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アウトドアライフの記録

四季それぞれに あちこちの山に登ったり、桜や紅葉の写真、および南の島の記録を写真とともに整理して、ブログにまとめました。

歴史トレイル 高安山から信貴山へ 2014年6月26日 その3

2014-07-14 22:31:47 | 歴史遺産を訪ね歩く
その3 信貴山朝護孫子寺から駐車場への帰路と歩いた記録のまとめ
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今度は急坂をジグザグに登り続ける。なかなかタフな山道だが、ところどころにお地蔵さんがいて 見守ってくれているようだ。

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上り続けて ようやく「ケーブル駅分岐」地点まで戻れた。やれやれだ。

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高安山気象観測レーダーに出た。

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このレーダー横の空き地が「高安城跡」らしい。説明看板があった。

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この立体交差している下の道が、下の駅(信貴山口)への下山ルートらしい。ケーブルの時間は40分に一本なので場合によっては この道を下ろう。

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駅に着くと、あと10分で発車だ。このケーブルに乗ることにする。片道550円だ。

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ケーブルカーが待っていた。信貴山朝護孫子寺はいたるところにトラの置物があったが、電車にもトラの絵が描いてある。

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朝護孫子寺は聖徳太子が物部の守屋との戦の戦勝を祈願してこの山でお祈りすると、毘沙門天が現れて必勝法を授けたという。それで「この山を貴ぶべし、信ずるべし」とおっしゃったので、信貴山と名づけられたと説明看板に書いてある。更に毘沙門天が現れた時が、寅年、寅の日、寅の刻というのでこの寺にはたくさんの張子の虎があるというわけだ。

まあ厩戸皇子が実際に戦勝祈願したかどうか、そんな寺はほかにも八尾市の大聖勝軍寺などにもいわれはあるし、後から作られた聖徳太子創造伝説のひとつだろう。

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乗り込んでしばらくすると発車した。

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時々八尾の街並みが見えるがほとんどは森の中だ。

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駅について振り返ると、山の上は真っ黒な雲に覆われていた。急いで歩き出す。

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駐車場につくと、山の上の黒雲が どんどん迫ってきて、あっという間に雨が降り出した。すばやく着替えて ホームセンターで買い物をして車に積み込むと同時に 土砂降りの雨になった。

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歩いた記録。

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高度と距離の記録。登った高さは700mを超えていて、歩いた距離は12kmだった。

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歴史トレイル 高安山から信貴山へ 2014年6月26日 その2

2014-07-12 21:50:08 | 歴史遺産を訪ね歩く
その2 高安城倉庫跡から信貴山朝護孫子寺へ
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さらにどんどん進むと半分腐ったベンチがあるがさらに下る。

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分岐を左へ進む。標識によると右は「信貴山門前町」と書いてある。目的地、信貴山は近いのだ。

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今度は一転して登りとなる。道はよく整備されている。

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すぐに広い道と合流するので右の登り道を進む。

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「信貴山城」という旗がたくさん立っている。山頂は近いと思える。

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ここが山頂の城跡らしい。城主の松永久秀が信長に半期を翻したため、攻め滅ぼされてから、廃城となったと書いてある。

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さらに上へ道が続くので上ってみる。

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山頂には 空鉢堂と呼ばれるお社があり、竜神が祀られていた。この神さんは時々巳(みい)さんの姿(へび)でお姿を現すことがあると書いてある。
これは古代出雲王国の龍蛇神信仰の名残だ。

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展望台もあり、案内書では金剛岩湧の峰もよく見えると書いてあるが、残念ながら天気はよいのに 霞がひどく何も見えない。

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次に今回の目的地「信貴山朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)に参拝すべく、急坂をジグザグにどんどん下りていく。

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降りていくと 突然 多宝塔に出た。

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更に坂道を降りながら周りを見ると たくさんの建物が見える。とても大きなお寺だ。

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突然大きな声で けんかをしているような怒鳴り声が聞こえた。読経のようだ。初めて聞いたが恐ろしい大声の読経だ。「朝護孫子寺」と額に書いてある。

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さらに道を降りていく。とても広い境内だ。

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周りの木々の間からたくさんの建物が見えている。

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帰り道を常に確認しながらさらに進む。迷路のようだ。

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宿坊もあるが

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それも一坊や二坊ではなく たくさんあるようだ。

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あまり深入りすると迷いそうなくらい広い境内だ。

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まだまだ建物はあるが、ここらあたりで引き返すことにした。本当は門前の土産物屋街まで行きたかったのだが、迷路のようで 帰り道が心配になってきた。

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その3へ続く
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歴史トレイル 高安山から信貴山へ 2014年6月26日 その1

2014-07-10 23:28:44 | 歴史遺産を訪ね歩く
その1 近鉄電車服部川駅から高安城倉庫跡まで
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白村江の戦いで唐と新羅連合軍に大敗した天智天皇は、唐の来週を恐れ各地に山城を築かせた。そのひとつが高安山である。

また信貴山朝護孫子寺は聖徳太子が物部の守屋との戦勝祈願したお寺であるとされていて有名だ。(未だに聖徳太子は架空の人物だとの説が有力だが)

大阪府八尾市ま近鉄電車服部川駅から高安山へ上り、そのまま信貴山へ歩き、お参りして、高安山に戻り そこからケーブルカーで下山した。

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この登山案内地図のように、近鉄服部川駅をスタートしたかったのだが、駅の近くには駐車場がなく、遠くのホームセンターに止めて歩き出した。

※ちなみに帰りにこのホームセンターで庭の玉砂利と鉢植えのハイビーを合計約2000円購入しました。

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ホームセンターから歩いていくと畑の真ん中に駅が見えてきた。

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この駅をスタートする。

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正面に生駒信貴の山並みを見ながら住宅街の中を歩いていく。かなり急な登り道だ。

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標識が整備されているので安心して歩ける。

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ここでようやく山道へ入る。歩き出して一時間だ。

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右へ分岐して山道へ入る。「イノブタに注意」と書いてあるがイノブタとはなんだろう。普通の山にいるのは猪なんだが、生駒山系には豚もいるのだろうか。

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急な山道をひたすら登る。「イノブタ」なるものに出会えるのが楽しみだ。イノシシやツキノワグマにはよくお会いしているのだが。

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三十分ほど山道を登ると、休憩所の標識が出てきたのでそちらへ。

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森の中に小さな東屋がある。残念ながら回りはまったく見えないが、せっかくなので小休止する。

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山道を歩きながらよく見ると、石垣があちこちに積んであるのがわかった。
古くから使われてきた生活の道かもしれない。

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突然道路に出た。「信貴生駒スカイライン」と標識に書いてある。仕方ないのでそのまま道路を歩く。

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すぐに大きな看板があった。ここを入るべきところ案内標識がないのでしばらく道路を歩いたが、どうもおかしい。登山地図には道路を歩くようには書いてないので、先ほどの看板のところまで引き返した。

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大きな宗教看板のところから分岐して横道に入るとすぐにゲートがあった。案内標識もなにもなく、どうしようか迷ったが横をすり抜けた。

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しばらく歩くと右から山道が突き上げてきて、合流した。ここに案内標識が立っていた。これではわかりづらい。私が上ってきた山道は八尾市の立てた案内標識どおりに歩いてきたので、せめて先ほどの道路際の宗教看板の場所にも 案内標識が要ると思う。

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分岐を右へ進む。ここには ちゃんと案内標識があり、助かる。

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宗教施設の中を歩く。何か異様な雰囲気だが 進まないとしようがない。

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突き当りを左へ歩く。ここを右へ進むと帰路に予定しているケーブルカーの駅がある。

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今度は山道をどんどん下りだした。帰りが心配なほどどんどん下る。

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道路を越えてまだどんどん下る。

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案内標識があり、ここは高安城倉庫跡らしい。大きな基礎石が九つほど並んでいる。

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その先にも倉庫跡があった。こちらは眺めがよく ナニワ平野が見渡せるが、残念ながら霞んでいてほとんど何も見えない。

高安城およびその倉庫は天智天皇が作らせたらしい。中大兄皇子のころ、百済が唐新羅の連合軍に攻められて滅亡寸前になり、和国に助けを求めてきた。百済救済のため出兵するも、白村江の戦いで和国は敗退し、その後 唐の来襲を恐れた天智が 各地に山城を作らせたひとつが、高安城ということだ。

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その2へ続く
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古代出雲王朝と神話ゆかりの地を訪ねて 22-2大国主の出雲大社

2014-04-05 23:06:57 | 歴史遺産を訪ね歩く

そしていよいよ遷宮も完了した大国主の出雲大社へ

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出雲大社宮司の家。注連縄も大きくて立派だ。

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この方は穂日の子孫である。穂日とは徐福(素戔嗚)の家来で、徐福の来日に前もって出雲王朝へ挨拶に来て、徐福上陸の許可を得たという。そしてそのまま出雲王朝で働いていたと言う。

徐福来日後、大国主と事代主が相次いで出雲市の日本海側の稲目洞窟と米子市の粟島の志津の岩屋に幽閉されて殺害されたが、直接二人に手を下したのが穂日とされている。

その功績により、大和に誕生した大和朝廷により、「出雲国造」にしてもらい現在に至るという。


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出雲大社横の神楽殿前庭に翻る日の丸の旗も神楽殿の注連縄もともに日本一の大きさだと、観光案内の女性が声を張り上げていた。

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神楽殿正面の日本一の大注連縄。

古代出雲王朝を否定し続けてきた、梅原先生が「わしはまちがっておった、すまんのお」と謝った雑誌の表紙もこの建物の前と思われる。



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こちらは拝殿の正面。この注連縄も大きい。正面の白い幕の内側はすべてお賽銭を投げ入れるスペースで、覗くと百円硬貨に混じって沢山の千円札、五千円札、が見えてなかには一万円札もちらほらあった。

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本殿は遠目にしか見えないが、もちろん大社造だ。

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八足門から覗くとちょうど、なにか撤餞の行事が行われていた。

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ちょうど本殿の裏手から本殿を見たところ。この建物の左手前の部分で大国主が右手(日の沈む西の方角)を向いて祀られているという。

本殿は遷宮も済ませたが、その裏手ではまだまだ外溝工事 が行われていた。

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古代出雲王朝と神話ゆかりの地を尋ねて その21京都八坂神社

2014-03-27 09:38:27 | 歴史遺産を訪ね歩く
古代出雲王朝とゆかりの地を尋ねて

その21.京都八坂神社にあの出雲王家の血を引く宗像三姉妹が祀られていた 2014年2月2日

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祇園祭りで有名な「京都八坂神社」は「八坂さん」と呼ばれて 観光名所で有名だ。

その主祭神 は記紀に「素戔嗚すさのお」と書かれた、つまり秦国人徐福である。

しかもご丁寧に 神仏混合で 素戔嗚の背持仏とされた朝鮮半島の牛頭天皇

(ごずてんのう)まで祀ってある。

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菅之八耳で始まる古代出雲王朝は 主王と副王の二人の王により、治められていた。しかし紀元前2世紀末、第八代主王八千矛(やちほこ記紀では大国主)、副王八重波津身(やえなみつみ)の時代に 秦国から二度にわたり大量の少年少女(海童)たちをひきつれてやってきた 徐福(記紀では素戔嗚すさのお)たちにほぼ同時に拉致され餓死させられて、大きな打撃を受けた。

徐福の子孫たちにより、大和で幾たびか 王朝が入れ替わり今に続く大和朝廷が成立した。

また第六代主王臣津野(おみつぬ)の皇子 吾田片隅(あたかたす)の九州移住により、宗像家が始まりひの三人の娘姫たちが、田心姫(たごりひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)、多岐津姫(たぎつひめ)の「宗像三姉妹」である。

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その八坂さんの裏手に 宗像三姉妹が祀ってあったのでびっくりした。

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祇園祭は八坂さんの主な祭りで、約一月間続く。御池通りを行く山矛巡行の先頭

は薙刀矛。         ※2011年7月17日の写真

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お稚児さんが先頭を行く。

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カラフルなタペストリーを飾った山や矛が続く。タペストリーは数百年たつものもあるという。

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新町通りをはじめ 京都中心部の路地や大通りは矛の組み立て場となり、出店も多く 観光客が溢れている。

この祇園祭の山矛巡行は梅雨末期で雨の日や曇り空が多いが、この写真は2011年7月17日の晴れの日の写真である。

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2014年2月2日の節分行事の八坂さんに 毎年のように沢山の観光客が訪れた。

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境内の舞殿では踊りの奉納を見ようと沢山の観光客が待っている。

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神社本殿にはもちろん素戔嗚が祀られている。 境内の裏手にも素戔嗚の「荒御霊あらみたま」が祀られているが 訪れる人はほとんどいない。

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その横に「美御前社(うつくしごぜんしゃ)」があり、宗像三姉妹が祀られている。

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ここは「美の神様」という売りになっていて、若い女性や舞妓さんたちに人気があるらしく、次から次へと女性たちがお参りしている。人が多くてなかなか写真を撮れないくらいだ。

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人の流れが途絶えた瞬間だ。この直前までマナーの悪い支那人どもの観光客が大勢でしかも大声でわめきながらこの神社を占領していた。

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宗像三姉妹について

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古代出雲王朝第六代主王(役職名は大名持おおなもち)の臣津野

(おみつぬ)には 二人の皇子がいた。

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一人は「佐和気」でこの方から西出雲王家の神門臣家(かんどおみけ)が始まる。
もう一人が「吾田片隅(あたかたす)」でこの方が九州に移住して宗像家を造った。

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北九州で宗像家をはじめた吾田片隅には三人の姫がいて 「田心姫(たごりひめ)」、「市杵島姫(いちきしまひめ)」、そして「多岐津姫(たぎつひめ)」である。

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田心姫は出雲王家第七代主王の「天の冬衣」に嫁がれて、皇子の
八重波津身(やえなみつみ)ー「後の第八代副王(役職名は少彦)となる方で
記紀では 言代主(ことしろぬし)と書かれた」と 姫の「高照姫」を生まれた。

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秦の始皇帝の命で 和国に不老不死の薬を求めてやってきた秦国人の
徐福は記紀ではスサノオと書かれた。彼は石見(島根県西部)の五十猛
海岸に上陸して、「火明(ほあかり)」と名乗る。

そして出雲王家の「高照姫」と結婚し 長男「五十猛」(いそたけ)をもうける。
五十猛は丹波に移住しその息子「天の村雲」が大和へ移住し初代大和大王となる。

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また一度 秦国へ帰国した徐福は、秦の始皇帝から追加の資金と多数の
技術者、青年男女(海童と呼ばれる)をもらい、今度は筑後平野に上陸し
饒速日(にぎはやひ)」と名乗る。

そして宗像三姉妹の市杵島姫と結婚し、穂穂出見(ほほでみ)をもうけ、穂穂出見が
九州物部家を起こすのである。物部家の子孫たちは二度にわたり大和へ移住し
幾度か入れ替わるものの最終的に今の大和朝廷が成立した。

※記紀では百年以上経た二度にわたる大和への移動を架空の大王を作り上げて
「神武天皇東征」と一度に縮めて表記した。

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多岐津姫は 出雲王家第八代主王の八千矛(記紀では大国主と書かれた)
に嫁ぎ、皇子の「味鋤高彦」を生まれた。

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つまり徐福(スサノオ)は、宗像三姉妹のうち、長女の田心姫の生んだ
高照姫と結婚して 長男の五十猛をもうけ、次女の市杵島姫と結婚し
次男の 穂穂出見をもうけるのである。

しかも 長男の五十猛は 多岐津姫の孫の大屋姫と結婚し「高倉下
(たかくらじ)」をつくるのだから、徐福は宗像三姉妹のお三方とも
関係するのである。

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ということで、宗像三姉妹は 徐福(スサノオ)の娘では決してないのである。
また安芸の厳島神社の主祭神である三柱の女神「宗像三姉妹」は、いずれも出雲王朝
第六代大名持(主王)臣津野の孫娘なのである。古代出雲王朝の地を政党に引き継ぐ
姫君たちであり、けっして秦国からの渡来人、支那人後など引いていないのである。

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市杵島姫は二度目に来日した 徐福(二度目の来日では和名を饒速日にぎはやひー
記紀ではスサノオ)に嫁ぎ、生んだ穂穂出見が物部家を創り、その後の大和政権
の元となったのである。結果的に徐福は、出雲王朝の血統を利用しながら、大和の
大王になるのだ。
また市杵島姫(いちきしま)から いつくしま(厳島)の
名前が出来たという。

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※斎木雲州著 大元出版 「出雲と大和のあけぼの」、「古事記の編集室」、「出雲と蘇我王

国」、「御伽噺とそのモデル」そのほかを参考にした。

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古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて 厳島神社神社

2013-06-28 23:36:28 | 歴史遺産を訪ね歩く
宗像三姉妹を祀る安芸の宮島厳島神社
以前訪れた広島県廿日市市宮島の「厳島神社」を再編集してみた。

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安芸の宮島を尋ねたのは、2009年11月21日で 「紅葉を尋ねる旅」だった。

神社の由来、縁起を読み 大変驚いたのを今でもはっきりと覚えている。

「この神社の主祭神は スサノオの三人娘の田心姫(たごりひめ)、

市杵島姫(いちきしまひめ)、多岐津姫(たぎつひめ)である。」

と書かれていたからである。

記紀にスサノオと書かれた 秦国人の徐福に 三人娘がいたなんて

今まで聞いたことがないからである。その後ずーっと心に引っかかっていた。

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この三人の姫方は 宗像三姉妹として有名な姫君たちである。

それがよりによって スサノオの娘だなんて。

記紀の出鱈目ぶりにも 程がある。


後で述べるが、この三姉妹は 古代出雲王朝ゆかりの方々なのである。


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フェリーが宮島に近づくと、大きな鳥居が海の中に見える。

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海から眺めた 厳島神社

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宮島には 鹿もいて、神の使いとされている。

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海に浮かぶ神社

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神社の本殿

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海に突き出した回廊が続く。

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この日はたまたま 「七五三のお祓い」も行われていた。

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朱塗りの部分だけではなく、渋い色の建屋もある。

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海上ステージのように張り出した回廊を沢山の観光客が行き来する。

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太鼓橋も海に架かっている。

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神社の全景。

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回廊から建屋の隙間に鳥居も見える。

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この日は夕方に 引き潮が来て、沢山の人が裸足で海の中を歩いていた。

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※ 「紅葉尋ねて 2009年」はここから入れます。

http://yochanh.blog.ocn.ne.jp/momiji2009/

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  「三柱の姫君とは」

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古代出雲王朝第六代主王(役職名は大名持おおなもち)の臣津野

(おみつぬ)には 二人の皇子がいた。

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一人は「佐和気」

    この方から西出雲王家の神門臣家(かんどおみけ)が始まる。

もう一人が「吾田片隅(あたかたす)」

    この方が九州に移住して宗像家を造った。

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吾田片隅には三人の姫がいて 「田心姫(たごりひめ)」、「市杵島姫

(いちきしまひめ)」、そして「多岐津姫(たぎつひめ)」である。

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田心姫は出雲王家第七代主王の「天の冬衣」に嫁がれて、皇子の

「八重波津身(やえはつみ)ー後の第八代副王(役職名は少彦)となる方で

記紀では 言代主と書かれた」と 姫の「高照姫」を生まれた。

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秦の始皇帝の命で 和国に不老不死の薬を求めてやってきた秦国人の

徐福は記紀ではスサノオと書かれた。彼は石見(島根県西部)の五十猛

海岸に上陸して、「火明(ほあかり)」と名乗る。

そして出雲王家の「高照姫」と結婚し 長男「五十猛」(いそたけ)をもうける。

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そして一度 秦国へ帰国した徐福は、秦の始皇帝から追加の資金と多数の

技術者、青年男女(海童と呼ばれる)をもらい、今度は筑後平野に上陸し

饒速日(にぎはやひ)」と名乗る。

そして市杵島姫と結婚し、穂穂出見(ほほでみ)をもうけ、穂穂出見が

九州物部家を起こすのである。


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多岐津姫は 出雲王家第八代主王の八千矛(記紀では大国主と書かれた)

に嫁ぎ、皇子の「味鋤高彦」を生まれた。

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つまり徐福(スサノオ)は、宗像三姉妹のうち、長女の田心姫の生んだ

高照姫と結婚して 長男の五十猛をもうけ、次女の市杵島姫と結婚し

次男の 穂穂出見をもうけるのである。

しかも 長男の五十猛は 多岐津姫の孫の大屋姫と結婚し「高倉下

(たかくらじ)」をつくるのだから、徐福は宗像三姉妹のお三方とも

関係するのである。


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ということで、宗像三姉妹は 徐福(スサノオ)の娘では決してないのである。

つまり厳島神社の主祭神の三柱の女神は、いずれも出雲王朝第六代

大名持(主王)の孫娘なのである。

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市杵島姫は二度目の来日した 徐福(饒速日にぎはやひー記紀では

スサノオ)に嫁ぎ、生んだ穂穂出見が物部家を創り、その後の大和政権

の元となったのである。市杵島姫(いちきしま)から いつくしま(厳島)の

名前が出来たという。

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物部イニエ大王と豊王国豊玉姫トヨタマヒメ(ヒミコ)の連合王国軍は

イニエ大王亡き後、246年に 第二次 物部東征を開始した。

その途中 安芸の埃の宮(えのみや)で病没した豊玉姫(ヒミコ)の遺体は

宮島に仮安置され、その後宇佐神宮二ノ御殿に祀られたという。

東征は イニエ大王の長男 イクメ王が指揮をとり、河内に上陸後

生駒山での戦闘膠着の後、イクメ王は大和入りし、大和の大王となった。

イクメ王が長期間とどまった山中を「イコマ(イクメ)山」と呼ばれる

ようになったとか。  

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※ 以上は斎木雲州著 「古事記の編集室」、「出雲と大和のあけぼの」、「出雲と  蘇我王国」、「お伽話とそのモデル」 いずれも 大元出版  による。

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古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて 大神山神社

2013-06-26 16:19:32 | 歴史遺産を訪ね歩く
大己貴命(おほなむちのみこと)大国主を祀る大神山神社
新緑の大山に登った後、大神山神社にお参りした。

大山は、その昔大神山(おおかみやま)と呼ばれ、古代出雲王朝時代には

その信仰対象の「クナト大神」の住まわる山ー神名火山(出雲国風土記では

こういう表記だが一般的には神奈 備山)として、崇められて来た。

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紀元前2世紀末に秦国から不老不死の薬を求めてやってきた徐福(記紀では

スサノオと書かれた)一味に 誘い出されて 出雲の猪目洞窟に幽閉され

殺された古代出雲王朝第八代主王(大名持オオナモチ)八千矛はその祟りを

恐れられて 出雲や大和山城地方のあちこちで祀られた。

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八千矛は記紀では「大国主の命」と書かれたが、古代出雲王朝の主王は

役職名として 「大名持おおなもち」であるが、転記間違いなどで「大己貴命」

とか、「大穴持」とか書かれた。

一方同時期に米子市の粟島洞窟に幽閉されて殺された副王(役職名は少彦

もしくは少名彦)の八重波津身は記紀では言代主と書かれた。

大国主が俗に言う「大黒さん」で 言代主が 「恵比寿さん」である。

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以上は 斎木雲州著 「出雲と大和のあけぼの」、「出雲と大和のあけぼの」、
    「出雲と蘇我王国」、「お伽話とそのモデル」いずれも大元出版 による。

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徐福の子孫の 物部家が九州から大和に入り 先に政権を打ち立てていた

同じく徐福の出雲の子孫 海部家を打ち倒して 大和政権を打ち立てた頃

から 大国主が大和のあちこちで祀られたのではないだろうか。

大山に居ます神が クナト大神から大国主に変ったのもこの頃では

ないだろうか。

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神社参道入り口の鳥居、ここで参道が右の大山寺参道と分岐する。

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参道に敷き詰められた石。

この道は「日本一長い自然石の道」と説明書きがある。

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参道の途中にも何箇所か(二箇所と記憶する)鳥居がある。

新緑の匂いにむせながら ゆっくりと参道を歩く。

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神門に到着。この手前に手水がある。

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石段を登っていくと、神社本殿がある。

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この神社はお参りの人が絶えない。

真冬でも必ず何人かお参りの人に出会う。

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神社の由来書。

古代伊豆も王朝の大王を御祭りしているので、御神徳は全てに渡る。

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同じく大国主を主祭神としている 「出雲大社」より当然こちらの方が古い。

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猪目洞窟と粟島岩屋 大国主と言代主が相次いで徐福らに幽閉されて殺された洞窟 2013年3月14日15日

2013-03-23 22:52:20 | 歴史遺産を訪ね歩く
古代出雲王朝では、主王(オオナモチ大穴持)、副王(少彦または少名彦)の二人の王で 治められていた。

古代出雲王朝八代目オオナモチ(大穴持ー主王)の八千矛(記紀では大国主命と書かれた 俗に言う大黒様)と、八代目スクナヒコ(少彦ー副王)の八重波都身(記紀では言代主と書かれ 俗に言う恵比寿さん)の二人は相前後して、シナからの渡来人 徐福らに 言葉巧みに誘い出され 拉致され幽閉されて 命を絶たれた。紀元前3世紀末のことである。

当時のシナ大陸秦国から沢山の 秦国人(海童と呼ばれた若者や先進技術を持った職人たち)を連れてやってきた、徐福は 記紀では素戔嗚と書かれ、和名をホアカリとかニギハヤヒと名乗った。

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徐福の家来の穂日(ホヒ)は、事前に徐福の出雲上陸の許可を

八千矛(大国主)から取り付けて、そのまま出雲王国で働いていたらしい。

穂日に言葉巧みに誘い出された大国主は 出雲の「園の長浜」で

行方不明となった。

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結局大国主は日本海に面した 猪目洞窟に幽閉され命を絶たれたという。

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猪目の海 岩場が続く。

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猪目集落

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道路標識

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洞窟案内標識

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道路から洞窟を見る

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洞窟入り口

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洞窟から海を見る。東の方角を向いている。

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出雲国風土記に書かれた「黄泉の穴」

大国主(第八代出雲王の八千矛)が幽閉され、命を絶たれたこの洞窟は
あの世へと続くと、信じられていた。
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一方 大国主異変の知らせを早船で言代主に知らせるべく

美保の沼川姫屋敷に滞在していた 言代主へ 穂日の息子「タケヒナドリ」が 
知らせに行き 言代主も誘い出されて そのまま行方不明となった。 

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言代主(第八代出雲副王ー少名彦八重波都身)は王の海(中海)を西へ向かったまま行方不明となったという。

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その時の早船の知らせの様子を今に伝える

美保神社「諸手舟(モロタブネ)神事」

詳しくはこちら http://yochanh.blog.ocn.ne.jp/kodaiizumo/2010/10/post_bd19.html

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残雪の大山と粟島

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粟島は今は田圃の中だが、古来中海の中の小島だった。

江戸中期の干拓で 周りが田圃になったという。

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神社参道。正面の小山の上に社がある。

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石段を登る。186段あるそうだ。

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門を潜ると境内だ。

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本殿はもちろん大社造だ。

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本殿裏手に「出雲大社遥拝所」がある。

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遥拝所には「大注連縄」が架けてある。

古代出雲族が信仰した「龍蛇神」のようだ。

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粟島の裏手には、中海が広がり 水鳥公園がある。

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中海への階段を下りる。

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洞窟がある。志都の岩屋だ。

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少し離れて中海から粟島と洞窟を見る。

今たっている場所はもともと海だったのだ。

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大汝(おおなむちー正式には大穴持と書き出雲王朝の主王をさす役職名でここでは第八代の 大国主の命を言う)も少彦名(少彦 もしくは少名彦の間違いと思われるー出雲王朝の副王をさし、ここでは第八代の言代主をいう)も二人とも 洞窟、岩屋に閉じ込められたことを言っていると思われる。

記紀で大国主と書かれたのは、第八代オオナモチ八千矛で、記紀に言代主と書かれたのは
第八代少彦の八重波都身だ。



※斎木雲州著 大元出版 「出雲とやまとのあけぼの」より



伯耆の国風土記には 「少彦の命(八重波都身つまり言代主俗に言う恵比寿さん)
は粟の穂にはじかれてあの世へ旅立たれた。それが粟島」と書かれている。

万葉集の頃までは、大国主も言代主も 岩屋で殺されたことが

まだ人々の記憶にあったのだろう。

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古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて その5 松江市熊野大社と嵩山布自伎美神社

2013-02-25 21:39:42 | 歴史遺産を訪ね歩く
素戔嗚と彼の息子を祀る神社
松江市 八雲町 熊野大社

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出雲の国 一ノ宮(一番権威ある神社)と言われる 熊野大社へ出かけた。

秦国からの渡来人で 古代出雲王朝で暴れた徐福はその子孫たちが、海部(あまべ)
王朝を打ち立てたり、九州物部家を打ちたて、2度に渡る大和への東征で大和政権を打ち立てて、日本史に大きな影響を与えた。

というより、その後の日本史そのものである。記紀では徐福のことを素戔嗚(すさのお)
と書かれて、京都の八坂神社など 出雲地方以外にたくさん祀られている。

その素戔嗚を祀っている神社である。

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熊野大社大鳥居とそれに続く参道。



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大社前に流れる意宇川に架かる橋を渡る。



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隋神門の注連縄も立派だ。奥に本殿が見える。



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本殿の大注連縄は、参拝者を圧倒する大きさだ。

出雲大社の注連縄といい勝負だ。さすが一宮と自負するだけはある。



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鑽火殿は「火継ぎ式神事」を行う場所だとか。

出雲国造が新任のたびにここを訪れるのがしきたりだそうだ。



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加持祈祷をする、ハンサムな神官。



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熊野大社の言われの説明書き。

やはり祭神は「素戔嗚(スサノオ)」だ。



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3世紀末に秦国から渡来した徐福は、事前に部下の穂日(ホヒ)を

出雲王国に遣わして、徐福の上陸許可を得るという周到な準備を

したという。

その後徐福と穂日および穂日の息子タケヒナドリたちは、謀をして

出雲王国第八代の主王(オオナモチ)の八千矛(記紀では大国主と

書かれた)や副王(少彦)の八重波津身(記紀では言代主と書かれた)

を誘い出して、別々に幽閉し殺したという。(伯耆国風土記による)

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徐福の息子五十猛は香語山と名前を替え、海部(アマベ)家となり、

母違いの次男 穂穂出見(ホホデミ)は九州物部家となり、その子孫が

東征して大和入りして大和王朝を打ち立てた。約150年の間をおいた

前後2回の物部の大和への移動を記紀では神武東征の神話

に作り変えられた。

徐福の忠実な部下だった穂日の子孫は、出雲の臣を名乗り

藤原不比等に取り入って、702年出雲臣果安は晴れて出雲国造となる。

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考えてみれば、穂日の子孫が 後々までも彼らの親分を

祀ってある熊野大社に 事あるごとに挨拶に訪れるのは

極めて当たり前のことなのだ。

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※資料は斎木雲州著作 「出雲と大和のあけぼの」

               「古事記の編集室」

               いずれも大元出版     

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とていうことで、熊野大社の帰りにお隣の「ほっとランドやくも」の

温泉に入ってから 帰った。

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松江市 嵩山山頂 布自伎美神社(ふじきみじんじゃ)

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松江で生活している時に、時間があればいつも嵩山に登る。

標高330mで30分ほどで登れて、散歩にちょうどいい。

山で知り合いの方もできた。

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松江市内から嵩山を見ると、涅槃佛に見えるそうだ。また旧制松江高校

の学生たちは、娘さんが寝ている姿に見えて メッチェン山と呼んだそうだ。



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嵩山山頂から雪に覆われた大山と米子市街。



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同じく山頂から大根島を望む。



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山頂から夕日に輝く松江市街。



いずれも2013年2月14日。

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嵩山山頂 布自伎美神社(ふじきみじんじゃ)



2012年1月28日

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ところがこの祭神が気になって調べてみたら 

都留支日子命(つるぎひこのみこと)となっていて、この方は

なんと、素戔嗚の息子だというから驚きだ。

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石見の五十猛海岸に上陸した徐福(素戔嗚)は 倭名を火明(ほあかり)

と名乗り、出雲王家からお嫁さんをもらう。第7代オオナモチ(主王)

天之冬衣と宗像三姉妹の一人田心姫との間に生まれた高照姫だ。

ホアカリと高照姫の間に生まれた息子が五十猛で後に丹波の国に

移住して 香語山(かごやま のちに香具山と書かれた)と名を替えた

息子である。

ちなみに香語山の息子がアメノムラクモで、大和葛城に移住して

初代大和大王になった人だ。

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つまり今まで何年間も 散歩していた嵩山山頂に徐福の息子

五十猛(いそたけ)が祀られていたなんて、驚きであった。

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古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて その4 大和葛城南部へ移住した西出雲王家の人々

2013-02-23 22:39:08 | 歴史遺産を訪ね歩く
葛城南部の神社 1.高鴨神社

 アジスキタカヒコの建てた神社

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参道の入り口


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鳥居を潜るときれいな「宮池」がある。




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池の上に舞台も復旧された。


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大きな御神木


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石段を登ると拝殿の奥に本殿が見える。





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祭神の説明





アジスキタカヒコ  もちろんこの社を建てた本人でオオクニヌシの息子

            母親は九州豊王国宗像三姉妹の多岐津姫 

コトシロヌシ     オオクニヌシが主王の時の副王で通称恵比寿さん

             この人も徐福一味に殺された。

シタテル姫     オオクニヌシとヤガミ姫(因幡の白兎神話に出てくる)

            の間に生まれた姫でアジスキタカヒコの母違いの妹

天の雅彦アメノワカヒコ  下照姫の旦那さん

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葛城南部の神社  2.御歳神社

         この社もアジスキタカヒコたち 西出雲王家

         神門臣家(かんどのおみけ)の人たちで建てられた。

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境内には明日行われる「湯たて神事」のために

青竹で竈が作られていた。



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ひっそりとした境内。



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拝殿から本殿を望む。



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本殿周りは明日の湯立て神事のためにきれいに整備されていた。



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祭神の説明には、「歳神」とともに「高照姫」が祀ってある。

高照姫は出雲王国第七代大名持「天の冬衣」と宇佐の宗像三姉妹の

田心姫との間に生まれた言代主の妹で、徐福に嫁いだ姫である。



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境内の末社には、言代主やこの神社を建てたアジスキタカヒコ、彼の

母違いの妹姫「シタテル姫」のだんなさんの天のワカ彦、それに

ワカヒルメムチが祀られている。ワカヒルメムチは宇佐の豊王国の

トヨタマヒメ(卑弥呼)の娘豊姫(台与)で、桜井市の桧原神社で月神を

祀っていたのだが、なぜここに祀られているのだろう。

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境内の参集殿に張ってあった 「湯立て神事」の写真。

一日違いで 明日2月11日に行われるという。残念。



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葛城南部の神社  3.高天彦神社

         西出雲王家と敵対していた渡来系の神社

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杉の木の並ぶ参道を行く



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この手水鉢の左を行く道が、金剛登山口(高天道)だ。

今日も沢山の車が停まっている。



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ひっそりとした境内。



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祭神の説明書きによると、アメノオシホにチヂヒメが嫁ぎ

ニニギノミコトが天から降臨したと書いてある。



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徐福の父親は徐猛といい、記紀では押穂根(オシホネ)とかかれて、母親は

千千姫(チヂヒメ)と書かれている。徐福は一回目の上陸は出雲王国の石見国

五十猛海岸で、倭名を火明(ホアカリ)と名乗ったが、二回目の来日の時は

九州筑後川河口に上陸し、ニギハヤヒとかニニギネと名乗った。

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つまりこの神社は徐福の両親を祀っていると思われる。

つまり西出雲王家の人たちが移り住んだこの地に、後世に徐福長男五十猛の子孫

海部家の「天の村雲」一族の人たちが立てた神社らしいのが分かる。

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天上界を暴れまわった素戔嗚(徐福)は天上界高天原を追放され(出雲王国内で徐福が
秦国から連れてきた海童達が暴れまわった事を記紀にはこう記された)
出雲の鳥上山(船通山)に降りてきたと記紀には書いてあり、この地が「高天原」
だとする説明は意味が分からない。

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