58.出雲族の移住した葛城地方を尋ねて その1 長柄神社、大倉姫神社、市杵島姫神社 2017年6月6日
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今回は 金剛山塊東側の御所市を尋ねました。御所市とその北側の葛城市をあわせた
葛城地方へ、出雲王家の皇子達が移住して 葛城地方の開発を行いました。
紀元前三世紀末に 石見の国「五十猛海岸」に大勢の海童(青年男女)や
技術者を引き連れて上陸した 秦国人徐福は 事前に部下の穂日(今の出雲大社
宮司の祖先)を出雲王国に遣わして 上陸の許可を取り付けていました。
しかしその上陸後 徐福や穂日は 海童達と共に出雲で大暴れして 第八代主王(役職名は大名持ち)
の八千矛と副王(役職名は少彦)の八重波津身を相次いで幽閉殺害します。
※殺害場所の 猪目洞窟と志都の岩屋訪問記は当ブログ「古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて」
の2013年3月18日の記事に載せています。
出雲王国は大打撃を受けますが、幽閉殺害された八重波津身(記紀では事代主)と鳥耳姫との皇子
鳥鳴海が第9代大名持ちとして即位します。古代出雲王国では 西王家神門臣家と東王家向家とが
交互に主王と副王を立てていました。
八千矛王(記紀では大国主)と宗像三姉妹の真ん中の多岐津姫との皇子、味鋤高彦や、八重波津身と
摂津三島の活玉依り姫との皇子、奇日方たちは 出雲族を引き連れて葛城へ移住します。
今回の葛城地方の神社訪問は 出雲族の建てた大和葛城地域の神社訪問記です。
出雲族の葛城移住に付いては もう少し詳しく「その2」で述べます。
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今回の訪問神社の地図です。
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下照姫について
まず下照姫が祀られている長柄神社と大倉姫神社へ行きます。
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出雲王家の系図と下照姫の位置関係です。
下照姫は 殺された大国主と八上姫との間の皇女です。
矢上姫は因幡の国から 大国主へ嫁がれて今の出雲市斐川町 直江 御井神社あたりに宮殿があったといわれています。
また神社の近くに「生井(いくい)」、「福井(さくい)」、「綱長井(つながい)」と呼ばれる3つの井戸があり、
八上比売が出産の時に産湯を使ったという伝承があります。
元来この3つの井戸に対する信仰が神社に発展したものとも考えられています。
斐川町 直江の少し東、斐川町学頭に 湯の川温泉があり、八上姫が浸かったといわれ美人の湯と呼ばれています。
温泉街の中にも 八上姫神社があります。
大国主の死が出雲族の葛城移住のきっかけとなったので 王の娘の下照姫が あちこちに祀られたのでしょう。
比売許曽神社 大阪市東成区東小橋 売豆紀神社、売布神社(いずれも松江市)、倭文神社(鳥取)
乙見神社(出雲市)、下照姫神社(福岡市博多区祇園) などなどです。
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名柄集落の中を進みます。名柄地区は出雲式銅鐸が発掘された場所でも有名です。
名柄は 金剛山と大和葛城山の間の水越峠を大和平野へ下りた直ぐの所です。
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集落の外れの森が 神社です。
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こじんまりとした神社でした。
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鳥居を潜り境内に進みます。正面が拝殿です。
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拝殿の奥が 本殿ですが、拝殿からは見えません。
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神社の由緒書きですが、正面には立てないので横からしか写せません。
長江(長く続く金剛葛城の尾根)が長柄(急斜面の下の扇状地)になり、「ナガラ」になり、名柄の地名になった
と書いてあります。
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本殿ですが良く見えません。大社造に似せてあります。千木は出雲式の竪削ぎで、妻入りですが柱は9本なのか
4本なのか良く見えません。妻側へ入る階の上の屋根はありますが屋根の形が大社造りとは違います。
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境内には末社がありますが 表示が何も無く誰を祭っているのか分かりませんでした。
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長柄神社は名柄公民館のまん前にありました。
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大倉姫神社
奈良県内の神社を調べていると 「下照姫は別名を大倉姫という」というのが散見されます。
記紀では下照姫を木股比売と言っているので 大倉姫というのは初めて聞きましたが 場所を
調べてみると 比較的近くにあるので バイクで行ってみました。
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近鉄電車吉野線吉野口駅の直ぐ近くでした。
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小さなお社です。
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線路脇の小さな神社で 謂れの説明も看板も何も無く 主祭神 のヒントになるものはありませんでした。
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市杵島姫神社
最初に揚げた出雲王家の系図を見ていただくとお分かりですが 市杵島姫は大和朝廷成立に大きなウエートを
占めています。徐福が 最初に来日して出雲王家の高照姫との間の長男「五十猛」と 二度目の来日で九州の
宗像家(出雲王家の分家)の宗像三姉妹の末娘 市杵島姫との間の 穂屋姫との間の 天の村雲が初代大和大王になり、
市杵島姫の生んだ徐福の次男 穂穂出見こそ九州物部家の祖であります。
物部家の第一次東征で 物部の稲飯と三毛入が 登美家当主、加茂建津之身(物部家からはヤタガラスと感謝された)
の導きで大和入りするも 出雲王家の大和分家の磯城家に飲み込まれてしまいます。
二度目の東征で大和入りした 物部イクメが名実共に大和の大王となりますが 物部王家は3代で消えます。
(イクメー垂仁、オシロワケー景行、ワカタラシー成務 の三代)
つまり市杵島姫は 初代大王の天の村雲にとり、祖母であると同時に 物部イクメ大王の祖先でもあるので
出雲族にも祀られますが それよりも秦族からの支持が多いのです。京都の松尾大社、祇園の八坂神社の主祭神 は
徐福と同時に市杵島姫です。
長柄神社の直ぐ近くに地図で見つけた 市杵島姫神社を訪ねました。
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御所市池ノ内にありました。回りは昔ながらの小さな集落です。
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鳥居を潜って境内に入ると 閑散としていました。建物は拝殿らしきものがポツンと立っています。
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拝殿の中には入れません。鍵が掛かっています。
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本殿は近寄れないので良く見えません。
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拝殿のガラス越しに見ると 出雲式の竪削ぎ千木に 妻入りのお社だと分かります。
しかし説明の看板もなにもありませんでした。
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境内には なんか謂れのありそうな井戸のような会所枡のようなものが網で囲ってありましたがこれも説明看板はありませんでした。
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葛城地方の神社を訪ねてその2へ続く
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今回は 金剛山塊東側の御所市を尋ねました。御所市とその北側の葛城市をあわせた
葛城地方へ、出雲王家の皇子達が移住して 葛城地方の開発を行いました。
紀元前三世紀末に 石見の国「五十猛海岸」に大勢の海童(青年男女)や
技術者を引き連れて上陸した 秦国人徐福は 事前に部下の穂日(今の出雲大社
宮司の祖先)を出雲王国に遣わして 上陸の許可を取り付けていました。
しかしその上陸後 徐福や穂日は 海童達と共に出雲で大暴れして 第八代主王(役職名は大名持ち)
の八千矛と副王(役職名は少彦)の八重波津身を相次いで幽閉殺害します。
※殺害場所の 猪目洞窟と志都の岩屋訪問記は当ブログ「古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて」
の2013年3月18日の記事に載せています。
出雲王国は大打撃を受けますが、幽閉殺害された八重波津身(記紀では事代主)と鳥耳姫との皇子
鳥鳴海が第9代大名持ちとして即位します。古代出雲王国では 西王家神門臣家と東王家向家とが
交互に主王と副王を立てていました。
八千矛王(記紀では大国主)と宗像三姉妹の真ん中の多岐津姫との皇子、味鋤高彦や、八重波津身と
摂津三島の活玉依り姫との皇子、奇日方たちは 出雲族を引き連れて葛城へ移住します。
今回の葛城地方の神社訪問は 出雲族の建てた大和葛城地域の神社訪問記です。
出雲族の葛城移住に付いては もう少し詳しく「その2」で述べます。
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今回の訪問神社の地図です。
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下照姫について
まず下照姫が祀られている長柄神社と大倉姫神社へ行きます。
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出雲王家の系図と下照姫の位置関係です。
下照姫は 殺された大国主と八上姫との間の皇女です。
矢上姫は因幡の国から 大国主へ嫁がれて今の出雲市斐川町 直江 御井神社あたりに宮殿があったといわれています。
また神社の近くに「生井(いくい)」、「福井(さくい)」、「綱長井(つながい)」と呼ばれる3つの井戸があり、
八上比売が出産の時に産湯を使ったという伝承があります。
元来この3つの井戸に対する信仰が神社に発展したものとも考えられています。
斐川町 直江の少し東、斐川町学頭に 湯の川温泉があり、八上姫が浸かったといわれ美人の湯と呼ばれています。
温泉街の中にも 八上姫神社があります。
大国主の死が出雲族の葛城移住のきっかけとなったので 王の娘の下照姫が あちこちに祀られたのでしょう。
比売許曽神社 大阪市東成区東小橋 売豆紀神社、売布神社(いずれも松江市)、倭文神社(鳥取)
乙見神社(出雲市)、下照姫神社(福岡市博多区祇園) などなどです。
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名柄集落の中を進みます。名柄地区は出雲式銅鐸が発掘された場所でも有名です。
名柄は 金剛山と大和葛城山の間の水越峠を大和平野へ下りた直ぐの所です。
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集落の外れの森が 神社です。
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こじんまりとした神社でした。
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鳥居を潜り境内に進みます。正面が拝殿です。
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拝殿の奥が 本殿ですが、拝殿からは見えません。
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神社の由緒書きですが、正面には立てないので横からしか写せません。
長江(長く続く金剛葛城の尾根)が長柄(急斜面の下の扇状地)になり、「ナガラ」になり、名柄の地名になった
と書いてあります。
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本殿ですが良く見えません。大社造に似せてあります。千木は出雲式の竪削ぎで、妻入りですが柱は9本なのか
4本なのか良く見えません。妻側へ入る階の上の屋根はありますが屋根の形が大社造りとは違います。
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境内には末社がありますが 表示が何も無く誰を祭っているのか分かりませんでした。
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長柄神社は名柄公民館のまん前にありました。
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大倉姫神社
奈良県内の神社を調べていると 「下照姫は別名を大倉姫という」というのが散見されます。
記紀では下照姫を木股比売と言っているので 大倉姫というのは初めて聞きましたが 場所を
調べてみると 比較的近くにあるので バイクで行ってみました。
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近鉄電車吉野線吉野口駅の直ぐ近くでした。
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小さなお社です。
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線路脇の小さな神社で 謂れの説明も看板も何も無く 主祭神 のヒントになるものはありませんでした。
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市杵島姫神社
最初に揚げた出雲王家の系図を見ていただくとお分かりですが 市杵島姫は大和朝廷成立に大きなウエートを
占めています。徐福が 最初に来日して出雲王家の高照姫との間の長男「五十猛」と 二度目の来日で九州の
宗像家(出雲王家の分家)の宗像三姉妹の末娘 市杵島姫との間の 穂屋姫との間の 天の村雲が初代大和大王になり、
市杵島姫の生んだ徐福の次男 穂穂出見こそ九州物部家の祖であります。
物部家の第一次東征で 物部の稲飯と三毛入が 登美家当主、加茂建津之身(物部家からはヤタガラスと感謝された)
の導きで大和入りするも 出雲王家の大和分家の磯城家に飲み込まれてしまいます。
二度目の東征で大和入りした 物部イクメが名実共に大和の大王となりますが 物部王家は3代で消えます。
(イクメー垂仁、オシロワケー景行、ワカタラシー成務 の三代)
つまり市杵島姫は 初代大王の天の村雲にとり、祖母であると同時に 物部イクメ大王の祖先でもあるので
出雲族にも祀られますが それよりも秦族からの支持が多いのです。京都の松尾大社、祇園の八坂神社の主祭神 は
徐福と同時に市杵島姫です。
長柄神社の直ぐ近くに地図で見つけた 市杵島姫神社を訪ねました。
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御所市池ノ内にありました。回りは昔ながらの小さな集落です。
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鳥居を潜って境内に入ると 閑散としていました。建物は拝殿らしきものがポツンと立っています。
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拝殿の中には入れません。鍵が掛かっています。
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本殿は近寄れないので良く見えません。
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拝殿のガラス越しに見ると 出雲式の竪削ぎ千木に 妻入りのお社だと分かります。
しかし説明の看板もなにもありませんでした。
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境内には なんか謂れのありそうな井戸のような会所枡のようなものが網で囲ってありましたがこれも説明看板はありませんでした。
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葛城地方の神社を訪ねてその2へ続く
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