、あなたまかせである。それが般若の談だ。チンチロリン、チンチロリン・・・この詩の心がわかるか―。
虚空に掛ってというところがすばらしいではないか。般若の智慧は宇宙一杯にみちあふれている。そこには、ひっかかりも、差別もない。全てが口だから、この口は全てを物語っている。一切が般若の智慧を語っている。鳥が鳴くのも、風が吹くのも、婆さんがグチルのも、すべてはそれを語っている。その奥に、仏のコトバがかくされている。談般若である。この声を聞け。ここに仏祖が嫡々として伝える談般若がある。渾てが般若だ。智慧がみちあふれていて、それが救いのコトバなのである。】



「太初に言あり」の言が、私たち人間の一人一人に宿っていて、現象世界はその“神の言”の展開である

2018-02-27 10:17:21 | 日記
ヨハネ伝冒頭の
「太初(はじめ)に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき」
にある“言”は、私たち総ての人に宿っています。
それが“生命の実相”であります。
ですから現象は生命の実相の展開でありますから、
現象世界は“神の言の展開”でありまして、
現象アサガオが実相アサガオ(神の言)の展開、鳴り響きであるのと
同様なのです。

(参考 ヨハネ伝講義 谷口雅春 日本教文社)
【言は肉体となりて我らの中に宿りたまえり。我らその栄光を見たり、実(げ)に父の独子(ひとりご)の栄光にして、恩恵(めぐみ)と真理(まこと)とにて満てり。
~ヨハネによる福音書第一章14節~
〔雅春先生の解説〕
此処に「コトバが肉体となって“我らの中に”宿っている」と複数になっていることを注意しなければならないのあります。イエス・キリストだけの中にコトバが宿っているのではないのであります。総ての人の中に神の言―仏の名号―が宿っているので、それが肉体の如く現れているのであります。「我ら其の栄光を見たり、実に父の独子の栄光にして恩恵と真理にて満てり」であって、ヨハネは此処に我らの中に「言」即ち如来の「名号」が宿っている、其の栄光を自分は見た、之は父の独子の栄光を見たと云うのである。我らは皆、神の独子だと云う訳であります。独子が沢山あるのであります。独子だと悟らないで迷っている人は、放浪の旅に出ている「放蕩の息子」なのであります。今迄の普通の説き方をなさるクリスチャンは、独子というと、イエス・キリスト一人だけしかない様に思っている。ところがちゃんとヨハネ伝には皆神の子である、皆すべての人間に神の栄光が宿って居る、そうして皆輝いている、皆父の独子であると云うことが書いてあるのであります。】