忙しい時期だというのに・・・。
先日、教育基本法改定(改悪)について、参議院で通過したあとのTVで、伊吹文科大臣の非常にいやらし答え方をみることができたインタビューと、賛成意見のコメントと、反対意見のコメントを観ることができた。
伊吹は教育に関して「不当な介入」があってはならないとし、具体例として、「特定のイデオロギー」を強調していた。
かれの論法では、「だから正当に選挙された国会が主導で教育の方針が決められるべき」ということであった。
スマートに言ったつもりなのだろうか?しかし、これは問題をはらんでいる。
地域を無視し、当事者の願いを無視し、教育は国権で行うということを言っている。
つまり、教育は、現在であれば、自民党やカルト集団の公明党のイデオロギーを受けるということになる。
選挙で選ばれたイデオロギーならば全て正当であるかのような暴論である。
なぜ、教育は政治的な独立をもって存在する必要があったのか。
その歴史的な見地を伊吹は持ち合わせていない危険人物であるということだ。
同時に、今回の06教育基本法は、「愛国心」を道徳的な立場からも導入するべきであるかのような主張をもって組み入れた。
このことは大変危険で、国権による愛国心の強制を可能にしたということだ。
これをもって歴史を振り返るとき、昭和初期のような、大きな日本の失敗を想起せずにおけないわけはない。
日本は、今回、ろくに論議もせずに歴史的な過ちを犯したのだ。
期しくも防衛省法案も同時に可決されたことには、21世紀型軍国主義への跳ね橋が降りたような想いがする。
私は君が代は決して歌わない。
さて、本題にいこう。
伊吹インタビューと同時に、反対コメントを述べていたのが、元中教審委員の苅谷剛彦だ。
まだ読みかけだが、おおよそ内容が見えてきたので今回記事にする。
本書を読み始めて、一時は教育改革の急先鋒を務めるかに思えたのだが、さっさと研究にもどっていたのか・・・という印象を思ってしまった。
増田は教育ジャーナリストだということだ。総合的な学習の時間に関して賛意を示し、苅谷と議論もした仲のようだ。
時事的に面白いのは「英語教育」が矢面だからだ。
苅谷「英語教育導入反対」Vs増田「英語教育導入に感情的に理解」といったおもむきだ。
まあ、はっきりいって苅谷の独壇場。増田は勝てない。
「英語教育」なんて、全然導入される道義的な理由がないからだ。
ただ、合わせて「教育改革」の肝はなんなのか?
増田の調べによる母親中心の親の意識はどこにあるのか?
諸外国(特にフィンランド)と比べて、日本の教育の特質ではどこに注目しなければならないのか?
そういった知見は新規のものも見られると思う。
半分以上が対談形式で読みやすい。
教育の一般書として、下手な教育雑誌(最近創刊のものなんてサイテー)よりも焦点下されていてわかりやすいと思う。
読んでいて思うのは、教育問題は「学校教育」だけで解決の見通しなどたたないということ。
教師バッシング、学校バッシング、マスコミバッシング、親バッシング。
モグラたたきゲームマシンのように、たたいてもたたいても、そのマシンの下部のスイッチを切らなければモグラは必然的に出てくるのだ。
社会全体で教育に責任をとっていく。そういった方策こそ全てなのだと思う。
このブログで繰り返し言ってきた事をやはり反芻したい。
「日本の教育施策は上意下達で間違っている」
最近、私も暴力的になってきた。
以下を付け加えたい。
「今の日本には強制的な民主主義が必要だ。投票しない、政治的な立場を明らかにしない者は、その立場は自由だが、デメリットの責任を負うべきである。」
先日、教育基本法改定(改悪)について、参議院で通過したあとのTVで、伊吹文科大臣の非常にいやらし答え方をみることができたインタビューと、賛成意見のコメントと、反対意見のコメントを観ることができた。
伊吹は教育に関して「不当な介入」があってはならないとし、具体例として、「特定のイデオロギー」を強調していた。
かれの論法では、「だから正当に選挙された国会が主導で教育の方針が決められるべき」ということであった。
スマートに言ったつもりなのだろうか?しかし、これは問題をはらんでいる。
地域を無視し、当事者の願いを無視し、教育は国権で行うということを言っている。
つまり、教育は、現在であれば、自民党やカルト集団の公明党のイデオロギーを受けるということになる。
選挙で選ばれたイデオロギーならば全て正当であるかのような暴論である。
なぜ、教育は政治的な独立をもって存在する必要があったのか。
その歴史的な見地を伊吹は持ち合わせていない危険人物であるということだ。
同時に、今回の06教育基本法は、「愛国心」を道徳的な立場からも導入するべきであるかのような主張をもって組み入れた。
このことは大変危険で、国権による愛国心の強制を可能にしたということだ。
これをもって歴史を振り返るとき、昭和初期のような、大きな日本の失敗を想起せずにおけないわけはない。
日本は、今回、ろくに論議もせずに歴史的な過ちを犯したのだ。
期しくも防衛省法案も同時に可決されたことには、21世紀型軍国主義への跳ね橋が降りたような想いがする。
私は君が代は決して歌わない。
さて、本題にいこう。
伊吹インタビューと同時に、反対コメントを述べていたのが、元中教審委員の苅谷剛彦だ。
まだ読みかけだが、おおよそ内容が見えてきたので今回記事にする。
本書を読み始めて、一時は教育改革の急先鋒を務めるかに思えたのだが、さっさと研究にもどっていたのか・・・という印象を思ってしまった。
増田は教育ジャーナリストだということだ。総合的な学習の時間に関して賛意を示し、苅谷と議論もした仲のようだ。
時事的に面白いのは「英語教育」が矢面だからだ。
苅谷「英語教育導入反対」Vs増田「英語教育導入に感情的に理解」といったおもむきだ。
まあ、はっきりいって苅谷の独壇場。増田は勝てない。
「英語教育」なんて、全然導入される道義的な理由がないからだ。
ただ、合わせて「教育改革」の肝はなんなのか?
増田の調べによる母親中心の親の意識はどこにあるのか?
諸外国(特にフィンランド)と比べて、日本の教育の特質ではどこに注目しなければならないのか?
そういった知見は新規のものも見られると思う。
半分以上が対談形式で読みやすい。
教育の一般書として、下手な教育雑誌(最近創刊のものなんてサイテー)よりも焦点下されていてわかりやすいと思う。
読んでいて思うのは、教育問題は「学校教育」だけで解決の見通しなどたたないということ。
教師バッシング、学校バッシング、マスコミバッシング、親バッシング。
モグラたたきゲームマシンのように、たたいてもたたいても、そのマシンの下部のスイッチを切らなければモグラは必然的に出てくるのだ。
社会全体で教育に責任をとっていく。そういった方策こそ全てなのだと思う。
このブログで繰り返し言ってきた事をやはり反芻したい。
「日本の教育施策は上意下達で間違っている」
最近、私も暴力的になってきた。
以下を付け加えたい。
「今の日本には強制的な民主主義が必要だ。投票しない、政治的な立場を明らかにしない者は、その立場は自由だが、デメリットの責任を負うべきである。」