アウトドアライフの記録

四季それぞれに あちこちの山に登ったり、桜や紅葉の写真、および南の島の記録を写真とともに整理して、ブログにまとめました。

古代出雲王朝と神話ゆかりの地を尋ねて その21京都八坂神社

2014-03-27 09:38:27 | 歴史遺産を訪ね歩く
古代出雲王朝とゆかりの地を尋ねて

その21.京都八坂神社にあの出雲王家の血を引く宗像三姉妹が祀られていた 2014年2月2日

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祇園祭りで有名な「京都八坂神社」は「八坂さん」と呼ばれて 観光名所で有名だ。

その主祭神 は記紀に「素戔嗚すさのお」と書かれた、つまり秦国人徐福である。

しかもご丁寧に 神仏混合で 素戔嗚の背持仏とされた朝鮮半島の牛頭天皇

(ごずてんのう)まで祀ってある。

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菅之八耳で始まる古代出雲王朝は 主王と副王の二人の王により、治められていた。しかし紀元前2世紀末、第八代主王八千矛(やちほこ記紀では大国主)、副王八重波津身(やえなみつみ)の時代に 秦国から二度にわたり大量の少年少女(海童)たちをひきつれてやってきた 徐福(記紀では素戔嗚すさのお)たちにほぼ同時に拉致され餓死させられて、大きな打撃を受けた。

徐福の子孫たちにより、大和で幾たびか 王朝が入れ替わり今に続く大和朝廷が成立した。

また第六代主王臣津野(おみつぬ)の皇子 吾田片隅(あたかたす)の九州移住により、宗像家が始まりひの三人の娘姫たちが、田心姫(たごりひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)、多岐津姫(たぎつひめ)の「宗像三姉妹」である。

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その八坂さんの裏手に 宗像三姉妹が祀ってあったのでびっくりした。

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祇園祭は八坂さんの主な祭りで、約一月間続く。御池通りを行く山矛巡行の先頭

は薙刀矛。         ※2011年7月17日の写真

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お稚児さんが先頭を行く。

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カラフルなタペストリーを飾った山や矛が続く。タペストリーは数百年たつものもあるという。

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新町通りをはじめ 京都中心部の路地や大通りは矛の組み立て場となり、出店も多く 観光客が溢れている。

この祇園祭の山矛巡行は梅雨末期で雨の日や曇り空が多いが、この写真は2011年7月17日の晴れの日の写真である。

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2014年2月2日の節分行事の八坂さんに 毎年のように沢山の観光客が訪れた。

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境内の舞殿では踊りの奉納を見ようと沢山の観光客が待っている。

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神社本殿にはもちろん素戔嗚が祀られている。 境内の裏手にも素戔嗚の「荒御霊あらみたま」が祀られているが 訪れる人はほとんどいない。

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その横に「美御前社(うつくしごぜんしゃ)」があり、宗像三姉妹が祀られている。

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ここは「美の神様」という売りになっていて、若い女性や舞妓さんたちに人気があるらしく、次から次へと女性たちがお参りしている。人が多くてなかなか写真を撮れないくらいだ。

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人の流れが途絶えた瞬間だ。この直前までマナーの悪い支那人どもの観光客が大勢でしかも大声でわめきながらこの神社を占領していた。

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宗像三姉妹について

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古代出雲王朝第六代主王(役職名は大名持おおなもち)の臣津野

(おみつぬ)には 二人の皇子がいた。

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一人は「佐和気」でこの方から西出雲王家の神門臣家(かんどおみけ)が始まる。
もう一人が「吾田片隅(あたかたす)」でこの方が九州に移住して宗像家を造った。

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北九州で宗像家をはじめた吾田片隅には三人の姫がいて 「田心姫(たごりひめ)」、「市杵島姫(いちきしまひめ)」、そして「多岐津姫(たぎつひめ)」である。

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田心姫は出雲王家第七代主王の「天の冬衣」に嫁がれて、皇子の
八重波津身(やえなみつみ)ー「後の第八代副王(役職名は少彦)となる方で
記紀では 言代主(ことしろぬし)と書かれた」と 姫の「高照姫」を生まれた。

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秦の始皇帝の命で 和国に不老不死の薬を求めてやってきた秦国人の
徐福は記紀ではスサノオと書かれた。彼は石見(島根県西部)の五十猛
海岸に上陸して、「火明(ほあかり)」と名乗る。

そして出雲王家の「高照姫」と結婚し 長男「五十猛」(いそたけ)をもうける。
五十猛は丹波に移住しその息子「天の村雲」が大和へ移住し初代大和大王となる。

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また一度 秦国へ帰国した徐福は、秦の始皇帝から追加の資金と多数の
技術者、青年男女(海童と呼ばれる)をもらい、今度は筑後平野に上陸し
饒速日(にぎはやひ)」と名乗る。

そして宗像三姉妹の市杵島姫と結婚し、穂穂出見(ほほでみ)をもうけ、穂穂出見が
九州物部家を起こすのである。物部家の子孫たちは二度にわたり大和へ移住し
幾度か入れ替わるものの最終的に今の大和朝廷が成立した。

※記紀では百年以上経た二度にわたる大和への移動を架空の大王を作り上げて
「神武天皇東征」と一度に縮めて表記した。

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多岐津姫は 出雲王家第八代主王の八千矛(記紀では大国主と書かれた)
に嫁ぎ、皇子の「味鋤高彦」を生まれた。

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つまり徐福(スサノオ)は、宗像三姉妹のうち、長女の田心姫の生んだ
高照姫と結婚して 長男の五十猛をもうけ、次女の市杵島姫と結婚し
次男の 穂穂出見をもうけるのである。

しかも 長男の五十猛は 多岐津姫の孫の大屋姫と結婚し「高倉下
(たかくらじ)」をつくるのだから、徐福は宗像三姉妹のお三方とも
関係するのである。

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ということで、宗像三姉妹は 徐福(スサノオ)の娘では決してないのである。
また安芸の厳島神社の主祭神である三柱の女神「宗像三姉妹」は、いずれも出雲王朝
第六代大名持(主王)臣津野の孫娘なのである。古代出雲王朝の地を政党に引き継ぐ
姫君たちであり、けっして秦国からの渡来人、支那人後など引いていないのである。

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市杵島姫は二度目に来日した 徐福(二度目の来日では和名を饒速日にぎはやひー
記紀ではスサノオ)に嫁ぎ、生んだ穂穂出見が物部家を創り、その後の大和政権
の元となったのである。結果的に徐福は、出雲王朝の血統を利用しながら、大和の
大王になるのだ。
また市杵島姫(いちきしま)から いつくしま(厳島)の
名前が出来たという。

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※斎木雲州著 大元出版 「出雲と大和のあけぼの」、「古事記の編集室」、「出雲と蘇我王

国」、「御伽噺とそのモデル」そのほかを参考にした。

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