古代出雲王家の血を引く方々の 古代史舞台を九州南部に尋ねました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日向の国
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
都萬神社 西都市妻
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
3世紀中ごろ 徐福の子孫九州物部家のイ二エ王が第二次東征を決意される。
このお方は出雲王家第七代大名持ち天の冬衣の皇子吾田片隅が豊国へ移住して始められた宗像家の姫君
市杵島姫と徐福の間の長男 穂穂出見の子孫である。
イ二エ王は築紫から南進し薩摩で阿多津姫を娶られて日向の地に都萬国を打ち立てられた。
阿多津姫はイクメ皇子を生まれてこの地で短命な人生を終えられる。
都萬神社はこの阿多津姫を祀る神社である。記紀では「此花咲くや姫」と書き換えられたこの姫の皇子の
イクメが成長して 東征し 大和の磯城王朝を苦労の末に打ち倒して物部王朝を打ち立てられたのだ。
イクメ大王(贈り名は垂仁)が祀られているイクメ神社はのちほど尋ねる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

まずはじめに訪ねたのが 古代和国の首都 都萬国の都萬神社
西都市の中ほどにこんもりとしたもりがある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

都萬神社境内
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

鳥居を潜って境内へ入る。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

正面に拝殿
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿を横から見たところ。もちろん大社造りではなく、九州物部式だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

都萬の字が「妻」の字に変わってしまった地名もある。交番の入口左の看板は妻になっている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
西都原古墳群 西都市ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
イ二エ王は阿多津姫亡き後、豊王国の豊玉姫を皇后に迎えられて 都萬豊連合王国を打ち立てられて、
第二次東征を宣言される。
第一次東征で東征した物部の子孫の豪族たちも、東寺の大和磯城王家の衰退ぶりと内乱に嫌気を指して
次々に西都原後に集まり始めた。
物部の十千根(魏書にも出てくる 後の出雲王国占領軍司令官)や武内太田根(高倉下の子孫でのちの武内の宿禰。
子孫が平群王朝を創る)
そして朝鮮渡来人ヒボコの子孫 田道間守などである。
当時の和国では大和の磯城王朝、出雲の出雲王朝をしのぎ 和国最大の都市国家となり、着々と東征準備を整えていた矢先
イ二エ王はこの地で病に倒れられる。
その意思を引き継ぎ東征を決行したのが 豊玉姫(魏書に出てくる二人目のヒミコで魏の和国駐在武官
張政から直接和国王を任じられたお方)とイ二エ王の息子イクメ王なのである。
その西都原の豪族たちの古墳が集まるのが王家の丘 西都原古墳群である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

広い台地に沢山の古墳が点在している。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

数が多すぎてすべては見て回れない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

比較的大きい者を見て回ったが説明はいっさい書かれていない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

中に宮内庁の看板がひときわ目立つ場所がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

オサホメサホ塚とかいてある。
わざわざ宮内庁が保護しているのだから、ここが西都原の創始者イ二エ王と阿多津姫のお墓であると直感した。
豊玉姫は東征の途中安芸の宮島で病死されて、宇佐八幡の二ノ宮に祭られていてここにはいらっしゃらない。
また九州から一度も出ずにこの血で病に倒れ 無念の死を遂げられたイ二エ王は記紀では大和の大王に祭り上げられて
ご丁寧に宮内庁により、崇神稜として 天理市にお墓まである。実際は土地の大豪族出雲系の登美家党首の墓なのに。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この古墳群は小高い台地の上にあり、西都の街を見下ろせる場所にあり、まさに王家の丘にふさわしい場所だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

現在の西都の街並。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
小戸神社 宮崎市末広
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日本全国の神社の神職が挙げる祝詞には「築紫の日向 橘の小戸の阿波岐原で禊たまひし
イザナギの大神 。。。。。」となっていていつも不思議に思っていたのは
なぜ築紫の日向なのかということと、小戸へいつかたずねてみたいものだということだった。
徐福が紀元前2世紀末に和国に二度目に上陸したのが築紫なのである。(一度目は石見の国五十猛海岸)
その子孫のイ二エ王が東征すべくまず南進して阿多津姫を娶り、日向の国に都萬国を打ち立てて、
阿多津姫がイクメ皇子を産んで産湯を疲らせたのが 小戸という言い伝えから
「築紫の日向 橘の小戸」というわけの分からん地名の羅列になったらしい。(斎木雲集書 古事記の編集室)
と言うことでぜひ訪ねてみたかった場所である。
もっとも この地だけが直接は出雲王家と関係がないが 出雲王家の血を引く生目皇子が
産湯を浸かった場所と伝えられている場所なのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

小戸神社境内
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
小戸神社拝殿
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

拝殿の内部
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

神社の由緒書き。もともとは海岸にあったけど流されたので現在の地に移設されたのだそうだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
次は 日向のイクメ神社と薩摩の鹿児島神宮へ続く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日向の国
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
都萬神社 西都市妻
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
3世紀中ごろ 徐福の子孫九州物部家のイ二エ王が第二次東征を決意される。
このお方は出雲王家第七代大名持ち天の冬衣の皇子吾田片隅が豊国へ移住して始められた宗像家の姫君
市杵島姫と徐福の間の長男 穂穂出見の子孫である。
イ二エ王は築紫から南進し薩摩で阿多津姫を娶られて日向の地に都萬国を打ち立てられた。
阿多津姫はイクメ皇子を生まれてこの地で短命な人生を終えられる。
都萬神社はこの阿多津姫を祀る神社である。記紀では「此花咲くや姫」と書き換えられたこの姫の皇子の
イクメが成長して 東征し 大和の磯城王朝を苦労の末に打ち倒して物部王朝を打ち立てられたのだ。
イクメ大王(贈り名は垂仁)が祀られているイクメ神社はのちほど尋ねる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

まずはじめに訪ねたのが 古代和国の首都 都萬国の都萬神社
西都市の中ほどにこんもりとしたもりがある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

都萬神社境内
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

鳥居を潜って境内へ入る。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

正面に拝殿
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿を横から見たところ。もちろん大社造りではなく、九州物部式だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

都萬の字が「妻」の字に変わってしまった地名もある。交番の入口左の看板は妻になっている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
西都原古墳群 西都市ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
イ二エ王は阿多津姫亡き後、豊王国の豊玉姫を皇后に迎えられて 都萬豊連合王国を打ち立てられて、
第二次東征を宣言される。
第一次東征で東征した物部の子孫の豪族たちも、東寺の大和磯城王家の衰退ぶりと内乱に嫌気を指して
次々に西都原後に集まり始めた。
物部の十千根(魏書にも出てくる 後の出雲王国占領軍司令官)や武内太田根(高倉下の子孫でのちの武内の宿禰。
子孫が平群王朝を創る)
そして朝鮮渡来人ヒボコの子孫 田道間守などである。
当時の和国では大和の磯城王朝、出雲の出雲王朝をしのぎ 和国最大の都市国家となり、着々と東征準備を整えていた矢先
イ二エ王はこの地で病に倒れられる。
その意思を引き継ぎ東征を決行したのが 豊玉姫(魏書に出てくる二人目のヒミコで魏の和国駐在武官
張政から直接和国王を任じられたお方)とイ二エ王の息子イクメ王なのである。
その西都原の豪族たちの古墳が集まるのが王家の丘 西都原古墳群である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

広い台地に沢山の古墳が点在している。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

数が多すぎてすべては見て回れない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

比較的大きい者を見て回ったが説明はいっさい書かれていない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

中に宮内庁の看板がひときわ目立つ場所がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

オサホメサホ塚とかいてある。
わざわざ宮内庁が保護しているのだから、ここが西都原の創始者イ二エ王と阿多津姫のお墓であると直感した。
豊玉姫は東征の途中安芸の宮島で病死されて、宇佐八幡の二ノ宮に祭られていてここにはいらっしゃらない。
また九州から一度も出ずにこの血で病に倒れ 無念の死を遂げられたイ二エ王は記紀では大和の大王に祭り上げられて
ご丁寧に宮内庁により、崇神稜として 天理市にお墓まである。実際は土地の大豪族出雲系の登美家党首の墓なのに。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この古墳群は小高い台地の上にあり、西都の街を見下ろせる場所にあり、まさに王家の丘にふさわしい場所だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

現在の西都の街並。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
小戸神社 宮崎市末広
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日本全国の神社の神職が挙げる祝詞には「築紫の日向 橘の小戸の阿波岐原で禊たまひし
イザナギの大神 。。。。。」となっていていつも不思議に思っていたのは
なぜ築紫の日向なのかということと、小戸へいつかたずねてみたいものだということだった。
徐福が紀元前2世紀末に和国に二度目に上陸したのが築紫なのである。(一度目は石見の国五十猛海岸)
その子孫のイ二エ王が東征すべくまず南進して阿多津姫を娶り、日向の国に都萬国を打ち立てて、
阿多津姫がイクメ皇子を産んで産湯を疲らせたのが 小戸という言い伝えから
「築紫の日向 橘の小戸」というわけの分からん地名の羅列になったらしい。(斎木雲集書 古事記の編集室)
と言うことでぜひ訪ねてみたかった場所である。
もっとも この地だけが直接は出雲王家と関係がないが 出雲王家の血を引く生目皇子が
産湯を浸かった場所と伝えられている場所なのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

小戸神社境内
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

拝殿の内部
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

神社の由緒書き。もともとは海岸にあったけど流されたので現在の地に移設されたのだそうだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
次は 日向のイクメ神社と薩摩の鹿児島神宮へ続く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー