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アウトドアライフの記録

四季それぞれに あちこちの山に登ったり、桜や紅葉の写真、および南の島の記録を写真とともに整理して、ブログにまとめました。

古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて その3 大和葛城中部へ移住した東出雲王家の人々

2013-02-21 13:51:47 | 歴史遺産を訪ね歩く
葛城中部 その1.鴨都波神社(かもつはじんじゃ)

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葛城地方の中部 名柄付近には東出雲王家向家の人々が移住してきた。

徐福たちに殺された 第八代副王 八重波津身(言代主)の息子

奇日方(くしひかた)を中心とする 東出雲王家の向家の王族達だ。

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鴨都波神社の参道。近鉄御所駅に近い。



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鴨都波神社境内。入れ替わりでお祈りする人が絶えない。



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鴨都波神社拝殿。この奥に本殿がある。



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神社の説明書き。



八重言代主とあるのは、八重波津身(やえはつみ)のことで所謂言代主

(ことしろぬし)つまり恵比寿さんだ。息子の奇日方(くしひかた)がこの地に

移住してきて父親を祀った。

もうひとり下照姫とあるのは、言代主が副王の時の主王(オオナモチと呼ばれた)
八千矛(俗に言う大国主で大黒さんとも呼ばれる)の娘さんだ。

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境内にはこのほか「猿田彦」も祀られていた。

猿田彦は古代出雲で信仰が厚かった神で 元はインドの

ガネーシャと言われる。サルタとは南インドのドラビダ語で

「鼻が長い」という意味だとか。



この地の西に「猿女」という地名があるが、代々の女性が「猿田彦」を

祀る家系が猿女家といわれ、それが地名になったという。

※ちなみに 猿女には「葛城経塚二十八宿第二十三番猿女経塚」がある。

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葛城中部 その2.一言主神社

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この神社も言代主の家族が建てたといわれる。

長い参道の奥に石段があり、神社はその上だ。



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本殿とその額





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神社の説明文。もちろん祭神は一言主つまり言代主。
第八代の古代出雲王朝少彦(副王)は八重波津身だが
記紀製作時に「言代主コトシロヌシ」と名前が変えられたという。
その後一言主(いちごんさん)とも呼ばれるようになったが、
俗に言う恵比寿さんだ。恵比寿さんの住んでいた屋敷が
島根県松江市の美保神社になっていて、全国のえびす神社の
総本社だ。



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境内にある 有名なお乳が出るという「乳銀杏」は現在治療中だ。
寄る年波で、老化が進み、かなり重症らしい。



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葛城地方その3 葛木山山頂 葛木神社
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現在の金剛山や大和葛城山と呼ばれる山塊は昔は「葛木の嶺」と
呼ばれていた。ちなみに 金剛山という山は無く、大日岳、葛木岳、涌出岳
を総称して金剛山と呼ばれている。葛木神社はその山頂にある。
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葛木神社の参道 (2013年2月19日撮影)



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参道を登ると神社がある。


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神社の拝殿



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その奥に本殿がある。
そのつくりはもちろん出雲大社と同じ妻入りの「大社造」だ。


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拝殿から本殿を望む。


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神社の説明文。祭神はもちろん「一言主」で「一言恵比寿」とも呼ばれている。



この神社も コトシロヌシ(言代主ー恵比寿さん)の息子
クシヒカタ(奇日方)を中心とする 東出雲王朝 向家の人々が建てたのだろう。
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古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて その2 大和葛城北部へ移住した渡来系海部家 

2013-02-18 22:23:59 | 歴史遺産を訪ね歩く

葛城北部には渡来系の海部(あまべ)家の人たちが、丹波の国から 遅れて移住してきた。 しかしその移住者の数の多さから 葛城地方の中心的存在になり、 先住の出雲族と政治共同体をつくり、天の村雲(海部家あまべけ)が 大和の初代大王となり 大和の海部王朝が始まる。

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葛木坐火雷神社(かつらぎにいます ひといかずちじんじゃ) 通称笛吹神社

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鳥居の前になにやらたくさんの人が集まっている。



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奈良大学通信学部の学生さん達だとか。 今日は野外勉強会であちこち回ってきたらしい。



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石段を登ると社がある。



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この建物は拝殿だ。



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この奥に本殿がある。



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神社の説明文は大正二年にかかれていて、読みづらい。



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この神社を作ったのは丹波の国から移住してきた徐福の子孫 海部家の「天の村雲」で大和の初代大王になった人だ。 祭神に書かれている「天の香語山」とは「天の村雲」の父で 徐福の息子 五十猛(いそたけ)のことだ。のちに香語山は 香具山と書かれるようになる。 また「火と雷のミコト」とは、タタラ(製鉄)の神のことだ。

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次は葛城中部 鴨都波神社

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古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて 大和葛城地方へ移住した出雲王家の人々 その1

2013-02-18 09:59:49 | 歴史遺産を訪ね歩く
島根県松江市で育った私は、子供の頃から出雲神話を聞かされて育ってきた。

周りには沢山の古代出雲王朝に関する遺構があり、最近では出雲大社横に

「古代出雲王朝博物館」も出来て沢山の遺物が陳列、説明してある。

私の他のブログでも「古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて」で写真を

整理してアップしている。

現在の自宅大阪府河内長野市の近くの、金剛葛城紀泉の峰峰をつなぐ

ハイキングコース「ダイヤモンドトレイル」のすぐ東側、大和葛城地方

にも古代出雲王朝ゆかりの神社が沢山あるので それらを訪ね歩いた。

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紀元前5世紀に 初代の王「菅の八つ耳」(すがのやつみみ)で始まる、

日本最古の出雲王朝は 主王(大名持オオナモチ)と副王(少彦スクナヒコ)

という二人の王で構成され、越の国から丹波、周防、四国まで領土とする

大帝国で繁栄していた。

ところが 紀元前3世紀末に大事件が起きる。徐福の来日である。

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秦の始皇帝の命で、東方に不老不死の薬を探しに出かけ出雲の五十猛海岸

に上陸したのである。事前に部下の穂日(ホヒ)を8代目オオナモチの八千矛

に遣わして上陸の許可を得るという周到な準備がなされた。

大勢の秦国人の技術者を連れてやってきた徐福は、出雲地方でかなり

暴れたらしい。

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手を焼いたオオナモチ八千矛は徐福を出雲王国領の丹波国に住む許可

を与えたという。日本名を火明ホアカリと名乗った徐福は東出雲王家向家

の高照姫を嫁にしたが、出雲王家を乗っ取る下心があったのか、徐福、ホヒ

たちに依り、オオナモチ八千矛は死に追いやられた。続いて少彦(副王)

の八重波津身(ヤエハツミ)も死に追いやられた。

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徐福は記紀では素戔嗚スサノオと書かれた。

またオオナモチ八千矛は大国主オオクニヌシと書かれ、少彦の

八重波津身は 言代主コトシロヌシと書かれた(のちに一言主ヒトコトヌシ

ともいわれた)。大国主が俗に言う 大黒様で言代主が俗に言う

恵比寿さんである。そして大黒様は出雲大社に祀られた。

また 言代主を祀る全国恵比寿神社の総本社美保神社(松江市美保関町)

では、今でもその大事件を題材にした 「青芝垣神事」や「もろた舟神事」

が継承されている。

※このブログでも「もろた舟神事」を紹介しています。

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コトシロヌシの息子の鳥鳴海トリナルミが第9代のオオナモチに立ち

「後期出雲王朝」がスタートするが、秦国人達との共存を嫌った出雲族は

次々に出雲の地を去る。

コトシロヌシの奥方沼川姫ヌナカワヒメは息子の建御名方タテミナカタ

を連れて故郷の越の国へ帰る。その後タテミナカタは諏訪に移り信濃の

開発に功績があり、諏訪大社に祀られて 諏訪地方の守り神になった。

※しかし記紀では出雲王朝を無かった事にし、神話の世界に閉じ込めた。

しかもタテミナカタも 弱くて負けた者として書くために、国譲りの舞台から

逃げ出して諏訪に閉じ込められた  と書かれた。

歴史の勝者は 勿論渡来系の徐福の子孫達 ひいても物部族とそれに取り入って
勢力を伸ばした藤原不比等とその末裔藤原家である。

 ※諏訪大社の写真は別のページで後日ご紹介します。

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古代出雲王朝系図

※斉木雲州著 「出雲と大和のあけぼの」 大元出版より

 これを見ると徐福一味の子孫 海部家や物部家も、繰り返し出雲王家の
 女性との結婚を繰り返し、出雲王家神門の臣家や向家の血を濃くしてきたのが分かる。




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大和葛城地方の移住地図

葛城北部 渡来系徐福の子孫 丹波国から来た海部家

       「天の村雲」が初代大和大王となる。

       葛木坐火雷神社(かつらぎにいますひのいかずちじんじゃ)

       通称笛吹神社

葛城中部 東出雲王家の向家(むかいけ)

       言代主の息子 奇日方(くしひかた)

       鴨都波神社、一言主神社 

葛城南部 西出雲王家の神門臣家(かんどおみけ)

       大国主の息子アジスキタカヒコ

       鴨都波神社、葛木御歳神社 





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弥生時代の出雲では 神はカモと発音されたらしい。

それゆえ、葛城地方に移住した出雲王家の人たちは

神家(かもけ)と呼ばれて、のちに鴨の字が当てられるようになった。

高鴨神社は上鴨神社、鴨都波神社は下鴨神社

御歳神社は中鴨神社ともいう。

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次は 葛城北部 丹波の国からの渡来系海部家の神社

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西日本で盛んに切り倒される御神木

2012-12-03 21:49:00 | 歴史遺産を訪ね歩く
先日NHKニュースで、面白いニュースを流していた。最近西日本各地の寺、神社の境内の御神木が次々に切られて売られているというニュースだ。

御神木などの境内大木が 葉の大部分が枯れたように見える様になる事件が次々に起こっているらしい。そうすると決まって木材業者が「このままでは枝が落ちたりして、参拝者が非常に危険なので、木を伐採するからぜひ売ってください」と言いに来るらしい。

そこで仕方なく数百万円で売却の契約を結ぶ。四国九州近畿などで次々に境内の大木が伐採されて売られているというニュースだった。

しかしある寺の住職が、不審に思い伐採直前によく調べると、大木の足元に直径10ミリ前後の穴がいくつかあいていて、警察に調べてもらうと高濃度の除草剤が検出されたとのこと。その小さな穴は、木の表面から4センチ程度で止まっていて、その部分は根から幹全体への水分の通路だとか。そこへ除草剤などの薬物などを注入すると 木の全体に薬が回り一時的に木が枯れたように見えるらしい。

日本全国の神社仏閣の修理に必要な大木は、もう一般の山林や森ではほとんど取れないのだそうだ。林野庁の愚策で 森をどんどん伐採し 杉ヒノキの植林を作り続けたせいだ。和泉葛城山でも貴重なブナの原生林が今も伐採され続けている。

そこで社寺建築に必要な木材が 非常な高値で取引されているらしい。そんな木材市況が背景にあって、そんな詐欺まがいのことが横行していると言うニュースであった。

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「境内の大木が枯れそうで、非常に危険だと 木材業者に伐採してもらい 倒した木を売却した」なんか聞いたことのある話なので、私がよく行く大阪府河内長野市の岩湧寺に行ってみた。5年ほど前に境内の大木が枯れかけて 枝が落ちたら登山者や参拝者が危険なのでその大木を伐採し売ったのだ。

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岩湧駐車場から「古の道(いにしえのみち)」を登っていくと
行者の滝が見えてくる。



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寺はいつも静かだ。今日は境内で尺八を吹く人がいる。


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問題の大木の切り株の皮を剥ぎ取ってみた。



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直径10ミリほどのドリルで開けたような穴が見つかった。
穴の深さは4センチほどだ。やっぱりなあ。


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私財を投げ打って世界遺産を守り人々

2012-06-19 14:40:08 | 歴史遺産を訪ね歩く
今まで5年余りも、「世界文化遺産大峯奥駆道」を歩いてきて、何箇所かは道が崩れたり(明星が岳南側)、突然なくなったり(地蔵岳東直下)したところはありましたが、おおむね楽しく、かつ気持ちよく歩けました。

「さすがは千年以上の歴史のある伝統の道、長い間かかってきちんとつくられてきたのだなあ」などと、のんきな事を考えながら歩いていました。

ところがそれが大間違いだったことが、南奥駆を歩き出してから、次第に分かるようになりました。

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一心に祈りを奉げる前田翁。持経の宿の写真より。
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修験道根本道場のひとつである、京都聖護院葉衣会の故前田勇一翁

が、南奥駆の荒廃した様子に心を痛め 「奥駆葉衣会」を結成し、私財を

なげうって「持経宿山小屋」を建設したのは今から30年以上前です。

その持経宿山小屋を拠点に、道の整備が奥駆葉衣会の前田翁を中心

として始められました。



当時の南奥駆道は、一面の熊笹や雑木に覆われ、とても歩けるような状態で

はなかったのを、奥駆葉衣会全員で、笹刈りや階段付けを根気

良く続けた結果、南奥駆道は次第に整備されました。


しかし前田翁は不治の病にかかり、入退院を繰り返されました。

前田翁は自分亡き後の南奥駆道の整備を引き継ぐように、当時親交のあった

「新宮山彦ぐるーぷ」の玉岡会長に、病室から毎日のように手紙で切々と訴えられた

ということです。 

翁の意思を引き継いだ「新宮やまびこグループ」の玉岡会長はじめグループ

の血のにじむような努力で 「平治宿山小屋」 続いて 「行仙宿山小

屋」が建設され、南奥駆道も、道として次第に整備されてきました。



(※以上の話は、先日行仙宿山小屋で偶然お会いした「新宮山彦グループ」の方に、
直接お聞きしたお話です。)

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世界に誇る 「世界文化遺産、紀伊山地の霊場と参詣道」も国の文化を担当し

ている部署(文部科学省だと思うけど)とか、地方の行政とかではなくて、

こういう人々が私財を投じて守っているとは、なんという文化貧困国家なのか。

はたまた見方を変えれば、こういうすばらしい人々がいるとは、

なんというすばらしい文化国家なのか。
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先日ここの小屋の前を通って、雨の奥駆を 笠捨て山から地蔵岳まで往復した

帰り道、この小屋から一人の女性が出てこられました。

お話を聞くと「下の林道に停めた車から、建設工事用の砂利を運んでいるとこ

ろです。もうあと一回でお終いにします」とおっしゃいました。

やがてご主人がこられ、詳しくお話を聞く事ができました。

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持経の宿山小屋と平治の宿山小屋

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前田翁の意思を引き継ぎ、南奥駆の整備を引き継いだものの、道は熊笹と

雑木に覆われて、とても何処が道か分からない状態で、グループ全員で 

それこそ来る日も来る日も、道作りに明け暮れたそうです。

聖護院葉衣会、奥駆葉衣会 ともに高齢化が進み いまや有名無実。

「山彦グループも 玉岡会長が今年85歳、この先どうなることでしょうか」

と寂しく笑ってらっしゃいました。

それでも最近は「自分の都合のよい時だけでもお手伝いします」という方も、何人か現れ

て 一緒に道作りをしているそうです。あの前財務大臣「塩爺」も以前から

砂利を運びに来られて、一緒に山小屋で宴会をされたそうです。


私にも「どうですか、たまには砂利を運んだり、笹刈りをしにいらっしゃいませ

んか?」とおっしゃいましたが、私は返答に困り

「普段は家の近くの 岩湧山の登山道の整備をしているので、なかなか時間

がとられなくて」 と言おうとしましたが、彼らのやってきた事と比べると

問題にならないくらいちっぽけな事だと思い、とても言い出せませんでした。


「次回、奥駆道でお会いしたときには、ぜひ砂利を運ばせていただきます」

と言って その場を後にしました。

※その後、私のできる範囲で 「奥駈道の標識の整備、危険箇所でのロープの設置、
道の枝払い」など、わずかずつですが、続けています。


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「私財を投げ打って世界遺産を守る人々」

「世界遺産大峰奥駈道を歩く」

などへは、ここから入れます。


http://www17.ocn.ne.jp/~hase-you/okugake/index.htmlーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

歴史の波に消え行く「葛城経塚二十八宿」 2012年6月10日

2012-06-10 11:58:09 | 歴史遺産を訪ね歩く
葛城経塚二十八宿と言う言葉を御存知だろうか。

金剛紀泉の山々に、修験者たちが「法華経二十八巻」を 1巻ずつ埋めて、世の平和を祈り それぞれを合計28箇所の行場とした。

修験者たちは、山伏の服装で「懺悔懺悔、六根清浄」と唱えながら、峰々を歩き、各経塚にお参り、巡礼する。「峰入り」と呼ばれる修験道の修行で、今でも全国のあちこちで行われている。

つまり葛城経塚二十八宿は 千年以上続く文化遺産でもある。

私は4年前に28箇所の経塚巡礼を終えて以来、ダイトレの尾根道にある経塚の何箇所かをよく歩くが、経塚を訪れる人もほとんど無く、年毎に寂れる一方である。

そこで経塚への案内標識を整備して、少しでも多くの人に経塚に興味を持ってもらおうと、「葛城経塚再訪」をスタートした。

経塚への道の整備中にたまたま、「世界の巡礼道」を専門に調査されている先生と出合ったり、私の取り付けた経塚への案内標識を見ながら歩いてこられた方と出合ったり、経塚を訪ねた後 感謝のメールを頂いたりした。

しかし、そういう方はごくわずかで 4年前に比べ、ますます寂れているなあと強く感じる場所が多い。一部の「交通便利」な場所の経塚は、地元の方の清掃草刈できれいに維持されているが、不便な山奥の経塚は、訪れる人も無く、ますます荒れようとしていた。

一方世界文化遺産の「大嶺奥駈道」の「七十五靡き」と呼ばれる
75箇所の行場を持つ巡礼道も、あちこちで綻んでいる。

胎臓界奥駈道と呼ばれる 「太古の辻」以南の南奥駈では、行場どころか道さえも荒れ果てていき、ボランティアグループ(新宮山彦ぐるーぷ)の私財を投げ打った活動でなんとか、道も行場も維持されている。

葛城経塚も、いずれ歴史の波に消え行く運命かもしれない。

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葛城起用塚は金剛紀泉の峰々にある。




第一番は友が島の虎島序品窟に始まる。



そして山塊が落ち込む大和川の「亀の瀬」で終わる。


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世界遺産「大嶺奥駈道」は全行程183キロの中に
75箇所の「靡き」と呼ばれる行場がある。




第33番靡き「二つ岩」 前鬼小仲坊から2時間上った辺りにある。




第40番靡き「釈迦が岳」(1800m)
この3メートル近いお釈迦様を背負って運び上げた強力さんは凄い。



第45番靡き「七面山」は奥駈の尾根道から谷を挟んだ西側の「七面尾根」にある。
このあたり踏み跡も無く、前後左右の景色が同じで迷いやすく、熊も多い。
今年こそ奥駈との往来ルートを見つけるぞ。



第67番靡き山上ヶ岳の大峰山寺。このあたりは年中人が多い。


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ブログ「葛城経塚二十八宿再訪」はこちらです。
http://www17.ocn.ne.jp/~hase-you/kyozuka2/kyozuka2index.html



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大嶺奥駈道はじめ「修験道の道を歩く」はこちらです。
http://yochanh.sakura.ne.jp/okugake/index.html
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