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コリント人への第一の手紙

2018-02-11 11:39:43 | 日記
コリント人への第一の手紙
<第2章>
まことの知恵(2・6-16)
6.しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。
7.むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。
8.この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。

現象はナイことを明快に書いています

2018-02-11 11:10:52 | 日記
谷口清超先生は
現象ナシを明快に書いてくださっていますので
御覧ください。
(参考 正法眼蔵を読む 摩訶般若波羅蜜の巻 谷口清超著)
【<而今現成の般若>
あるいは又六枚の般若波羅蜜があるが、地・水・火・風・空・識の六つである。これは物質現象と精神現象とをひっくるめて述べているので、これらもよくよく考えてみると、全てカゲのようなものだ。テレビのブラウン管の上にあらわれた影のようなものであって、確かに“現れてはいる”けれども、本当にアルのではないのである。その証拠にスイッチを切ると、その途端に消えうせてしまう。そのように、この現象界は、心に従って千変万化する。イノチのスイッチが切れると、全てが消える。これを知るのが般若波羅蜂である。】

現象は無く「心」のみある

2018-02-11 09:46:30 | 日記
私が神想観で「実相は即ち吾れ、吾れ即ち実相」と念ずるのを
一日一回はやるようにしたのは、
時間空間発せざる一点、即ち"実相”の悟りを
無意識の裡に希求しているからです。
私が時々現象的なことを掴んでしまい心が迷うのは
やはり現象無をわかっていないせいだと思います。
現象はナイ、心の所現であると分っていても
その分り方が中途半端なのです。
“空”言い換えれば“無”を
しっかり悟る必要があります。
私は今「無」の「門関」にいます。
生命の実相20卷における雅春先生のお悟りを書いてある箇所で、
雅春先生は
「無い心は受想行識の心だけだ。そういう意味でなら仏もない、衆生もない。心、仏、衆生三無差別と説く場合には、心もない、仏もない、衆生もない。衆生を抹殺(ころ)し、仏を抹殺し、心を抹殺し、いっさい無いといっさいを抹殺したときに、実相の神、久遠実成の仏が出て来るのだ。」
とお書きになっています。
また「イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きて来るという象徴である!」
ともお書きになっています。
つまり現象のすがたかたちの中を貫く実相のみがある、ということです。
現象は成仏身ですが、
「心」の影法師です。神の心の影法師です。

昨日私は「無門関解釈」(谷口雅春先生著 日本教文社)の
一番始めの部分を読んだのですが、
現象は本来ナイものであると同時に
物質と見えるものは「心」である、と分りスッキリしました。
実相の心であり、自分の迷い心で歪んで見えていることもありますが、
でも自己の実相(神の子・神の国)の写しなので、
全部実相なのでした。