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聖徳太子が冠位十二階の制度を制定

2004-12-05 | 歴史
603年12月5日、聖徳太子が冠位十二階の制度を制定した。
603(推古11)年、聖徳太子によって、大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大義、小義、大智 、小智の十二階からなる官位の制が定められ、朝廷に仕える官吏の位の上下に応じて、十二階の冠を授けたものである。
この制度は、単に、隋や三韓に対して、当時の日本の制度の遅れから、外交上の面子回復のためにだけ作られたものではなく、今まで、貴族達の手に掌握されていた日本の政治権力を天皇のもとに、帰せしめ、広く天皇の権力を強化しようとする狙いもあった。ともかく、この冠位十二階制は、日本で初めてつくられた冠位制であり、この後の諸冠位制を経て、様々な紆余曲折を経て律令位階制へ移行していったのであるが、なによりも、聖徳太子の作ったこの官位制の特色は、「仁、義、礼、智、信」の儒教思想でいう五常(ごじょう)の徳目を官位の名とし、それを、普通の順序とは、違えて、「仁、礼、信、義、智」の順に並べ、その上に「徳」冠を置いたことであろう。五常の徳目を総括するものとして、最上位に「徳」を置いたのは自然であるが、「礼」や「信」の徳を「義」や「智」の上に置き換えたことに太子の理想を見ることができる。なぜ太子が、このように、「礼」や「信」を上位に置き換えたのか?
聖徳太子のこの官位十二階の制は、次の年の推古12年に太子が作った「十七条憲法」と密接に関係があるというより、セットとして考えて作られているようである。前者は後者の形式、後者は前者の内容となっている。多くの学者の説にあるように、官位十二階において、「信」および「礼」が重視されたことは、十七条建憲法の第四条の「礼をもって本(もと)とせよ」及び、第九条の「信はこれ義の本(もと)なり」という言葉に明らかである。
官位十二階も、十七条憲法も太子の思想に基づいて作成され、相互に深く関連している。十七条憲法は、官位十二階に説かれる徳、つまり、仁。礼、信、義、智に分かれるのではないか。それは、第一条~三条は、「和」、すなわち、仁、第四条~八条は「礼」、そして、第九条~十一条は「信」、第十二条~十四条」が「義」、第十五条~から十七条が「智」ということになるらしい。
十七条憲法は、その底に、「仁」「礼」「信」「義」「智」の徳を配された見事なロゴスをもった法なのである。
兎に角、この制度により、今まで、朝廷に仕えるものの地位の上下は、氏族のもつ姓(かばね)や伝統的な勢力に定まっていたが、氏制度の伝統にとらわれず、優秀な人材を登用した。これには、どこかで、仏教の四民平等の精神と連なっており、こういう人材の登用の仕方が、古い貴族達の顰蹙をかったのであろう。太子は晩年孤立し、太子一族も太子の死後21年にして滅亡してしまうことに繋がるのであろう。日本書紀には、はっきりと自殺とは書いていないものの、その死が突然のことであり、人々のショックが大変大きかったように書かれており、哲学者で、仏教、聖徳太子研究でも有名な梅原猛氏は、聖徳太子の死の原因は、自然死ではなく「自殺」としか考えられず、むしろ、そう考えた方が、後世に伝えられていった太子像にまつわる暗さと、怨霊の影が良くわかると言っている。聖徳太子は、朝廷で、経典を講じたり、仏教の精神でもって政治を行おうと、心底から力を傾けようとした人である。多くの王は不徳の故に滅びるが、聖徳太子は、梁の武帝同様、有徳の故に滅びたのであろう。
マキャベリが、言うように、君主は、人民の目に有徳であるように見えることが大事なのであって、実際に有徳である必要は少しもない。むしろ、有徳であることはかえって害になる。太子も又、まさに、有徳でありすぎたのだろうと結んでいる。私は、梅原猛の大ファンであり、彼の書いた聖徳太子に関わる本も少なからず読んでいるが、何とはなしにわかる気がする。
しかし、今の、日本の政治家に、有徳を求める気持ちはないが、爪の垢ぐらいは少々飲んで欲しいものだな~。
(画像は、聖徳太子ニ王子像。写真:宮内庁、週間朝日百科日本の歴史より)
参考:
Wikipedia - 冠位十二階
http://ja.wikipedia.org/wiki/冠位十二階
聖徳太子十七条憲法(真実一路の旅なれば)
http://home.c07.itscom.net/sampei/17ken/17kenpo.html


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