まずはっさぁぁぁ・・、神武天皇って、いつの話なの?!?!だよねぇぇ・・・
「福永晋三先生の倭歌が解き明かす「邪馬台国」倭国=豊国説 2016年10月31日
邪馬台(倭)国の初代大王、神武天皇の即位は、西暦121年である。
『日本書紀』に辛酉年に橿原宮で即位したとある。
絶対年の記録としては、
57年に倭奴国王、漢光武帝に遣使。金印を受く。
107年に倭面上国王帥升、後漢の安帝に生口(食肉用奴隷)一六〇人を献ず。
その後は、
238年、景初二年六月、邪馬薹國の女王(にして神武の後継者たる)卑弥呼、魏の帯方郡に大夫難升米等を遣はす。(魏志)
になる。
西暦107年と238年の間にある辛酉年は、121年と181年である。
『魏志倭人伝』より
その國、本また男子を以て王と為す。住まること七、八十年、倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名を卑弥呼いう。
神武天皇の後、神渟名川耳尊(後の綏靖天皇)が、手研耳命を殺害し王位を奪う。(古事記では、当芸志美美命の反逆となっているが、父神武天皇と一緒に東征を行った手研耳命は、第二代大王に就いていた。神渟名川耳尊が王位を奪った。)
その後、倭國大乱が始まる。(中国では、大乱とは皇帝が殺された時に使う言葉で、手研耳命大王が殺されたので、大乱の始まりとなる。)その大乱が七、八十年続いた。
『日本書紀 神功皇后紀』の割注に卑弥呼と臺与の記事があるが、神功皇后と卑弥呼が同時代のように日本書紀は構成している。
神功皇后紀が外国の資料が引用されているので、神功皇后の時代は、卑弥呼の時代より干支60年の二巡(120年)後の時代が判る。日本書紀紀年は、120年前にずらされているので神功皇后即位年が、西暦200年にあたりこれが、卑弥呼の共立の年ではないか。
したがって、神武天皇の即位した辛酉年は、西暦121年となる。
神武天皇が即位した橿原宮は、畝尾山(香春一ノ岳)の東南の地にある鶴岡八幡神社と比定している。
・・・
」 https://ja-jp.facebook.com/fukunagasinzo/posts/187660398305531/
「福永晋三先生の倭歌が解き明かす「邪馬台国」倭国=豊国説 10月13日 20:51
<下稗田遺跡から出土した「すずり」>
この10月9日に古代のすずりについての専門家、國學院大學客員教授の栁田康雄さんがとうとう豊国から国内最古級のすずりを再発見された。
下稗田遺跡から出土していた約50点の砥石を調査、その中から3点のすずりを確認された。
これまでは、主に筑前方面でのすずりの再確認が行われていたが、ついに豊国から最古級のすずりが確認されたのである。
飯塚市の立岩遺跡から、数点の刀子が出土している。
刀子は小刀のことであるが、高島忠平さんによれば、木簡などに墨で字を書き、誤ったらその個所を削るための道具ということだ。
同遺跡からは、「前漢式鏡」も出土しており、遠賀川流域から京築方面にわたって、確実に「紀元前から墨で字を書く文化」があったことになろう。
前漢式鏡も漢倭奴国王印(後漢)も卑弥呼の親魏倭王印(未出土)も倭奴国・倭国の使いは漢字漢文の国書を携えて中国の王朝に使いしたことになる。
倭奴国・倭国は遠賀川流域にあったと考えるのが順当であろう。(福(福永先生より)
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(2020年10月13日(火)「西日本新聞」より)
「福岡県行橋市の下稗田遺跡から出土したすずりとみられる板石」
福岡県行橋市の下稗田遺跡で出土していた板状の石3点が弥生時代中期前半ごろのすずりとみられることが9日、分かった。
・・・
」https://www.facebook.com/fukunagasinzo/
「私はこの位置関係から橿原宮を香春一ノ岳の東南麓の高野に比定したのである。そこには鶴岡八幡宮が鎮座し・・・
ここには、鎮西八郎為朝が鎌倉から勧請した鶴岡八幡宮が鎮座する。御祭神は、一座 応神天皇、二座 神功皇后と続いて、三座に玉依姫命が祭られている。
当社の由緒書きにも、「玉依姫命は豊玉彦の女、葺不合命の皇后にて、御容姿の美称なり、神武天皇の母君の坐す。」と記されている。
宮司の鶴我盛恒氏に玉依姫がなぜ祭神かをお尋ねしたところ、昔から祭られているとのご返事を頂いた。鶴我氏は同社において「樫葉の山」と題する冊子を発行されている。
その名の由来をお聞きすると、「当社の祝詞は、『樫葉の山にまします云々』で始まります。昔から樫の木が多かったことによります。」との簡単明瞭なご回答もあった。
私は、これこそ神武の橿原宮建設以来の伝承と思われてならなかった。
鶴岡八幡宮の由緒書きの続きに、「翌年(仁平三年)正月十一日、社殿を初め五寺一院四十八堂舎ことごとく竣工せしにより同月十六日新宮に奉齋す。
この日為朝公は九州の諸大名高家、家臣を率いて参入し為朝公は拝殿に、その他は回廊、釣殿にいずれも衣冠束帯で仕候す。」とあり、また、「久寿元年三月勅使徳大寺中納言良房は命により、近衛天皇の御宸筆の『鎮西鶴岡若八幡宮』の勅額を持参して下賜される。為朝公これを拝受し掲げしむる。」ともある。
中世の朝廷も源氏も、神武の橿原宮の所在を知悉していたからのような感すら与える。竣工時の宮の規模から考えても、鎮西八郎為朝は古代九州の由緒ある地に、源氏の氏神を祭ったようだ。
(中略)
橿原宮跡は、どうやら香春一ノ岳の東南「樫葉の山」に眠っているようである。
・・・
※ この辛酉(かのととり、しんゆう)の年を西暦121年とした根拠は、中国史より
① 「後漢の光武帝が建武中元二年(57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った」
② 「卑弥呼が、景初二年(238年)以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送った」
③ 「倭国は元々男王が治めていた(国の成立の1世紀中頃か2世紀初頭)が、その後、70~80年間、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きた。( 倭国大乱 の時期は2世紀後半)
そこで、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まった。」
西暦57年から238年の間の辛酉(かのととり、しんゆう)の年は、121年と181年の2回ある。
卑弥呼即位より7、80年前の辛酉の年は、西暦121年であり、それが神武天皇の即位の年 = 大和王朝(邪馬臺國)の成立の年とした。
・・・
香春町に「鶴我」さんという方がいらっしゃる。その家に系図のコピーを頂いた。ご先祖は、阿羅斯等です。都怒我阿羅斯等を先祖とされる方が、香春町にいる。鶴我家は、「都怒我号角鹿」とある。
都怒我阿羅斯等は、どこにいたのか?香春町にある鶴岡(つるがおか)八幡神社である。西日本新聞に『新説 日本書紀』を出した時には、現人神社 と書きましたが、訂正します。鶴岡八幡神社である。宮司さんは、鶴我さんである。都怒我阿羅斯等の子孫の鶴我さんが、今なお鶴岡八幡神社の宮司さんである。
神武天皇が、この地で即位した80年後に大加羅国から都怒我阿羅斯等がやってきてここに住んだ。その子孫の鶴我さんが宮司をされている。ただの偶然ですかね?
」
https://hanzan-qazwsxedc.jimdofree.com/%E2%91%A0%E9%A6%99%E6%98%A5%E7%94%BA/4-%E9%B6%B4%E5%B2%A1%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE-%E6%A9%BF%E5%8E%9F%E5%AE%AE/
ホームページ(https://hanzan-qazwsxedc.jimdofree.com/)から鎮西八郎で検索
または、”鶴我家系図”で検索
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E2%80%9D%E9%B6%B4%E6%88%91%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E2%80%9D&ei=UTF-8
神武東征も北九州での出来事だったということかぁぁ・・・壬申の乱も北九州でのというのも・・・
「*.天智四年に唐の劉德高らと一緒に来たのが、2011年に中国の西安で墓誌名が発見された百濟の佐平、禰軍(ねぐん)である。
禰軍は、日本國の降伏を勧める為に劉德高らに従ってきた。この時に、天智天皇は、菟道で閲兵をする。
この菟道の宮は、著書『真実の仁徳』に書いてある宇治天皇の宇治宮と同じく香春岳三ノ岳(天香山)の麓の場所の 阿曽隈社 にあったようです。香春町の中には、唐子橋という所がある。間違いなく唐の兵士達が、菟道宮へ入る為に渡った橋であると思われる。
この後の天智六年の春三月に遷都したのが、近江宮です。吉野宮を発見した後、近江京は何処か探したところ数年の調査で中間市中間駅の西隣の御舘(今は、団地が建てられ、削られてありません。)にあったらしい。
近くの神社に斉明天皇がいらしたという記録が残っている。これが、磐瀬行宮である。たぶん、ここが天智天皇の近江宮ではなかろうかと思われる。
天智天皇の近江宮と大海人皇子(後の天武天皇)の隠った吉野宮の両点の基軸ができた。そうすると「壬申の乱」の舞台は、何処か?
やっぱり、倭国であり、豊国北伐である。英彦山の南にある吉野宮から山を越えて、遠賀湾の出口付近の近江宮を襲撃した。・・・
壬申の乱後
天武は赤村の飛鳥浄御原宮で統治した。その後、 大和王朝は東遷 する。
平城京の時代は天武系すなわち筑紫君が天皇の時代であった。次の平安京の時代は天智系すなわち豊君が天皇の時代であったらしい。
天皇家の菩提寺と言っていい京都の泉涌寺には、天武以後称徳女帝までの八代七人の天武系の天皇の位牌が無いことはつとに有名である。
そして、今上陛下のいらっしゃる皇居において国賓を招いて行われる宮中晩餐会などの主会場が、豊明殿(ほうめいでん)である。その豊明殿の壁面を飾るのが、豊幡雲(とよはたぐも)の刺繍である。
したがって、現在の天皇家は、平安時代以降、天智天皇を祖とする豊君である。天武系(筑紫系)では無いという事が判るかと思います。
」
https://hanzan-qazwsxedc.jimdofree.com/%E5%80%AD%E5%9B%BD-%E8%B1%8A%E5%9B%BD-%E5%8C%97%E4%BC%90%E8%80%83/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1-%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E8%B1%8A%E5%9B%BD%E5%8C%97%E4%BC%90/
(禰軍 でサイト内検索 数件)
他には、法隆寺移築説、二中暦等々・・
「薬師寺のいう名前であるが、ここ大善寺玉垂宮を訪れた時に本殿の裏に「塞の神」が祀られているそこの前に、昔の五重塔か三重塔かは不明だが、半分か三分の一に割れた塔の心礎と思われる石が置いてあった。その石は、鬼夜保存会会長をされていた光山利雄さんが近くの夜明の田んぼから拾って持ってきたと言われた。心礎らしいその石には柱の跡と思われる円の形が綺麗に描かれれいる。そこに九州古代史の会の兼川晋さんが新聞紙を当てて周辺を丁寧になぞって綺麗に再現した。その新聞紙を室伏志畔が奈良に持って行って、薬師寺東塔の心礎に当てた。その時、一緒に同行していた大芝英雄さんの名言が「合うでー」。寸法がピッタリ合った。室伏志畔が筑紫(福岡県)にあったお寺が、奈良・京都のお寺に移築されたとしているその考えが成り立つ。
これが福岡県内の廃寺であり、福岡県には廃寺が多すぎる。廃寺はおかしい。奈良時代は、仏教は国の教えとしていた。この筑紫の廃寺が、 大和王朝の東遷 である。筑紫大地震の後、天武天皇が恐れをなして、天皇家から庶民に至るまで、現在の奈良県(大和)へ大引越しをした。倭民族の大移動である。
その廃寺の時にこの筑紫にあった寺を解体して、新し都(奈良・京都)へ持っていく。この廃寺跡からは、木材は一辺も出土しない。出土されるのは礎石と瓦だけである。つまり、礎石と瓦は重たくて運べなかった。木材のみを運んで、新たに心礎を据えて、瓦を新しく焼いて再建(移築)した。
法隆寺もこの廃寺から移築された。有名なお寺であればあるほど移築されたようである。
天武天皇の時代にその廃寺の時の薬師寺の話が、吉山旧記の別のところに載せられている。本当に現奈良市にある薬師寺が久留米の土地から移築された薬師寺であるならば、薬師寺の仏様、薬師三尊像は、吉山旧記の記録によれば、当時の住職が唐の国から持ってきた仏様である。薬師寺のある薬師三尊像は唐の時代の仏像という事になる。という事は、日本でも国宝であるが、中国においても第一級の国宝になる。
」 サイト内、法隆寺で検索 https://hanzan-qazwsxedc.jimdofree.com/
「二中歴の年号「善記」は、継体天皇から始まり、継体天皇の宮の磐余玉穂宮(福智町金田 稲荷神社 )に確認したので、これは、豊国年号とした。
次に重要なのが、欽明天皇一九年(五五八年)に僅か一年だが、年号が「兄弟」という変わった年号がある。これが中国史書の『隋書 俀國傳』に出てくる兄弟統治(兄弟王朝)の始まりの年ではないか。
欽明天皇の磯城島(しきしま)金刺宮があった敷島という地名も福智町にある。
・・・
継体天皇から始まるので、豊国年号とした。その継体天皇の時には、豊国が兄の国で、筑紫国が弟の国で始まったのであろうと考えている。
『隋書 俀國傳』では、阿毎多利思比孤が、兄と記されている。筑紫の側が、いつ兄に変わったのであろうか?
後の「日出ずる處の天子」の阿毎多利思比孤が、随に遣いを出したのが西暦六〇〇年(開皇二〇年)であり、その翌年の六〇一年の豊国の推古天皇九年にまた、変わった年号の「願転」というのがある。どのような意味だろうか?兄の国と弟の国がひっくり返る事を願うという意味ではないかと考えた。
阿毎多利思比孤が、継体天皇から続いていた兄の国(豊国)に代わって、自分(筑紫側)が兄の国になったのでないか。
その後の六一八年に「倭京」という年号がある。大いなる都を建てた。「願転」の年号からひっくり返ったと考えて筑紫年号とした。今まで九州王朝論で九州年号と言われた年号は、豊国年号から筑紫年号に代わっていると初めて述べている。
・・・
法隆寺金堂に安置されている釈迦三尊像の光背銘に「法興元三十一年歳次辛巳」という年号が刻まれている。
この法興という年号は『二中歴』に記された古代逸年号群の中にない。継体以降の豊国年号と違う系列の古代逸年号である。
その法興元年が西暦五九一年である時、二萬餘の豊国軍が筑紫に派遣された翌年に筑紫国に年号が発布されたことになる。発布の主は誰か。
『隋書』俀國傳 に云う「開皇二十年(六〇〇年)、俀王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌」すなわち、阿毎多利思比孤(天足彦)その人であろう。
阿輩雞彌は天皇(あめきみ)の中国音(唐宋音読み)か(毎は米と同じでマイがベイに変化した)。後に自ら日出處天子と称した。
」 サイト内 唐宋音で検索 https://hanzan-qazwsxedc.jimdofree.com/
もしかして、もしかして 阿毎は 安日だったりしてな??!!
「多利思北孤(たりしひこ)は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」で記述される倭国王である。『隋書』では他の中国史書が「倭」としている文字を「俀」と記述している・・・「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌という
」wiki
阿毎多利思北孤
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%98%BF%E6%AF%8E%E5%A4%9A%E5%88%A9%E6%80%9D%E5%8C%97%E5%AD%A4&ei=UTF-8
紀伊半島の熊野での話とかって、どういうことになるんでしょ???????
いつだったのかを確定だよねぇぇ・・・
たまWEB脳内で確立してるようなのは、奈良の都は、新羅による日本統一って。奈良の都は、新羅・慶州(新羅の古都)を彷彿させるそっくりさんらしい・・
”多利思北孤” ”安日” で検索すると、ちらほらあったんですかねぇぇ・・・
「『東日流外三郡誌』と『新唐書』の日本:『東日流外三郡誌』は安日彦・長髄彦が筑紫の日向の賊に追われて、津軽に流れて来たと記す。筑前福岡市に字地名の日の本(ひのもと)があり、安日彦らはここから、ニニギに追われたのではないか。天孫降臨と言われているニニギらによる日の本への侵略事件だ。安日彦らは津軽へ亡命する際、地名を持っていった。それが日本中央碑にある日の本であり、後の日本(ひのもと)将軍安藤氏へとつながる。「東日流」とは東へ日本が流れるという、安日彦らが地名(日本)を津軽へ持ってきたことに由来する当て字ではないか。『新唐書』日本伝に見える、「日本は乃ち小国、倭(九州王朝)のあわすところとなる、故に(大和朝廷は)その号を冒せり」という記事もこの天孫降臨事件を述べたものではないか。一世紀から七世紀まで存続した倭国(九州王朝)は、北部九州に先住した「日本」を侵略した。そして八世紀以後、倭にとってかわった大和朝廷が古く由緒ある日本という国号を使用したと、近畿天皇家の使者は中国側に述べたのであろう。そのことが、「あるいは云う」として『新唐書』に記された。『東日流外三郡誌』に残された伝承と『新唐書』の一致は重要である。『東日流外三郡誌』抜きに日本国の歴史を知ることはできない。
・・・
日の本とは、糸島博多湾岸の太陽信仰の聖地に由来している。たとえば平原(ひらばる)は、平は日羅(ひら)で、原は集落を意味するバルであろう。有名な弥生の平原遺跡は縄文時代からの太陽信仰の聖地に侵略者(ニニギ)たちが造った墓だ。すなわち三種の神器をシンボルとしていた集団が造ったものである。これら金属器や三種の神器は弥生中期初から現れるが、弥生前期末以前には現れない。こうした考古学的事実はこの時代に大事件が起こったことを示すものだ。それが『記紀』で言う天孫降臨であり、『東日流外三郡誌』には「筑紫の日向の賊」により安日彦らが津軽に追われた、と記された事件を指す。更にこのことを裏づける事実として、板付水田がこの時期に断絶していることや、青森県の砂沢遺跡(弥生前期)、垂柳遺跡(弥生中期)の水田が、板付水田と同じ形式で発見されている。これは、安日彦らが稲と稲作技術を持って、津軽へ亡命したことと符合している。しかも、東北ではこの青森県の稲作遺跡が最古であり、南から順次稲作が伝播したという形跡は見られない。これなども、安日彦らの糸島博多湾岸からの亡命という『東日流外三郡誌』の記述でしか説明できない。『東日流外三郡誌』には稲を持った安日彦の絵が記されているが、これだけ考古学的事実と伝承が対応しているのである。
」
((このページでは http://www.tagenteki-kodai.jp/nenpyo_20101102.docのキャッシュを表示しています。))
「中国では六朝時代のm音が、唐の時代にはb音に変化しました。『毎(mai・マイ→bai・バイ)』です。
風船あられの漢字ブログ
http://huusennarare.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-8bd0.html
」https://artworks-inter.net/ebook/?p=5347
”多利思北孤” ”安日”
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E2%80%9D%E5%A4%9A%E5%88%A9%E6%80%9D%E5%8C%97%E5%AD%A4%E2%80%9D%20%20%E2%80%9D%E5%AE%89%E6%97%A5%E2%80%9D&ei=UTF-8
'阿毎多利思北孤' が記紀にないのは、徹底、焚書、抹殺・・・今日に至るも、『東日流外三郡誌』偽書を叫んで、中身も全部退けてる・・・
たまWEB的脳内解釈では、さらには、このアビ、アベ、はアブラハムのアブから来ているんだとみたいな・・Abraham .. Ab (父という意味もあるかな)天(あま)も、アビ、アベの意も含んでたのかも・・日本人はどうしようもなく、アブラハム、イサク、ヤコブの血筋でいっぱいなんだと・・・
ABRAHAM (Abram, Ab-Raham, "father of the multitude," in Aramaic and in Hebrew
https://search.yahoo.co.jp/search?p=abraham%20ab%20father&ei=UTF-8
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