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実相観にロゴスをイメージ

2018-02-25 20:55:07 | 日記
「実相は即ちわれ、われ即ち実相」と念じて
神想観をする時に、
実相についてイメージするものを
今キリスト教のヨハネ伝を復習している所なので、
神の言、言い換えればロゴスをイメージしてやってみようと
思ったところである。
イメージして神を想像できればいいのであるから、
私の場合
これでイメージできるかな、と思った。

コリント人への第一の手紙

2018-02-25 16:26:09 | 日記
コリント人への第一の手紙
<第4章>
使徒の生活態度(4・1-13)
8 あなたがたは、すでに満腹しているのだ。すでに富み栄えているのだ。わたしたちを差しおいて、王になっているのだ。ああ、王になっていてくれたらと思う。そうであったなら、わたしたちも、あなたがたと共に王になれたであろう。
9 わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。

イエス・キリストを信じて救われることの意味

2018-02-25 15:47:45 | 日記
イエス・キリストを信じて救われることの意味
(1)「イエス・キリストは
ロゴス(神の言)である」とヨハネ伝は説く。
ウィキぺディアには
ロゴスの解釈の2番目に次のようにあった。
1.キリスト教では、神のことば、世界を構成する論理としてのイエス・キリストを意味する。
(2)ヨハネ伝はさらに
「神の言によって世ができた」と述べている。
(3)さらにヨハネ伝は、
「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」と述べ、言(ロゴス)の受肉をうたい、肉体において、人間となってつかわされたロゴス(言)を「イエス・キリスト」に見た。
(4)人間が救われるのは、イエス・キリストのロゴス(神の言)であることを、信じることによってであると、ヨハネは書いている。イエスは「わが名を信ずる者は永遠のいのちを得ん」と何度も述べたが、“名”というのは、自分の本体つまりロゴス(神の言)のことをいう。
(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
【「序詞」(ヨハネ伝1章1~18)の中心題目は、「言」であり、「言」が肉をとって歴史の中に現われたことである。「言」は永遠なるもの、神とともにあり神であった。その「言」が歴史の中にはいってくることにより、人間との関係が打ち立てられた。それは一回かぎり、しかし永遠に打ち立てられた。それは、言の受肉によってである。このようにして、命と光とがこの世に現われ、信ずる者はすべて「神の子」となる力が与えられた。このことについて「あかし」を立てたのが、ヨハネであった。】
(5)結論として、キリスト自身が説教したように、イエス・キリストが神の言であることを信じた人は救われる、というのである。言はわれら全ての人に宿っているのであるから、自分が“神の言”であることを信じた人は救われる、ということであり、谷口雅春先生が『ヨハネ伝講義』でお書きになったことと一致する。

「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」

2018-02-25 11:22:13 | 日記
新約聖書ヨハネによる福音書の
「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」という部分は、
“生命の実相”を理解する上できわめて大切だと思われるので、
ここに抜き書きすることにしました。

<ヨハネによる福音書第一章1~5>
 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

<ヨハネによる福音書第一章6~8>
ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。この人はあかしのために来た。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。

<ヨハネによる福音書第一章9~13>
すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受け入れなかった。しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

(<ヨハネによる福音書第一章14~18>
14そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。15ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った。『わたしのあとに来るかたは、わたしたちよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。16わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。17律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。18神を見たものはまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。

私は神のいのちそれ自体であるから完全なるものだ

2018-02-25 09:42:16 | 日記
アサガオの理念が不生不滅な
眼に見えない“いのち”であるなら、
その現象への展開である現象アサガオも
実相においては不生不滅であり
時間空間に映画の一コマ一コマのように
展開されている。
現象アサガオの奥というか裏には
実相アサガオが
つまりアサガオの“理念”“神の心”“神のコトバ”が
ちゃんと存在している。
人間も本体は“神の心”であり、
“神のコトバ”であり、
“神の理念”であり、
“いのちそのもの”であり、
“生命の実相”であるのであって、
眼には見えない異次元世界に実在しているのであるが、
それが現象世界に現象人間として出現する時には、
アサガオ同様時間空間世界に
映画の一コマ一コマのように
“いのち”展開がなされていくのであって、
展開されたものは“いのちの展開体”であっても
いのち自体とは異う“いのち表現”である。。
それは現象アサガオがアサガオのいのち表現であり
“アサガオのいのち”それ自体とは異なるのと同じだ。
人間の現象のいのちも
実相つまり“神のいのち”の展開であるから、
一見無くなってしまうみたいに見えても
実際にはなくなることなく不滅である。
生老病死も実際にはないし、
罪と病も
現象にはあるかの如く見えても
いのちの世界、実相の世界においては存在しない。
現象の私の肉体も、
神のいのちの展開であると思えると
不健康のいのちなどというものは有り得ないから、
今後実相の円満完全が
現象に顕われてくることは間違いないであろう。
自分の現象肉体が神のいのちの顕われてあると分っただけで
私は大きな勇気をいただいたわけだし、
力も湧いてきているのである。
私は神のいのちそれ自体である。