より一層の知識と光を求めて・・・・

時に末日聖徒/モルモン教への私見含むメモ帳にて御座候 ほな毎度どんもにて 御きげんよろしゅうで御座候

卑弥呼(八倉比賣)は阿波に

2023-08-12 10:09:18 | わかってみたいな、日本古代史

35,559 回視聴  2023/06/24  
古代史では圧倒的人気の卑弥呼。その墓が記されている200年前の古文書が唯一残っているのに、何故世に知らされず、無視され続けられているのでしょうか
テレビ番組(邪馬台国の女王・卑弥呼の墓が徳島に
」 ㉒『卑弥呼の墓は古文書に記されている』 - YouTube

「八倉比賣 大国主」の検索結果 - Yahoo!検索

55,003 回視聴  2023/07/08  
阿波から日本が始まったという考えを持たれているYouTube発信者リンク ・・
」 ㉔『研究者も学者もこの謎をなぜ語らない?』 - YouTube 


“天照大御神は卑弥呼である ”

2023-06-26 19:57:32 | わかってみたいな、日本古代史

『天照大御神は卑弥呼である -真説・卑弥呼と邪馬台国- (Shinkosha Selection―日本を識る) 単行本(ソフトカバー) – 2009/12/20
安本 美典 (著) 心交社』
図書館から借りてきたとですぅぅ・・

佐賀の吉野ヶ里遺跡の統治者の・・2023-06-21 ・・
これは古墳の中心軸を導き出し、それを矢印として延長していくと、線上に複数の情報が見えるという「前方向法則」を適用してみたわけですが。
 ・・
するとその矢印の27km先には、福岡県筑前町の「大三輪山(小鷹城山)」と「大巳貴(おおなむち)神社」があったりするんですよね。27km離れてるのに、寸分の狂いもなかった。
三輪山といえば、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)のエピソードで知られる山ですけども。

奈良県にある三輪山というのは、大物主神を祀る大神神社(大神神社)の神名備、御神体だったりします。大巳貴命といえば古来より、大物主神と同一視されたりもするんですよね。
筑紫にも三輪山があったということは?

いま三輪山は奈良盆地にありますが。実はそれ以前には、筑紫にも大物主神を祀る三輪山があったということ。その名残りが筑前町の大三輪山ではないか?と思うわけなのです。
それは邪馬台国がもともと筑紫平野にあって、後に奈良盆地に邪馬台国が移っている証拠だと思われます。

筑紫平野の地名と奈良盆地の地名はそっくり同じであることは、「天照大御神は卑弥呼である」(安本美典著書)に解説されていました。
この筑前町の大三輪山のそばには、おあつらえ向きに「奈良」という地名(小字)までありますし。筑紫に加えて佐賀の平野部も、邪馬台国だったんじゃないですかね。
 ・・
佐賀の吉野ヶ里遺跡の統治者の信仰対象は、三輪山の大物主神だった証拠 - たっちゃんの古代史とか (hatenablog.com)

わかってみたいな・・


わかってみたいな墨家の兼愛

2022-08-06 14:26:15 | わかってみたいな、日本古代史

「卑弥呼の鬼道は・・道教の教法としてみられ、道教の古典である『墨子』の“迎敵祀”条に、城郭の四方を守る軍将として‘大率’がみえ、“一大率”がそれに由来するなど、関連を指摘している。」 p136 『ここまでわかった! 卑弥呼の正体』 歴史読本・編集部 2014 中経出版

「魏志倭人伝の「一大率」
『古代国家と道教』 重松明久 著 吉川弘文館 昭和60年
P35‐末から4行目
「大率」 の言葉は 墨子 第六十八 迎敵祠篇 にある。
『韓非子 墨子』 中国古典文学大系 平凡社 1968年
墨子 P499‐末から8行目 に「大率」(方面軍の大将) の言葉がある。・・・

墨子  大率 神社 尚同: 邪馬台国 下関 (webry.info)

「墨 大率 迎敵」の検索結果 - Yahoo!検索

「 けん‐あい【兼愛】 の解説
自他・親疎の区別なく、平等に人を愛すること。 中国古代の思想家、墨子 (ぼくし) が唱えた。

」 「兼愛」の検索結果 - Yahoo!検索

 


2022年どんな年に?!

2022-01-03 11:29:37 | たまWEBやブログの紹介
おめでとうございます、さしあたり、こんなん、視聴しましたん、

『新年のご挨拶 コロ助の2年間は? 日本はいつ・どのように誕生? 台湾・沖縄が乗っ取られる? 花鳥風月「沁みる」環境(新井信介:ぬなとチャンネル)
3,005 回視聴2022/01/01

https://www.youtube.com/watch?v=wsekKj16naA

邪馬台国(・やまと)東遷については、前にメモってました、
「長髄彦・ナガスネヒコ  その5 邪馬台国東遷の真実  2020-11-08 09:28:49

https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/21 ... a9ae178e41

古代史解明は人物比定から??!!

2021-12-15 19:58:45 | わかってみたいな、日本古代史

日本古代史わかってみたいな、たまWEBなわけですが、

いろんな方々が、推論含め論じられてますですね・・もう何十年もの時が費やされて・・

『全国邪馬台国連絡協議会 /歴史に残る国民的プロジェクト

/私の「邪馬台国論」・「古代史論」

https://zenyamaren.net/%e4%bc%9a%e5%93% ... %e3%80%8d/

たまWEB的には、目下のところ、東・西アジア・中国古代史での人物比定をするなど、
また古代オリエント史学会主催の故三笠宮さんからねぎらいの言葉を受けたという
小林惠子(やすこ)女史の研究書をして、日本古代史解明の先生として勝手に
自称生徒になっておりますので御座候・・

小林惠子日本古代史シリーズ
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5 ... A&ei=UTF-8

"小林惠子" 三笠宮
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%22 ... E&ei=UTF-8


長髄彦・ナガスネヒコ  その5 邪馬台国東遷の真実 かきかけ

2020-11-08 09:28:49 | わかってみたいな、日本古代史

邪馬台国(・やまと)東遷は、基本、このネット時代、アジア規模(地理・歴史)で見ないと、でしょうかね・・・(それからすると、北九州の中だけだとか、近視眼的で終わってしまうのかも)

ありがたし~~・・・

「   たっちゃんの古代史   2018-10-31

中国には「ヤマト」という地名が彼方此方に散在している・・・それをグーグルマップで調べ尽くしたのは、2012~2014年頃でした。・・・

電子書籍「日本の地名の真の由来と神武東征のカラクリ仕掛け」よりf:id:kl117cr233:20181016122222p:plain

個人的な見解は既に過去の記事でも書いてますが。

f:id:kl117cr233:20181026005712j:plain

bc2~ad4まで中央アジアにあった烏孫がヤマトの前衛国家であったがために、烏孫の段階的崩壊と共にヤマト地名が東へ流出、2世紀頃に扶余を経て、ヤマトの王権が倭へ入り込んでいる

と。そうすると大陸にヤマトが散らばってもおかしくないです。

https://tacchan.hatenablog.com/entry/2018/10/31/012353


一説に渤海使節団は30数回のうち、半数以上は出羽方面に到着とのこと。

渤海(紀元698-926)の出港地点は不凍港ウラジオストク(❝7世紀末から10世紀初頭は、渤海国の領域であった。アルセーニエフ沿海地方州立博物館には、渤海国時代の遺跡から発掘された文化財が展示されている。 ❞)あたりだったかも。

渤海使 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A4%E6%B5%B7%E4%BD%BF


「   縄文時代に大陸へ 隠岐の黒曜石  xhimiko

古代出雲の東から西へ旅は、長門の国で終結しました。しかし、古代史において大変重要な場所が一箇所、抜け落ちていました。それは、隠岐の島です。島根半島の北方に浮かぶ群島です。この地で産出される「黒曜石」は、縄文時代に日本海を渡ってウラジオストクの遺跡から出土しているのです。

これは、邪馬台国・越前が日本海巡回航路を使って高句麗から鉄を入手していた、という仮説の強力な根拠になります。

黒曜石は、外見が黒く、割ると非常に鋭い破断面となることから、世界各地でナイフや鏃(やじり)、槍の穂先などの石器として、長く使用されていました。日本でも旧石器時代から使われていました。

日本での産地は、隠岐の島の他に、北海道遠軽町(えんがるちょう)、秋田県の男鹿半島、長野県霧ヶ峰周辺、伊豆諸島の神津島、大分県の姫島、佐賀県伊万里、長崎県内の各地などが知られています。 鉄器が普及していなかった旧石器時代から弥生時代までは、この黒曜石が貴重な刃物として活躍していたようです。中国東北部の沿海州の紀元前1500年~2000年頃の遺跡から、隠岐の島産の黒曜石が出土しています。現在のロシア・ウラジオストク周辺の三十数カ所の遺跡からの出土です。 出土した七十数個の黒曜石を解析した結果、その50%が隠岐の島産、40%が男鹿半島産だった事が分かりました。

https://www.xhimiko.com/%E8%AB%B8%E8%AA%AC%E6%A4%9C%E8%A8%BC/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E8%AA%AC/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AB%E5%A4%A7%E9%99%B8%E3%81%B8-%E9%9A%A0%E5%B2%90%E3%81%AE%E9%BB%92%E6%9B%9C%E7%9F%B3/


よってもって、東日流外三郡誌のいう邪馬台国を標榜する部族集団(・連合のうちいくつかは日本海渡りで)が十三湖(じゅうさんこ・とみこ)あたりに到着し、起点を置いてるふうなるのも頷けるところでは御座候。

十三湖  

「❝十三湖(じゅうさんこ)ならおまえも知っておろう

14世紀に大津波で壊滅したと言われる安東水軍の根拠地だ❞

と言っても伝説に残されているばかりだ。

神武東征に抵抗し、敗れて北に逃れた長脛彦(ながすねひこ)を開祖とする

安倍一族によって築かれた津軽王国の存在は、

あくまでもロマンであって史実ではないと主張する学者が大半を占めている。

さらに、彼ら一族の興亡を詳しく伝えた『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』も

幕末から明治にかけて作られた偽書とみなされ、資料的価値さえ認められていない。 ・・・

」  https://ameblo.jp/sf-spirin/entry-11138922675.html


長髄彦・ナガスネヒコ  その4 阿毎多利思北孤は 安日多利思北孤だった

2020-11-05 20:54:08 | わかってみたいな、日本古代史

まずはっさぁぁぁ・・、神武天皇って、いつの話なの?!?!だよねぇぇ・・・

「福永晋三先生の倭歌が解き明かす「邪馬台国」倭国=豊国説  2016年10月31日

邪馬台(倭)国の初代大王、神武天皇の即位は、西暦121年である。

『日本書紀』に辛酉年に橿原宮で即位したとある。

絶対年の記録としては、

57年に倭奴国王、漢光武帝に遣使。金印を受く。
107年に倭面上国王帥升、後漢の安帝に生口(食肉用奴隷)一六〇人を献ず。

その後は、

238年、景初二年六月、邪馬薹國の女王(にして神武の後継者たる)卑弥呼、魏の帯方郡に大夫難升米等を遣はす。(魏志)
になる。

西暦107年と238年の間にある辛酉年は、121年と181年である。

『魏志倭人伝』より
その國、本また男子を以て王と為す。住まること七、八十年、倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名を卑弥呼いう。

神武天皇の後、神渟名川耳尊(後の綏靖天皇)が、手研耳命を殺害し王位を奪う。(古事記では、当芸志美美命の反逆となっているが、父神武天皇と一緒に東征を行った手研耳命は、第二代大王に就いていた。神渟名川耳尊が王位を奪った。)

その後、倭國大乱が始まる。(中国では、大乱とは皇帝が殺された時に使う言葉で、手研耳命大王が殺されたので、大乱の始まりとなる。)その大乱が七、八十年続いた。

『日本書紀 神功皇后紀』の割注に卑弥呼と臺与の記事があるが、神功皇后と卑弥呼が同時代のように日本書紀は構成している。

神功皇后紀が外国の資料が引用されているので、神功皇后の時代は、卑弥呼の時代より干支60年の二巡(120年)後の時代が判る。日本書紀紀年は、120年前にずらされているので神功皇后即位年が、西暦200年にあたりこれが、卑弥呼の共立の年ではないか。

したがって、神武天皇の即位した辛酉年は、西暦121年となる。

神武天皇が即位した橿原宮は、畝尾山(香春一ノ岳)の東南の地にある鶴岡八幡神社と比定している。
・・・
」 https://ja-jp.facebook.com/fukunagasinzo/posts/187660398305531/

「福永晋三先生の倭歌が解き明かす「邪馬台国」倭国=豊国説   10月13日 20:51
<下稗田遺跡から出土した「すずり」>
   
この10月9日に古代のすずりについての専門家、國學院大學客員教授の栁田康雄さんがとうとう豊国から国内最古級のすずりを再発見された。
下稗田遺跡から出土していた約50点の砥石を調査、その中から3点のすずりを確認された。
これまでは、主に筑前方面でのすずりの再確認が行われていたが、ついに豊国から最古級のすずりが確認されたのである。
飯塚市の立岩遺跡から、数点の刀子が出土している。
刀子は小刀のことであるが、高島忠平さんによれば、木簡などに墨で字を書き、誤ったらその個所を削るための道具ということだ。
同遺跡からは、「前漢式鏡」も出土しており、遠賀川流域から京築方面にわたって、確実に「紀元前から墨で字を書く文化」があったことになろう。
前漢式鏡も漢倭奴国王印(後漢)も卑弥呼の親魏倭王印(未出土)も倭奴国・倭国の使いは漢字漢文の国書を携えて中国の王朝に使いしたことになる。
倭奴国・倭国は遠賀川流域にあったと考えるのが順当であろう。(福(福永先生より)
---------------------------- 
(2020年10月13日(火)「西日本新聞」より)
「福岡県行橋市の下稗田遺跡から出土したすずりとみられる板石」
福岡県行橋市の下稗田遺跡で出土していた板状の石3点が弥生時代中期前半ごろのすずりとみられることが9日、分かった。
・・・
https://www.facebook.com/fukunagasinzo/

「私はこの位置関係から橿原宮を香春一ノ岳の東南麓の高野に比定したのである。そこには鶴岡八幡宮が鎮座し・・・

ここには、鎮西八郎為朝が鎌倉から勧請した鶴岡八幡宮が鎮座する。御祭神は、一座 応神天皇、二座 神功皇后と続いて、三座に玉依姫命が祭られている。

当社の由緒書きにも、「玉依姫命は豊玉彦の女、葺不合命の皇后にて、御容姿の美称なり、神武天皇の母君の坐す。」と記されている。
宮司の鶴我盛恒氏に玉依姫がなぜ祭神かをお尋ねしたところ、昔から祭られているとのご返事を頂いた。鶴我氏は同社において「樫葉の山」と題する冊子を発行されている。
その名の由来をお聞きすると、「当社の祝詞は、『樫葉の山にまします云々』で始まります。昔から樫の木が多かったことによります。」との簡単明瞭なご回答もあった。
私は、これこそ神武の橿原宮建設以来の伝承と思われてならなかった。

鶴岡八幡宮の由緒書きの続きに、「翌年(仁平三年)正月十一日、社殿を初め五寺一院四十八堂舎ことごとく竣工せしにより同月十六日新宮に奉齋す。
この日為朝公は九州の諸大名高家、家臣を率いて参入し為朝公は拝殿に、その他は回廊、釣殿にいずれも衣冠束帯で仕候す。」とあり、また、「久寿元年三月勅使徳大寺中納言良房は命により、近衛天皇の御宸筆の『鎮西鶴岡若八幡宮』の勅額を持参して下賜される。為朝公これを拝受し掲げしむる。」ともある。

中世の朝廷も源氏も、神武の橿原宮の所在を知悉していたからのような感すら与える。竣工時の宮の規模から考えても、鎮西八郎為朝は古代九州の由緒ある地に、源氏の氏神を祭ったようだ。
    (中略)
橿原宮跡は、どうやら香春一ノ岳の東南「樫葉の山」に眠っているようである。
・・・

※ この辛酉(かのととり、しんゆう)の年を西暦121年とした根拠は、中国史より

① 「後漢の光武帝が建武中元二年(57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った」

② 「卑弥呼が、景初二年(238年)以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送った」

③ 「倭国は元々男王が治めていた(国の成立の1世紀中頃か2世紀初頭)が、その後、70~80年間、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きた。( 倭国大乱  の時期は2世紀後半)
そこで、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まった。」

西暦57年から238年の間の辛酉(かのととり、しんゆう)の年は、121年と181年の2回ある。
卑弥呼即位より7、80年前の辛酉の年は、西暦121年であり、それが神武天皇の即位の年 = 大和王朝(邪馬臺國)の成立の年とした。
・・・

香春町に「鶴我」さんという方がいらっしゃる。その家に系図のコピーを頂いた。ご先祖は、阿羅斯等です。都怒我阿羅斯等を先祖とされる方が、香春町にいる。鶴我家は、「都怒我号角鹿」とある。
都怒我阿羅斯等は、どこにいたのか?香春町にある鶴岡(つるがおか)八幡神社である。西日本新聞に『新説 日本書紀』を出した時には、現人神社 と書きましたが、訂正します。鶴岡八幡神社である。宮司さんは、鶴我さんである。都怒我阿羅斯等の子孫の鶴我さんが、今なお鶴岡八幡神社の宮司さんである。
神武天皇が、この地で即位した80年後に大加羅国から都怒我阿羅斯等がやってきてここに住んだ。その子孫の鶴我さんが宮司をされている。ただの偶然ですかね?

https://hanzan-qazwsxedc.jimdofree.com/%E2%91%A0%E9%A6%99%E6%98%A5%E7%94%BA/4-%E9%B6%B4%E5%B2%A1%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE-%E6%A9%BF%E5%8E%9F%E5%AE%AE/
ホームページ(https://hanzan-qazwsxedc.jimdofree.com/)から鎮西八郎で検索
または、”鶴我家系図”で検索
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E2%80%9D%E9%B6%B4%E6%88%91%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E2%80%9D&ei=UTF-8

神武東征も北九州での出来事だったということかぁぁ・・・壬申の乱も北九州でのというのも・・・

「*.天智四年に唐の劉德高らと一緒に来たのが、2011年に中国の西安で墓誌名が発見された百濟の佐平、禰軍(ねぐん)である。
禰軍は、日本國の降伏を勧める為に劉德高らに従ってきた。この時に、天智天皇は、菟道で閲兵をする。
この菟道の宮は、著書『真実の仁徳』に書いてある宇治天皇の宇治宮と同じく香春岳三ノ岳(天香山)の麓の場所の 阿曽隈社 にあったようです。香春町の中には、唐子橋という所がある。間違いなく唐の兵士達が、菟道宮へ入る為に渡った橋であると思われる。

この後の天智六年の春三月に遷都したのが、近江宮です。吉野宮を発見した後、近江京は何処か探したところ数年の調査で中間市中間駅の西隣の御舘(今は、団地が建てられ、削られてありません。)にあったらしい。
近くの神社に斉明天皇がいらしたという記録が残っている。これが、磐瀬行宮である。たぶん、ここが天智天皇の近江宮ではなかろうかと思われる。
天智天皇の近江宮と大海人皇子(後の天武天皇)の隠った吉野宮の両点の基軸ができた。そうすると「壬申の乱」の舞台は、何処か?
やっぱり、倭国であり、豊国北伐である。英彦山の南にある吉野宮から山を越えて、遠賀湾の出口付近の近江宮を襲撃した。・・・

壬申の乱後

天武は赤村の飛鳥浄御原宮で統治した。その後、 大和王朝は東遷 する。
平城京の時代は天武系すなわち筑紫君が天皇の時代であった。次の平安京の時代は天智系すなわち豊君が天皇の時代であったらしい。
天皇家の菩提寺と言っていい京都の泉涌寺には、天武以後称徳女帝までの八代七人の天武系の天皇の位牌が無いことはつとに有名である。

そして、今上陛下のいらっしゃる皇居において国賓を招いて行われる宮中晩餐会などの主会場が、豊明殿(ほうめいでん)である。その豊明殿の壁面を飾るのが、豊幡雲(とよはたぐも)の刺繍である。
したがって、現在の天皇家は、平安時代以降、天智天皇を祖とする豊君である。天武系(筑紫系)では無いという事が判るかと思います。

https://hanzan-qazwsxedc.jimdofree.com/%E5%80%AD%E5%9B%BD-%E8%B1%8A%E5%9B%BD-%E5%8C%97%E4%BC%90%E8%80%83/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1-%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E8%B1%8A%E5%9B%BD%E5%8C%97%E4%BC%90/
(禰軍 でサイト内検索 数件)

他には、法隆寺移築説、二中暦等々・・

「薬師寺のいう名前であるが、ここ大善寺玉垂宮を訪れた時に本殿の裏に「塞の神」が祀られているそこの前に、昔の五重塔か三重塔かは不明だが、半分か三分の一に割れた塔の心礎と思われる石が置いてあった。その石は、鬼夜保存会会長をされていた光山利雄さんが近くの夜明の田んぼから拾って持ってきたと言われた。心礎らしいその石には柱の跡と思われる円の形が綺麗に描かれれいる。そこに九州古代史の会の兼川晋さんが新聞紙を当てて周辺を丁寧になぞって綺麗に再現した。その新聞紙を室伏志畔が奈良に持って行って、薬師寺東塔の心礎に当てた。その時、一緒に同行していた大芝英雄さんの名言が「合うでー」。寸法がピッタリ合った。室伏志畔が筑紫(福岡県)にあったお寺が、奈良・京都のお寺に移築されたとしているその考えが成り立つ。

これが福岡県内の廃寺であり、福岡県には廃寺が多すぎる。廃寺はおかしい。奈良時代は、仏教は国の教えとしていた。この筑紫の廃寺が、 大和王朝の東遷 である。筑紫大地震の後、天武天皇が恐れをなして、天皇家から庶民に至るまで、現在の奈良県(大和)へ大引越しをした。倭民族の大移動である。

その廃寺の時にこの筑紫にあった寺を解体して、新し都(奈良・京都)へ持っていく。この廃寺跡からは、木材は一辺も出土しない。出土されるのは礎石と瓦だけである。つまり、礎石と瓦は重たくて運べなかった。木材のみを運んで、新たに心礎を据えて、瓦を新しく焼いて再建(移築)した。
法隆寺もこの廃寺から移築された。有名なお寺であればあるほど移築されたようである。   

天武天皇の時代にその廃寺の時の薬師寺の話が、吉山旧記の別のところに載せられている。本当に現奈良市にある薬師寺が久留米の土地から移築された薬師寺であるならば、薬師寺の仏様、薬師三尊像は、吉山旧記の記録によれば、当時の住職が唐の国から持ってきた仏様である。薬師寺のある薬師三尊像は唐の時代の仏像という事になる。という事は、日本でも国宝であるが、中国においても第一級の国宝になる。
 
」  サイト内、法隆寺で検索  https://hanzan-qazwsxedc.jimdofree.com/


「二中歴の年号「善記」は、継体天皇から始まり、継体天皇の宮の磐余玉穂宮(福智町金田  稲荷神社 )に確認したので、これは、豊国年号とした。
次に重要なのが、欽明天皇一九年(五五八年)に僅か一年だが、年号が「兄弟」という変わった年号がある。これが中国史書の『隋書 俀國傳』に出てくる兄弟統治(兄弟王朝)の始まりの年ではないか。
欽明天皇の磯城島(しきしま)金刺宮があった敷島という地名も福智町にある。
・・・
 継体天皇から始まるので、豊国年号とした。その継体天皇の時には、豊国が兄の国で、筑紫国が弟の国で始まったのであろうと考えている。

『隋書 俀國傳』では、阿毎多利思比孤が、兄と記されている。筑紫の側が、いつ兄に変わったのであろうか?

後の「日出ずる處の天子」の阿毎多利思比孤が、随に遣いを出したのが西暦六〇〇年(開皇二〇年)であり、その翌年の六〇一年の豊国の推古天皇九年にまた、変わった年号の「願転」というのがある。どのような意味だろうか?兄の国と弟の国がひっくり返る事を願うという意味ではないかと考えた。
阿毎多利思比孤が、継体天皇から続いていた兄の国(豊国)に代わって、自分(筑紫側)が兄の国になったのでないか。
その後の六一八年に「倭京」という年号がある。大いなる都を建てた。「願転」の年号からひっくり返ったと考えて筑紫年号とした。今まで九州王朝論で九州年号と言われた年号は、豊国年号から筑紫年号に代わっていると初めて述べている。
・・・
法隆寺金堂に安置されている釈迦三尊像の光背銘に「法興元三十一年歳次辛巳」という年号が刻まれている。
この法興という年号は『二中歴』に記された古代逸年号群の中にない。継体以降の豊国年号と違う系列の古代逸年号である。

その法興元年が西暦五九一年である時、二萬餘の豊国軍が筑紫に派遣された翌年に筑紫国に年号が発布されたことになる。発布の主は誰か。
『隋書』俀國傳 に云う「開皇二十年(六〇〇年)、俀王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌」すなわち、阿毎多利思比孤(天足彦)その人であろう。

阿輩雞彌は天皇(あめきみ)の中国音(唐宋音読み)か(毎は米と同じでマイがベイに変化した)。後に自ら日出處天子と称した。

」 サイト内 唐宋音で検索  https://hanzan-qazwsxedc.jimdofree.com/

もしかして、もしかして 阿毎は 安日だったりしてな??!!

「多利思北孤(たりしひこ)は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」で記述される倭国王である。『隋書』では他の中国史書が「倭」としている文字を「俀」と記述している・・・「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌という
」wiki
阿毎多利思北孤
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%98%BF%E6%AF%8E%E5%A4%9A%E5%88%A9%E6%80%9D%E5%8C%97%E5%AD%A4&ei=UTF-8

紀伊半島の熊野での話とかって、どういうことになるんでしょ???????

いつだったのかを確定だよねぇぇ・・・

たまWEB脳内で確立してるようなのは、奈良の都は、新羅による日本統一って。奈良の都は、新羅・慶州(新羅の古都)を彷彿させるそっくりさんらしい・・

”多利思北孤”  ”安日” で検索すると、ちらほらあったんですかねぇぇ・・・

「『東日流外三郡誌』と『新唐書』の日本:『東日流外三郡誌』は安日彦・長髄彦が筑紫の日向の賊に追われて、津軽に流れて来たと記す。筑前福岡市に字地名の日の本(ひのもと)があり、安日彦らはここから、ニニギに追われたのではないか。天孫降臨と言われているニニギらによる日の本への侵略事件だ。安日彦らは津軽へ亡命する際、地名を持っていった。それが日本中央碑にある日の本であり、後の日本(ひのもと)将軍安藤氏へとつながる。「東日流」とは東へ日本が流れるという、安日彦らが地名(日本)を津軽へ持ってきたことに由来する当て字ではないか。『新唐書』日本伝に見える、「日本は乃ち小国、倭(九州王朝)のあわすところとなる、故に(大和朝廷は)その号を冒せり」という記事もこの天孫降臨事件を述べたものではないか。一世紀から七世紀まで存続した倭国(九州王朝)は、北部九州に先住した「日本」を侵略した。そして八世紀以後、倭にとってかわった大和朝廷が古く由緒ある日本という国号を使用したと、近畿天皇家の使者は中国側に述べたのであろう。そのことが、「あるいは云う」として『新唐書』に記された。『東日流外三郡誌』に残された伝承と『新唐書』の一致は重要である。『東日流外三郡誌』抜きに日本国の歴史を知ることはできない。

・・・

日の本とは、糸島博多湾岸の太陽信仰の聖地に由来している。たとえば平原(ひらばる)は、平は日羅(ひら)で、原は集落を意味するバルであろう。有名な弥生の平原遺跡は縄文時代からの太陽信仰の聖地に侵略者(ニニギ)たちが造った墓だ。すなわち三種の神器をシンボルとしていた集団が造ったものである。これら金属器や三種の神器は弥生中期初から現れるが、弥生前期末以前には現れない。こうした考古学的事実はこの時代に大事件が起こったことを示すものだ。それが『記紀』で言う天孫降臨であり、『東日流外三郡誌』には「筑紫の日向の賊」により安日彦らが津軽に追われた、と記された事件を指す。更にこのことを裏づける事実として、板付水田がこの時期に断絶していることや、青森県の砂沢遺跡(弥生前期)、垂柳遺跡(弥生中期)の水田が、板付水田と同じ形式で発見されている。これは、安日彦らが稲と稲作技術を持って、津軽へ亡命したことと符合している。しかも、東北ではこの青森県の稲作遺跡が最古であり、南から順次稲作が伝播したという形跡は見られない。これなども、安日彦らの糸島博多湾岸からの亡命という『東日流外三郡誌』の記述でしか説明できない。『東日流外三郡誌』には稲を持った安日彦の絵が記されているが、これだけ考古学的事実と伝承が対応しているのである。

  ((このページでは http://www.tagenteki-kodai.jp/nenpyo_20101102.docのキャッシュを表示しています。))

中国では六朝時代のm音が、唐の時代にはb音に変化しました。『毎(mai・マイ→bai・バイ)』です。
風船あられの漢字ブログ
http://huusennarare.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-8bd0.html

」https://artworks-inter.net/ebook/?p=5347

”多利思北孤”  ”安日”
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E2%80%9D%E5%A4%9A%E5%88%A9%E6%80%9D%E5%8C%97%E5%AD%A4%E2%80%9D%20%20%E2%80%9D%E5%AE%89%E6%97%A5%E2%80%9D&ei=UTF-8

'阿毎多利思北孤'  が記紀にないのは、徹底、焚書、抹殺・・・今日に至るも、『東日流外三郡誌』偽書を叫んで、中身も全部退けてる・・・

たまWEB的脳内解釈では、さらには、このアビ、アベ、はアブラハムのアブから来ているんだとみたいな・・Abraham .. Ab (父という意味もあるかな)天(あま)も、アビ、アベの意も含んでたのかも・・日本人はどうしようもなく、アブラハム、イサク、ヤコブの血筋でいっぱいなんだと・・・

ABRAHAM (Abram, Ab-Raham, "father of the multitude," in Aramaic and in Hebrew
https://search.yahoo.co.jp/search?p=abraham%20ab%20father&ei=UTF-8


長髄彦・ナガスネヒコ

2020-10-31 14:10:18 | わかってみたいな、日本古代史

長髄彦

「安日長髄二祖再葬事     仁徳帝御宇30年5月 立里の長髄彦の墳、洪水にて盛土割流して・・・於瀬洞塚に再葬せり。

安日彦 七尺七寸 肩二尺五寸
長髄彦 七尺九寸 肩二尺七寸

『東日流外三郡誌』1古代編(上)p334 八幡書店 1998 新装版

七尺は212センチ、九寸は27センチで、2メートル40センチ、肩は鎖骨? まぁ、巨人遺伝子持ってたんでしょうかねぇぇ。

母方先祖に、中世の秋田県は仙北戦国大名小野寺氏の支城領主大井氏に仕えてた家臣がいたらしく、ある書にその領主も七尺で、太閤関白に謁見したと。領主の母方は小野寺氏、小野寺氏には数代、秋田物部氏と縁組されてて(『秋田物部文書伝承』進藤孝一 無明舎出版 2016)、その秋田物部氏にもしかすればアラハバキ系統の津軽安藤一族の血筋が入ってきてて、そのDNAが発現したのかも?!


父方先祖では、中世会津の地域で一土豪であった富田一族が・・・その系図で、代々通り字が長・・・富は登美、長が長髄からだったりしてな?? 一族分かれて、伊達氏、葦名氏、相馬氏に各々配下となった。

富田氏 会津
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%AF%8C%E7%94%B0%E6%B0%8F%20%E4%BC%9A%E6%B4%A5&ei=UTF-8
通字
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%80%9A%E5%AD%97&ei=UTF-8


「小野田寛郎インタビュー ・・・

小野田  最後には、ニギハヤヒがナガスネヒコを斬って、それで(名草)も降伏したんです。ニギハヤヒは、(当時の大きな勢力の)行政顧問をして、ヤマトに入る前は藤白(海南市藤白)にいた。ナガスネヒコの娘と結婚して、子供が何人もいた。そのうちの二人が残っている。ひとりは藤白神社の宮司さん。もう一人は大字鳥居の資産家Kさん。二人がナガスネヒコとニギハヤヒの子孫と伝わっている・・・

(ナガスネヒコは)紀の川下流にいた土着の種族ですからね。だから、ナガスネヒコはそこから出て、勢力が拡大したからヤマトへ入ったわけですから、名草郡か、あるいは南海のどちらかの出身だったんだと思います・・・

小野田寛郎氏に取材した際、いろいろと面白い話を聞いたが、本に収まらなかった話がいくつかある。そのひとつが❝名草戸畔は長身だった❞という説だ。‘小野田口伝’は小野田寛郎が戦争に行く前にお父様から聞いた話で、外部の誰かによって手が加えられた話ではない・・・あれはつい先日のことだった。ふらっと入った近くの古書店で、興味深い本を見つけた。タイトルは『神武移住団と結んだポリネシアンの秘史 --大和王朝の水軍』(双葉社)。著者は中島洋氏。目次を読むと、第一章のタイトルが‘ポリネシアン、熊野に来たる’だ。わたしはこの本を目にしたときに、小野田氏が語ってくれた‘ナグサトベ長身説’だった・・・

紀北のナグサトベに対して、紀南熊野を治めていたと伝わる女王・丹敷戸畔(ニシキトベ)にまつわる、興味深い話がある・・・古文書によると、ニシキトベの墓といわれている塔の下に、長身の成人の朽ちた骨が瓶に収められていたという。ニシキトベは、紀北のナグサトベ同様、神武にはむかって殺されたと伝わる伝説の女王だ。長身の骨が本当にあったかどうか確かめようがないが、長身の女王と聞くと、鉄の農具をもって攻めてきた軍勢と戦った与那国島のサンアイ・イソバを連想してしまう・・・

」『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』p105‐6、213-4、239-40 なかひらまい著 2013 増補改訂 スタジオ・エム・オー・ジー


名草戸畔・ナグサトベ  「日本書紀や和歌山市の伝承に登場する、神武東征と戦った人物である。伝承によると女性。 名草戸畔は日本書紀での名で、地元では名草姫(なぐさひめ)とも。
」 https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%90%8D%E8%8D%89%E6%88%B8%E7%95%94&ei=UTF-8 

「二〇十四年一月一七日の朝、小野田寛郎氏が逝去されたとの報せを受けた。 追悼の思いを込めて小野田さんの想い出を振り返ってみたい。 2013年5月5日、テレビ和歌山・和歌山放送主催により和歌山市で行われた講演会「なかひら まい 小野田寛郎 名草戸畔を語る」の様子。小野田寛郎氏が名草戸畔について語る最初で最後の講演となった。

小野田寛郎(おのだひろお)私が小野田さんと初めてお会いしたのは、二〇〇六年十一月のことだ。「名草戸畔(なぐさとべ)伝承」についてお話を伺うためだった。名草戸畔とは、はるか縄文の昔、名草地方(現:和歌山市海南市)を治めていたとされる女性首長のことだ。 小野田さんの実家は海南市小野田の「宇賀部神社」の宮司家だ。宇賀部神社は昔から「名草戸畔」の頭を祀ると言われている。宮司家の小野田家には名草戸畔の伝承が代々口伝で残されてきた。小野田さんは父や祖父からその口伝を聞いて育った最後の伝承保持者であった。 ・・・
https://www.pref.wakayama.lg.jp/bcms/prefg/000200/nagomi/web/nagomi23/special_essay/index.html

名草戸畔 小野田
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%90%8D%E8%8D%89%E6%88%B8%E7%95%94%20%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%94%B0&ei=UTF-8


「長髄彦は兄なる安日彦とともに日向一族を侵領より防ぎ戦ふ。然るに、名草丹敷の一族は日向に降り、莵田の国主なる兄猾、弟猾の兄弟は弟耳、日向一族に味方せるに、兄は亦、長髄彦のみに忠誓にして若御毛沼命を謀りて殺さんとせるに、道臣命に露見されて、一族は皆誅されたり。・・・長髄彦とて、肩に矢をうけて勢いを東国に加えんとて・・・長髄彦、安日彦は奥州に降り、東日流に荒吐一族の祖となりて安東浦に邑造りて国君の祖となる。

『東日流外三郡誌』1古代編(下)p395-6 八幡書店 1998 新装版


・「長髄彦    『記・紀』において、神武天皇の大和平定に抵抗したと記載される人物。『紀』では登美(とみの)那賀須泥毘古(ながすねびこ)あるいは登美毘古(とみびこ)という。「トミ」とは、一般的には地名をあらわすと解釈され、『和名抄』にある「大和国添下郡鳥見郷」(奈良市富雄付近)であるとする説が多い。一方、吉田大洋氏は、大国主命の直系と伝えられる富(とみ)氏の系譜に、トミノナガスネヒコの名前があることから、「トミ」を富氏という出雲神族につながる名であると述べている。長髄彦とは、長いすねを持つ男性をあらわすが、先住民を土蜘蛛、八束脛(やつかはぎ)と表現するのと同様に、蔑視の意識があると言われている。これに対し吉田氏は、長髄彦の「ナガ」をインドの蛇神「ナーガ」に結びつくものであるとし、インドには現在でも蛇をトーテムとするナーガ族がいることを指摘している。

長髄彦の妹の登美夜毘売(とみやびめ)(紀・三炊屋媛(みかしきやひめ))は、神武東征以前に大和に天降っていた天津神(あまつかみ)の子・饒速日命(にぎはやひのみこと)の妻となり、物部氏の祖となる宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)を産んでいる。

『紀』では、長髄彦自ら饒速日命を主君としていることを語るが、『記』ではその記述はない。

『日本書紀』によれば、長髄彦は生駒山を越えて大和に入ろうとした神武軍を孔舎衛坂(くさえのさか)で撃退し、神武の兄・五瀬命を戦死させる。そのため神武軍は南に迂回して熊野に至り、吉野の山中を踏み越えて大和の宇陀に入る。長髄彦は再度神武軍と戦い、幾たびもこれを破るが、突然降り出した雹の中を金色の鵄(とび)が飛翔し、神武の弓の先に止まって稲妻のように光り輝くと、長髄彦の軍兵は目がくらみ、混乱して戦うことができなくなった。それでも長髄彦は戦闘を放棄しようとしなかったが、主君であった饒速日命に殺害されてしまう。饒速日命は長髄彦の軍勢を率いて神武軍に帰順する。

一方『古事記』では、二度目の戦いにの際に「長髄彦を撃とうとした時の歌」を記するだけで、饒速日命が長髄彦を殺害したという記述はなく、長髄彦の生死についても不明である。

『東日流外三郡誌』によれば、長髄彦は、兄の安日彦とともに、大和にある邪馬台国の国王であった。しかし、神武天皇率いる日向軍に敗れて、二人は津軽に落ち延び、まもなく津軽を制圧して、新たにアラハバキ族をなのった。「秋田系図」「藤崎系図」によると、安倍氏は安日彦の子孫である。

http://www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/ryuh/ryuh_dic_n.htm

・「東北王朝論
http://www.proto-s.net/info/column/historya/post-515.html

・「長髄彦    登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)は、日本神話に登場する人物。神武天皇に抵抗した大和の指導者の一人。 ・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%AB%84%E5%BD%A6

長髄彦
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%95%B7%E9%AB%84%E5%BD%A6&ei=UTF-8

長脛彦
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%95%B7%E8%84%9B%E5%BD%A6&ei=UTF-8

たまWEB的には、義経ジンギスカン説、信じれるほうで御座候・・・渤海使節(698年 - 926年)は、たいてい出羽に到着・漂着というこっちゃな。

ニギハヤヒは徐福の系統で、ナガスネヒコや女王他がポリネシア系統としたらニーファイ人のハゴス一行が西へ船出の推定年が紀元前55年前後(推定年はモルモン経や英文モルモン書に。アルマ書63章)で、それ以降に列島にやってきたんでしょうかね・・


卑弥呼は帯方郡におったのだった

2019-12-24 11:13:48 | わかってみたいな、日本古代史

(2019-12-25)  「公孫氏が滅びたのは238年であり、魏志倭人伝には、

「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都」

とあるが、

晋書には「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶・・」とあり、この文自体が問題はあるが、一応宣帝の平らげるやと読むなら、亡ぼした後に卑弥呼は魏に朝貢した事になる。もちろん、卑弥呼が公孫氏の娘説、つまり、宣帝の平らげたる公孫氏と読む、も捨てがたい魅力があり、仮にそうなると魏があえて公孫氏の娘を朝貢させ、散々宣伝に利用しようと言う意図も判らないではない。この文章の読み方で議論していても中国人ですらどちらともいえないという以上、両方の可能性で議論しなければきりがない。ましてや、公孫氏の娘であった前提で歴史を組み立てる事は危険である。他の史書では239年に卑弥呼が朝貢したことになっている。これは思うに239年が正しく本来は滅びるべき邪馬台国をわざと助けた事を隠し238年、公孫氏が滅びる前に朝貢したのだと魏は表明したのだろう。だから、後世になり「ばればれじゃん。」と訂正したものと思われる。

つまり、魏志は倭のことがぼろかすに書いてある。本来は奴隷にするところを助けてやったのだと言わんばかりではないか。

さて、239年ごろの遼東半島については「魏志」及び後漢書の韓史を見なければならない。

「魏志の韓伝」をみよう。・・・

」 http://mayonokuni.web.fc2.com/kenkyu08.htm

「たったの奴婢(奴隷)10人と、班布二匹二丈だけで明帝が破格の返礼を与えたのではありません。10人は公孫康の何らかの高官で、慮になった者でしょう。景初二年の12月の生口四人女生口六人は公孫氏の軍の捕虜、正始8年の男女生口三十人は高句麗軍の捕虜と読み解くべきでしょう。・・・上記の説は初めての説ではありません。以下引用:「今一つ考えられるのはこの粗末な献上物を難升米が差し出せたのは、十人の生口が公孫氏系の捕虜だったからである。であればこの生口献上が魏の明帝を最も喜ばせたに違いない。」、『岩本学説 邪馬台國への道』岩本正昭『邪馬台国への道』P233より抜粋。右の岩本説をさらに推し進めると・・・・生口十人は難升米が公孫軍と戦い勝利したことの生き証拠というわけです。すでに岩本正昭が推測していました。すばらしいですね。 ところで岩本学説では「伊都国を公孫氏帯方郡の出先機関とみています。「倭地本土には諸国邑にはここに駐留する「都」と呼ばれる総督に支配されていた。この伊都国には「一大率」と呼ばれる検察官が常住し、邪馬台国以北の倭人国邑に対する警察権、および裁判権を独占し諸国邑は皆恐れたいたという言う。郡使はここに駐まっていた。」・・・

」  http://www.himiko.kingchin.jp/339_1J.html

「  ”岩元氏 講義 真説魏志倭人伝研究会

伊都国は公孫氏帯方郡の出先機関・・・一大率と呼ばれる検察・警察が常駐・・・難升米等が献上する生口男四人 ・・・  ”

」   

http://www.gishiwajinden.net/upfiles/news/2015_0404gisiwajinden.pdf#search=%27%E5%8D%91%E5%BD%8C%E5%BC%93%E5%91%BC++%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97%E7%8E%8B%27

~ ~ ~ ~ ~ ~ ~      ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~     ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~   ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

 

なるほ~~、そういうことだったのかぁぁ・・・

「魏志倭人伝、あなた、「都」を「ミヤコ」と思い込んでいませんでしたか?それは、とんでもない誤訳で、ほんとうは、「辺境の封地」という意味でした。すると、女王は邪馬台国にはおらず、逆に、帯方から高官・大率を派遣して邪馬台国を支配していたのです。みやこは「京師」が正しいのです。「邪馬台国の女王卑弥呼」というフレーズは的外れだったのです。

」 

http://www.kingchin.jp/

http://www.himiko.kingchin.jp/

」  http://www.himiko.kingchin.jp/339_1J.html

 

"卑弥呼X"   https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%22%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC%EF%BC%B8%22

 卑弥呼 公孫 娘  https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC%20%E5%85%AC%E5%AD%AB%20%E5%A8%98


ついに邪馬台国現る!! 越前で決定だにゃぁぁ!!!

2019-05-07 12:10:23 | わかってみたいな、日本古代史

すっ~~~~ごぉぉい、邪馬台国は越前にありって!!とうとう見つかったかぁぁぁ・・・・まだ全部のユーチューブ・ビデオとかって見てないですがぁ、たまWEB脳内では超納得・わかるんですよぉぉみたいな・・・とりあえず記事メモっておきやすぅぅ・・・

‘八俣遠呂智’さんのご研究・紹介、すばらしいですぅぅ、ありがたいこってすぅぅぅ・・・

 

「弥生時代末期に存在した大国、邪馬台国を研究しています。

畿内説・九州説・出雲説など、いろいろな説がありますが、いずれも決定打がありません。 なにが問題なのか・・・?

当ホームページでは、超大国出現の基本である農業の視点から調査を進め、交易品の鉱工業や、商業活動にも着目して、邪馬台国の場所を特定しました。・・・

農業の視点

 畿内説・九州説・出雲説・・・色々な説がありますが、いずれの説も、これまでは農業の視点が欠落していました。現代のように、日本全国どこでも水田稲作が出来て当たり前と、論者達は、思い込んでいるようです。弥生時代末期の日本列島は、湿地帯・淡水湖・密林地帯がほとんどで、水田稲作が出来る場所は限られていた事を、まずは認識しなければなりません。

そして、その時代に超大国が出現するには、それに見合うだけの農業生産の必要がある事を、大前提にすべきでしょう。

   畿内説 → 淡水湖や湿地帯だらけで農耕地が少ない。

     九州説 → 筑紫平野は密林地帯で、三日月湖跡しか農耕できない。

     出雲説 → そもそも平地が少ない。

という風に農業生産の視点から見ると、弥生時代末期に超大国になる要素はありません。

そこで私は、魏志倭人伝から場所を特定するのではなく、弥生時代末期に大国となるための条件を考察しました。 

大国出現には必然性があります。食料(農業生産)と、働く場所(農耕地)がなければ超大国は生まれません。そんな当たり前なことを調査して行くと、ある場所が弥生時代末期の有力な超大国だった事が分かりました。

その大国は、偶然にも魏志倭人伝の場所と一致していました。・・・・

邪馬台国の都は、現在の福井県福井市を中心とした平野です。勢力範囲は、北陸地方から山陰地方、九州北部にまで及んでいました。

弥生時代末期、この平野一帯が、日本で最も農業生産が優れていました。

弥生時代中期までは淡水湖だったこの一帯が、弥生時代末期には、水稲栽培に最適な土地となったからです。驚くほど平坦で、極端に水はけの悪い沖積層から成っており、こまごまとを作る必要のない大規模水田稲作が可能な土地でした。

必然的に、爆発的に人口が増え、邪馬台国の基盤が出来上がりました。・・・・

 邪馬台国の勢力範囲

 

狗奴国・・・ただし、冬場の悪天候という日本海側ゆえの欠点がありました。

そのため、常に近畿地方への南下を目論んでいました。その当時の近畿地方は、『狗奴国』です。『邪馬台国』と『狗奴国』が常に対立していたのは、魏志倭人伝にも書かれている通りです。

卑弥呼が世を去ってから250年後の五世紀末、ついに邪馬台国は狗奴国を征服しました。これが、第二十六代天皇の継体天皇です。ヤマト朝廷という名前は、ヤマタイ勢力が支配した朝廷という事です。

・・・・

邪馬台国は、日本の古文書には全く記されていない事になっています。しかし、古事記にヒントが隠されていました。『やまたのおろち』。八俣遠呂智は、年に一回、出雲の収穫期に現れます。

     さて、どこから現れるでしょう?

     弥生時代末期の農業大国を調査していましたら、高志(越前)が浮かび上がりました。

     意外過ぎる場所で、ここが邪馬台国だとは思いませんでした。さらに、翡翠の加工場や、鉄器の出土、継体天皇の出現など、越前に非常に興味を惹かれました。

     とどめは、記紀のヤマタノオロチ伝説でした。古事記に「高志之八俣」(越のヤマタ)とあり、越前が邪馬台国だと確信しました。

」  https://www.xhimiko.com/ 八俣遠呂智

 

継体天皇といえば、あの小林惠子女史の著書では、エフタルがどうのこうのと・・・

「第1部 西アジア系遊牧民エフタル(継体朝)の到来(継体朝に投影している新羅にわたったスサノオ 中央アジアのオアシス都市亀茲から来た加羅国王 ほか)・・・第3部 列島・半島を支配した継体の子供たち(百済王・聖王は欽明天皇だった 欽明・宣化、三国で覇をきそう ほか) 第4部 空白の倭国(倭国に侵攻した新羅・真興王 敏達は百済の地に追われた ほか)」

継体 小林 エフタル  https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E7%B6%99%E4%BD%93%20%E5%B0%8F%E6%9E%97%20%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%BF%E3%83%AB

おっとっとっとぉぉ、『継体朝とサーサーン朝ペルシア』(現代思潮社 2012)、連休中、図書館から借りてて、積ん読になっとったですかぁぁ・・・

「新羅王・智証は継体天皇だった」(p. 62)とありますかぁぁ・・・この小林女史の、もうちょい簡単になったの教科書にしたらいいねぇぇ・・・

 

邪馬台  https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/s/%E9%82%AA%E9%A6%AC

欽明    https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/s/%E6%AC%BD%E6%98%8E


邪馬台国は熊本だった・・・ かきk・・

2018-09-05 11:18:03 | わかってみたいな、日本古代史

なるほぉぉぉ、そぉぉかぁぁぁ・・・そぉだったのかぁぁ・・・

邪馬台国は、少なくともある一時期まで、熊本にあったんでんしょうね、そして東遷し畿内へと。

で、狗奴国は鹿児島かぁぁ・・・・

「狗古智卑狗は、狗奴国の「官」です。狗奴国の男王=卑弥弓呼の下で、邪馬台国との戦いの前線に立っていたと考えられています。その狗古智卑狗が、菊池彦を連想させ、将来の肥後国菊池郡と関連づけられるというのです。しかし、狗古智卑狗が当時どのように発音されていたかは不明ですし(本稿では便宜上、「くこちひく」としています)、菊池彦がどこかにいて何か事績を残したなどということは、伝承の一つも伝わっておりません(私の知るところでは、ですが)。また、菊池郡の名称があらわれるのは律令制下ですから、7世紀以降です。鞠智城(きくちじょう)が築かれたと考えられるのも、その頃です。つまり、3世紀当時、熊本平野に「きくち」「くくち」につながる国や人が存在したと考えるのは、あまりに都合のよい解釈といえるのです

https://ameblo.jp/yamatai-nihongi/entry-12297680640.html

邪馬台国 熊本  https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%20%E7%86%8A%E6%9C%AC

 

「大宰府天満宮に伝わる国宝、唐の類書、翰苑は「女王国の南の狗奴国は、自ら 太伯の後であると謂った。

曽於の地、旧隼人町に鎮座する大隅国一宮、鹿児島神宮には太伯が祀られる。

前項の「草部吉見神の考証。」において、阿蘇外域、草部吉見神社の由緒が阿蘇祖神、草部吉見神が「筑紫」を鎮護していたと述べる。筑紫の古義とは九州島の総称。古代の或る時代、阿蘇に在った草部吉見神は九州全域をその領域としていたとする伝承があった。

また、諏訪の系譜において草部吉見命が、国譲り神話の建御名方命の後とされ、建御雷命が九州北部域の勢力と重なることで、国譲り神話が韓半島に拘わる勢力と、九州中南の狗人勢力との覇権抗争を投影している可能性があった。

そして、狗奴国が九州中南の狗人勢力であったとすれば、3世紀の邪馬台国と狗奴国の抗争が、国譲り神話における建御雷命と建御名方命の争いに投影されたともみえる。

https://blog.goo.ne.jp/araki-sennen/e/fab018722aca1fa149d432a0ec552f52

翰苑  狗奴国 太伯  https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E7%BF%B0%E8%8B%91%20%20%E7%8B%97%E5%A5%B4%E5%9B%BD%20%E5%A4%AA%E4%BC%AF

「武田氏の論考では、―「クマソ」とは南九州の中でも古日向(宮崎・鹿児島)領域の人びとで、実はそこに魏志倭人伝に言う「狗奴国」があり、その狗奴国は大陸に同時代(三国志の時代)に存在した呉国との繋がりを濃厚に持っており、呉が北方の魏に敗れたあと、王族である孫氏が南九州に亡命し狗奴国内に亡命王権を樹立した。
 南九州にニニギノミコトがいわゆる「天孫降臨」し、南九州日向で「皇孫三代」そして「神武東征」へという一般的に「天孫降臨神話」「日向神話」という形で記紀にまとめられたのだが、その中で「天孫」「皇孫」というふうに「孫」という言葉を使用しているのは、呉の王族「孫氏」が南九州に渡って来て王権を樹立したことを暗示しているのである―というものである。

http://kamodoku.dee.cc/getureikai-26-7.html

卑弥呼が公孫氏だとすれば、その不和・攻撃もむべなるかな・・・なぁんてね。

卑弥呼 公孫  https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC%20%E5%85%AC%E5%AD%AB

 

秦王国なんかも阿蘇山から見える地域・豊前・豊後・とよの国に位置してたんでしょうね。そして東遷していったんだと。

「 この「秦王国」とは何かについては多くの説があるが、大宝元(702)年に編集きれた正倉院文書の「豊前国戸籍」を見ると、仲浄郡(現行橋市)の村落の人口404人のうち、秦部姓と勝姓の者が377人もいる。勝も秦部の同族であり金属加工を業としているから、ここが「秦王国」であったと考えるのが最も自然であろう。」

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=273313

「宇佐神宮とウガヤ王朝との密接な関係

つまり、宇佐神宮の歴史は、日本の古い神様と外国の神様との、「ご神体争奪戦」の歴史でもあったのです。

」  https://ugaya.jimdo.com/2013/07/19/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB%E3%81%A7%E3%81%99/

ユダヤ系と原始キリスト教系(プラス景教系)の対立だったりしてな??!!

 


国際関係の教科書 『決定版 邪馬台国の全解決』にしたら?!

2018-06-12 09:19:20 | わかってみたいな、日本古代史

国際関係論の基本教科書として、『決定版 邪馬台国の全解決』が読まれたらいいなぁぁぁ・・・

なんてね、と、思ったんでした。

『決定版 邪馬台国の全解決』 (孫栄健 言視舎 2018)

https://www.amazon.co.jp/dp/4865651144/

日本@名無史さん 2018/03/09(金) 22:07:20.23>>32
「旧版邪馬台国の全解決」:倭人伝の地理記事が対象
「魏志倭人伝の一構想」  :倭国の社会風俗記事が対象
「決定版邪馬台国の全解決」:上記2書+政治交渉記事が対象」

この政治交渉だよなぁぁ・・・・今日も言えてるんでしょうねぇぇ。倭人は過去2000年近く、やられちゃってるんですかぁぁねぇぇ・・・とかなんとかいって、この書がいう、難升米はスサノオとなるのかな??

と、ネットで探れば?? 

「4.「難升米」とは ・・・・

この一文は、従来架空の人物と思われていた饒速日命が実在の人物であること、およびその一族が卑弥呼の使者であったことを証明しました。そのことは日本古代史の進展に少しはお役にたつものと確信しています。
 振り返れば、学生時代に三輪山に登った思い出から私の「饒速日命」研究が始まりました。そして饒速日命のうしろ姿を追いかけているうちに、いつのまにか邪馬臺国に迷い込んでいました。饒速日命の一族が魏への使者として旅立つ姿も見ることとなりました。
 古代史に興味がなかった私がここまでのめりこんだのは三輪山の神霊が私を導いたのだと思います。三輪山に登り安眠を妨げた無礼のおわびの証にこの一文を「大物主命」の御魂に捧げます。

 なお、この一文は平成24年に青垣出版から発行された「論考邪馬台国&ヤマト王権(卑弥呼の使者は尾張氏の祖先)」を修正・加筆したものです。・・・・

」   http://p.booklog.jp/book/112878/page/3068666

難升米 大伴氏  https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E9%9B%A3%E5%8D%87%E7%B1%B3%20%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%B0%8F

そういうものなのかも・・・・・

いかにこの記録を残すことが大切かということですよねぇぇ、そして伝わってるということですよねぇ・・・・日本原住民氏子孫々末代に至るまで、真相はどうであったのかと・・・・


日本列島海没???

2011-08-29 09:47:49 | 占星、巨人、予知夢/予言、オカルト

日本列島沈没は、あるのか???


   なぬっ?! 東日本震災の被害地名が、映画「日本沈没」(2006、原作・小松左京(1931-2011))に出てたってぇぇぇぇ・??
     http://www.youtube.com/watch?v=-n8VrfqrRj4


とすれば、列島海没が起これば、それは、一連の、人工地震、環境兵器によるもの???

   地震兵器
     http://melma.com/backnumber_190273_5191182
   

それにしても、前にも、モルモン泉掲示板に、飛鳥昭雄氏の著書『邪馬台国の謎と逆転日本列島』関連、投稿しまして、その時、トンデモ説でしかないという、コメント・投稿ありんしたが、なんちゅうか、たまWEBのメンタル辞書には、”トンデモ”という概念が、存在しないというか、ものすごぉぉい情報だと感じるほうなもんであしからず・・・・んで、コピーし忘れたので、ここにまた・・・・

いやはや、そういった回転説の情報源は、飛鳥氏、アメリカ筋から、得てるわけなんですよね・・・・・それが、軍事目的に利用され、列島をつないでる様な所に仕掛けられる??・・・・


「大嘗祭・・・・必ず2つの「主基殿」と「悠紀殿」という社殿が建てられ、天皇は同日に両方の社殿で全く同じ儀式を行います。これは西日本(主基)と、東日本(悠紀)が全く別の島国だっとことに由来しており・・・・」

    http://ameblo.jp/ginka999/entry-10757605068.html

「長野県安曇野という地名がありますが、これは現在、日本の屋根、標高3000メートル級のアルプスのど真ん中です。それにも関わらず古代海人族の安曇族に由来した名前が残り、付近は一体が海であった伝承が多く残ります。」

    http://ascensionnote.blog.shinobi.jp/Page/7/

    ”逆転日本列島”
    http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E2%80%9D%E9%80%86%E8%BB%A2%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%97%E5%B3%B6%E2%80%9D&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt


    その本では、北海道も、フィリピン付近から、北上して来たんだったか・・・・そういえば、、言語学者の村山七郎(1908-95)の説だと、アイヌ語は、南島語族(マレー・ポリネシア語族)に属するんでしたんね・・・・

    アイヌ語  村山七郎
    http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E8%AA%9E%E3%80%80%E3%80%80%E6%9D%91%E5%B1%B1%E4%B8%83%E9%83%8E&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=


「日本列島回転」については、99年に、こちらの掲示板にちらっと出てますな・・・

     http://garyo.or.tv/michi/bdlog3/keiyaku.htm

 

たまWEBのオカルト趣味だと・・・・掲示板に書いてましたん・・・・

『パート・PART22です    。WEB---- - 2009/11/13 14:00  

・・・・・略

<<<  日本沈没予言???>>>

あすかあきお氏の日本列島回転説・・・本州は、フォッサ・マグナで二つが回転してぶつかり合って形成された・・・それが太古の昔ではなく、魏志倭人伝(三世紀末)が書かれた後って言ってるんですよねぇぇ、不思議な気が・・・・青森県のあたりは、江戸時代、北に在っても南部藩っていうことは、公知の秘密だった??なんちゃって・・・・

   http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1R2ADFA_jaJP346&num=100&q=%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E6%98%AD%E9%9B%84%E3%80%80%E3%80%80%E5%88%97%E5%B3%B6%E3%80%80%E3%80%80%E5%9B%9E%E8%BB%A2&lr=&aq=f&oq=  

亀石が西向くと、奈良盆地、泥沼化って・・・・
  
   http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1R2ADFA_jaJP346&num=100&q=%E2%80%9D%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9B%86%E5%9C%B0%E2%80%9D%E3%80%80%E3%80%80%E8%A5%BF%E3%80%80%E3%80%80%E4%BA%80%E7%9F%B3%E3%80%80&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=&aq=f&oq=  

中国に伝わる、讖緯(しんい)書(予言の書)のひとつ、『推背図』では、”金烏隠匿白洋中”って・・・・・

  http://blog.goo.ne.jp/servan/e/231c864db53f17b245bd4e7fc8f802d3

以下、グーグル検索でみつけた某巨大掲示板よりのコピペ。

「中国に古くから伝わる推背図にも日本水没が予言されていることは述べたとおり。
これまでの歴史をことごとく的中させてきた。ノストラダムスなんか目じゃない。
清朝時代の写本にその後の歴史が語られていることから、でっち上げでもなさそうだ。
これでは、日本には3つの小さな島しか残らないという。
さらに興味深いことも書かれている。
日本の皇室を辰王家とよんでいるんだ。

辰王家とは、古代朝鮮半島の三国時代(高句麗・新羅・百済)の少し前にあった、辰韓の王家のこと。
別名は秦韓。
辰韓(秦韓)は、韓国(朝鮮)人の国ではなかった。始皇帝で有名な秦の末裔が朝鮮半島に逃れて建国したようだ。
一説には、秦の役(万里の長城建設)を逃れた人が大勢移住したとも・・・・
秦は、漢民族の国ではなかった。西域の異民族がシルクロードをへて中国西部に建国したとされる。始皇帝は碧眼で、
身長が2mもあったとの記録もあり。秦はユダヤ人の国というトンデモ説もある。
シルクロードは、別名ユダヤ人の道とよばれていた・・・・

秦氏の本拠地は京都の太秦(うずまさ)。大秦(ローマ)と太秦は同義語だ。
秦氏が太秦に建てた広隆寺は、元来は仏教の寺ではなかったと記録されている。
さらに、すぐ近くには大酒神社がある。秦氏の神社だ。大酒は、昔は「大避」と書かれていた。
大酒神社に行けば、そのように説明書きもある。ご丁寧なことだ。(実際に行って来たよ)
実は、大避とは中国語でダビデ王のことだ。(大避は旧字体もあるがフォントの関係で表記できない。
「だいびゃく」と読む。意味は同じくダビデ。)
つまり、秦氏の本拠地、太秦(うずまさ:ローマ)の大避神社はダビデ神社という意味だ。
・・・・・・
先に行こう。
推背図の異写本が何を述べているかというと、
日本が水没するときに辰王家が古の志を取り戻し、西に戻るという内容だったのだ!
日本の隠された過去が明らかになるとさ。

  http://blogs.yahoo.co.jp/shirojp_kashiwa/archive/2008/12/16  

大闢、大避、大酒・・・から連想すると、大関、大崎、大迫等の姓は、このダビデの末裔、秦氏の一族から来るのかも・・・・先祖の傍系に16世紀ころ、大崎氏に嫁に行ったという記録がありんす・・・

肝心の大阪が、抜けてましたんね・・・

推背図の全図像および漢詩は・・・・

    http://tbt.firedale.com/
    たまWEB的には、第五十一象が、福千年の始まりを意味するかもと・・・
   
「日本消滅と中台統一を予言する中国古代の予言書「推背図」」???

    http://uranai.blog.bbiq.jp/blog/2011/07/post-78dd.html

おそらく、日本民族の大方は、中国東北部、満州やモンゴルに移動となるのかな??? 北海道は、残るのか???