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隠れている「神の心」「神のコトバ」

2018-02-22 18:41:31 | 日記
今ちょっと前
聖経四部経の10回目の黙読が終わった時
気がついたのだけれど
「万物はこれ神の心、
万物はこれ神のコトバ」ということは、
アサガオを見たら「神の心」「神のコトバ」と観ればいいんだし、
夕食でお魚を食べたらお魚を「神の心」「神のコトバ」と
思えばよいのである。
いや、さらに私自身を「神の心」「神のコトバ」と思うことも
正しいのだ。
現象を抹殺すれば、
そこにあるのは隠れている神ではないか。
現象世界全体が
隠れている「神の心」「神のコトバ」なのだ。
えらいことに気がついたものだ。

コリント人への第一の手紙

2018-02-22 13:38:21 | 日記
コリント人への第一の手紙
<第4章>
使徒の生活態度(4・1-13)
1 このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。
2 この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。
3 わたしたちはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。

そのままの心を大切にすべし

2018-02-22 11:30:10 | 日記
「そのままの心を大切にすべし」
という言葉は「実相」(神の心)を大切にしなさい、
ということである。
これについて「正法眼蔵を読む」も
同様なことを説いている。
(参考 正法眼蔵を読む 摩訶般若波羅蜜の巻 谷口清超著)
<虚空の如く学べ>
だから、般若を学ぶとは、これ「虚空」である。“そのまま”である。引っかかりなしである。無の奥の奥の一切、これが「虚空」である。こちらが何かを学ぶのではなく、こちらと、その奥義とが一体である。学がなくて、「虚空」そのものである。従って、「学般若、これ虚空なり、虚空は学般若なり」ということになる。虚空“を”学ぶのではない。何もない。無常だなどと学ぶのではない。「虚空」即「妙有」が、般若を学ぶことそれ自体だというのである。対象が主体と分裂していない。勿論カラッポを学ぶなどというバカ化たことではない。第一、虚空といったって、何かがあるではないか。ナイものをどうして学べるか、対象にはならない。そんなことではなく、虚空、ひっかかりなし、そのままが学般若であるというのである。
生命の実相20卷における谷口雅春先生のお悟りの部分を復習してみる。
「無い心は受想行識の心だけだ。そういう意味でなら仏もない、衆生もない。心、仏、衆生三無差別と説く場合には、心もない、仏もない、衆生もない。衆生を抹殺(ころ)し、仏を抹殺し、心を抹殺し、いっさい無いといっさいを抹殺したときに、実相の神、久遠実成の仏が出て来るのだ。」
とお書きになっています。心が修行して仏となったり衆生となったりする現象の心の否定であり、それはつまり現象(あらわれ)の否定でもある。
また「イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きて来るという象徴である!」
ともお書きになっています。
これはつまり現象を無視して(気にかけずして)実相(神の心)を生きるべし、ということをお書きになっているのです。
そうすれば、実相が生きてくる、ということなのです。
実相世界は、仏の無限向上の世界、万物生かし合いの理念の世界です。自分自身が神の子・仏の子として助け合っているのですから、神の国にいる神の子として生きなさい、ということです。