怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

欲ばり過ぎるニッポンの教育(講談社現代新書)苅谷剛彦、増田ユリヤ(1)

2006-12-17 09:37:17 | 教育書
忙しい時期だというのに・・・。

先日、教育基本法改定(改悪)について、参議院で通過したあとのTVで、伊吹文科大臣の非常にいやらし答え方をみることができたインタビューと、賛成意見のコメントと、反対意見のコメントを観ることができた。

伊吹は教育に関して「不当な介入」があってはならないとし、具体例として、「特定のイデオロギー」を強調していた。
かれの論法では、「だから正当に選挙された国会が主導で教育の方針が決められるべき」ということであった。
スマートに言ったつもりなのだろうか?しかし、これは問題をはらんでいる。
地域を無視し、当事者の願いを無視し、教育は国権で行うということを言っている。
つまり、教育は、現在であれば、自民党やカルト集団の公明党のイデオロギーを受けるということになる。
選挙で選ばれたイデオロギーならば全て正当であるかのような暴論である。

なぜ、教育は政治的な独立をもって存在する必要があったのか。
その歴史的な見地を伊吹は持ち合わせていない危険人物であるということだ。

同時に、今回の06教育基本法は、「愛国心」を道徳的な立場からも導入するべきであるかのような主張をもって組み入れた。
このことは大変危険で、国権による愛国心の強制を可能にしたということだ。
これをもって歴史を振り返るとき、昭和初期のような、大きな日本の失敗を想起せずにおけないわけはない。


日本は、今回、ろくに論議もせずに歴史的な過ちを犯したのだ。
期しくも防衛省法案も同時に可決されたことには、21世紀型軍国主義への跳ね橋が降りたような想いがする。
私は君が代は決して歌わない。


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さて、本題にいこう。
伊吹インタビューと同時に、反対コメントを述べていたのが、元中教審委員の苅谷剛彦だ。
まだ読みかけだが、おおよそ内容が見えてきたので今回記事にする。

本書を読み始めて、一時は教育改革の急先鋒を務めるかに思えたのだが、さっさと研究にもどっていたのか・・・という印象を思ってしまった。
増田は教育ジャーナリストだということだ。総合的な学習の時間に関して賛意を示し、苅谷と議論もした仲のようだ。

時事的に面白いのは「英語教育」が矢面だからだ。
苅谷「英語教育導入反対」Vs増田「英語教育導入に感情的に理解」といったおもむきだ。
まあ、はっきりいって苅谷の独壇場。増田は勝てない。
「英語教育」なんて、全然導入される道義的な理由がないからだ。

ただ、合わせて「教育改革」の肝はなんなのか?
増田の調べによる母親中心の親の意識はどこにあるのか?
諸外国(特にフィンランド)と比べて、日本の教育の特質ではどこに注目しなければならないのか?
そういった知見は新規のものも見られると思う。

半分以上が対談形式で読みやすい。
教育の一般書として、下手な教育雑誌(最近創刊のものなんてサイテー)よりも焦点下されていてわかりやすいと思う。

読んでいて思うのは、教育問題は「学校教育」だけで解決の見通しなどたたないということ。
教師バッシング、学校バッシング、マスコミバッシング、親バッシング。
モグラたたきゲームマシンのように、たたいてもたたいても、そのマシンの下部のスイッチを切らなければモグラは必然的に出てくるのだ。
社会全体で教育に責任をとっていく。そういった方策こそ全てなのだと思う。


このブログで繰り返し言ってきた事をやはり反芻したい。
「日本の教育施策は上意下達で間違っている」

最近、私も暴力的になってきた。
以下を付け加えたい。
「今の日本には強制的な民主主義が必要だ。投票しない、政治的な立場を明らかにしない者は、その立場は自由だが、デメリットの責任を負うべきである。」

英語教育導入に反対する

2006-12-15 20:04:08 | 教育
1.小学校で導入する積極的な動機が(調査されてい)ない。
 まずは(本当に問題であれば)中学・高校のカリキュラムの建て直しが先のはず。

(中学・高校では、指導要領上、授業の指導は英語でやるはず。が、それは数%しか実現されていない。未履修問題に匹敵する課題があるのだ。)

2.英語教育の目的もその範囲も規定があいまいで、世間的に誤解されている。
 時期尚早である。

(英会話なのか、国際理解なのか、中学校への導入なのか、または・・・。)

3.小学校に免許もろくな実践例もなく、導入するのは達成度が低い危険がある。
 第一、優れた指導のできる教諭もネイティブも不足し、すでに粗悪である。対策もとられず予算もない。

(これは、同様に荒れる情報教育の流れに酷似する。)

4.小学校のカリキュラムでは、いわゆる「ゆとり教育」以後、すべての教科で時数不足、量の不足がうったえられている。
 限度無く足し算的に教育施策を降ろしてきて、責任の所在も不明瞭である上、必要な「施策の引き算」を怠ってきたため、英語教育の入る隙間はほとんどない。
 他教科、領域を差し置いて導入する道義的理由はない。

(理科などは顕著である。生活科導入と3割削減で、内容が半減した教科である。科学技術立国はいまや幻である。)

主に、以上の点で小学校への英語教育導入に反対する。
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歌のうまい子になる超簡単ボイストレーニング(PHP研究所)弓場徹2005.11

2006-12-14 18:13:40 | 教育書
「CDをまねるだけ!」という副題がついていました。

宣伝文句に引かれて、低学年の私のクラスで単純に取り入れました。
実践の事後談をメモしておきます。

私の学校は、低学年は担任が音楽を受け持っています。(こういうところ多いか・・・)
だから、音楽の授業で、歌に入る前の声だし・発声練習のつもりで行いました。

因に、著者はその道では割と有名な弓場徹という方。
無理な発声や信用の無い指導内容ではなく、安心して購入し、実践へ導入できました。

本書示すメソッドは、ユニークで活動的。
しかし、簡潔でしっかりと教材化できており、とても取り組みやすいものでした。

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絵本に合わせてキャラクターの決まった発声パタンをこなしていきます。
キャラクターの様子がほがらかで、楽しく集中できます。
子どもたちの表情は「にこにこ顔」で、ページが進むにつれ引き込まれるようでした。

果たして、半年。
その成果は私的には納得のいくものです。

「yo先生は声が大きいから、みんな声が大きいんだよ。」
そんな子どもからの声がありますが、私はこの発声トレーニングの効果だと信じています。

私は合唱や演劇を一時期やっていたので、発声練習の大切さは実感をもってわかっています。
このボイストレーニングメソッドは、無理無く声の帯域を押し広げる効果を期待できるものです。
子どもは意欲にはずみがつくと、自然と大きな声の発声ができるようになるものなのだと思います。
私のクラスは声がいい。大きくて、帯域が広くて、明るい歌声が出ます。

なんか本の宣伝みたいになってきたけれども、トレーニング的に用いる教材としてはとても有益だと思います。
もちろん、これだけで音楽の学習・授業を完結することは不可能です。
クラブやその他にも使えるものなので(私は自分の子どもからやってみようと思った)、だれにもおすすめです。

(注意)大人用は別な本があるようです。

署名のお願い

2006-12-10 22:28:17 | 教育
「(アピール)公述人・参考人として教育基本法案の徹底審議を求めます」への市民緊急賛同署名

ネット時代の署名です。
みなさん、不肖私「yo」からもご協力をお願いいたします。
教育基本法改定に道理が無い事、民主主義の手続きがおかしい審議で進んでいる事に対して、疑念や反対の声を集めてください。

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追記:すごい。この記事を書いたとき(昨日)、4000件くらいだったのに、今日、九時半で9000件を越え、2、3分に10人ずつ増えている。(この時間だからかもしれないが)
ぜひ、ここを見に来た人は署名だけでなく、自分のブログやSNSの日記などにリンクを記してほしい。

最終追記:最終的に13日の10時ころ終了したようだ。2万に届かなかったがいい数字がでた。ネットで数日でこれだけの署名があつまるのだから反対の声は大きいことを実感した。今日、14日に、参議院採決がある見こみの報道がなされている。なげかわしいことだ。暴力に真実を求める意気地のない右翼どもが思う壺だ。
弱き門がまたひとつ壊された。残る門の扉は薄い。
憲法が強き門であることを祈りながら、気の狂った右風をよける姿勢をとりたい。
まだ良識のあるものがこの署名でもいることがわかったから、大丈夫だ。

小学校の英語授業(NHK教育「わくわく授業」より)

2006-12-10 19:52:05 | 教育
とても誠実な先生による英語の授業。
三角形や円、方形の単語を印象づけながら、先生のヒント主導のタングラムに子どもたちを挑戦させる。
子どもたちに意味を「推理」させることを念頭に英語を用いた活動に引き込んで行く。

これでいいのか?
その課題に対する答えが巧みに避けられた実践だった。


また、子どもたちの笑顔が少ない。
活動的なのは先生の方だ。
いや、英語の授業ではなく、英語による特別活動を目指すのならばまだわかる。
英語という言語に効果的に近づける授業ではない。

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同じ実践を中学校で行っていれば、時間は半分で数倍の単語を用いる事ができ、巧みな話形を導入する事も可能だったはず。
「読む」「書く」という言語の自然な発想にのって進められる部分に向かえたはず。
小学校英語は中学校とのカリキュラムの兼ね合いで「話す・聞く」は承認されていても、「書く」「読む」で進めることが許されていない。(不文律ではあるが、実質効力をもっている話だ。)

これでいいのか?
この先生は専門が国語の先生だとか。
たくさんの英語の絵本を教材化したいと語っている。
それは国語的に用いたいのであれば無理だ。

やっぱり英語ゲームで終わるのか。
そんな時数消化のゲーム(消化試合)で他の大切な時数が奪われて行くことに、だれも懐疑や怒りの声をあげないのか?


所詮、英語教育もいわゆる「ゆるみ」に例えられる部分の「ゆとり教育」の世界のものなのか?

真に英語を小学校レベルで導入されるには、やはり政治レベルの影響を排して行くしかない。
まずは反対の声をあげるものの声を聞け。

(注釈)政治レベルの影響を排する:具体的には「文科省(もちろん政治家はダメ)や中教審などの恣意的施策のストップ」と、「現場教員の出世、管理職権力の部分を排すること」の二つ。

どこへ行った?中教審

2006-12-09 10:08:30 | 教育
再生会議が集中討議続行 今月中旬に総会開催へ(共同通信) - goo ニュース
2006年12月9日(土)09:17

(記事全文以下)
>政府の教育再生会議(座長・野依良治理化学研究所理事長)は9日午前、都内のホテルで、来年1月の第1次報告取りまとめに向けた2日目の集中討議を行った。
>合宿形式の討議の成果を踏まえ、今月中旬の総会で第1次報告の概要を固める構えだ。

>9日朝からは「教育再生」全般を担当する第三分科会が本格論議を開始。
>教育改革の方向、大学への9月入学の是非、大学・大学院の国際競争力強化などが主なテーマ。


>また教育再生を通じて生み出す人材像については、
>(1)自国に誇りを持つ人
>(2)夢実現へ努力する人
>(3)教養、品格、倫理観、知見・技術を持ち指導力のある人-などが検討される。

(引用ここまで)

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中教審との齟齬がすでににじんでいる。
もちろん中教審が何かすばらしい成果を残したとは肯定しない。
どちらも現場無視、政治思想に毒された部分を抱えている。
とにかく(1)が問題。
教育基本法改定以前にこういった動きをするのは現行教育基本法の精神から明らかにはずれる。
こんな議論進行をプロデュースする人間の問題だが、これは中教審とかぶっているのではないか?
だれか教えて欲しい。

金融教育

2006-12-07 22:53:05 | 教育
はあ、そうですか。
そんなもの続けられる見通しがあるのでしょうか?
なんか不思議な気持ちで母校のプロジェクトへ参加申込みを終了した。
その名は「金融教育」。

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必然性も学術性、その系統性も見いだせない動機の無い領域。
なんかいいことあるのかいな?

そういう私も動機が無い。
いいのかい!それで!(自問自答)
笑ってくんなまし。

教育施策のすきまスイッチオフ

2006-12-04 02:44:50 | 戯言
「生活科」や「総合的な学習の時間」なのが現場を騒がしたのがなつかしいと思えるほど新しい施策が次々と降ってきます。

「民間並みに!」とか「24時間公務員!」などといわれ、人のいい教員たちは激務をこなす事に疲れ果てています。

この10余年の間に、「生活科導入」「支援型教育」「総合的な学習の時間」「情報・環境・福祉・国際理解」「少人数習熟度別指導」「英語教育」「特別支援教育」「公立の中高一貫」「公立の小中一貫」「学校選択制」「進む統廃合」「予算削減」などなど。

上意下達で、現場は苦しみのたうちながらも教育施策の過剰な足し算を行ってきました。

根拠と見通しのない「ゆとり」というキーワードで、時数分母の縮減、カリキュラム内容削減も行われました。
ずです。

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ネットである人がいっていました。
1+1=2が成り立たないのが教育なのだと。
言い得て妙です。

教育施策を足し算していっても、それは単純な足し算にならない。
なぜならば、教育はキャパシティを越えた量を扱えないからです。

教育の質の向上が叫ばれていますが、日本の教育や教員が世界レベルから劣っているという数値も評価もほとんど聞いた事がありません。
(どちらかというと、外国からの視察で驚かれる事の方が多いのではないでしょうか?)

妻がTVで保護者アンケートの結果を見て首をひねっていました。
「英語教育の導入」約7割が賛成。
本当にそれでいいのか?と。
私の様子を見てそう感じたのだそうです。

現行のカリキュラムに英語をプラスするのは非常な困難を伴うのです。
何かを犠牲にせずに「英語教育」は導入できません。
ただでさえも他の施策が目白押しなのは前記の通りです。

文科省はここに来て、「ゆとり」は方向転換をすると言ってきました。
首謀者だった人はすでにいません。
誰も責任を取らないのも頭にきますが、過去10年にどのような評価を下すのか、その見通しも責任も曖昧です。

否、そんな野暮なことにはならないのがお役所主義の粋なのでしょう。(揶揄です)

教育のゆとり云々なんて話ではなく、教育の「すきま」を大事にする粋をもってほしいところです。
すきまを埋めて行くだけの教育施策はすでに破綻しています。
生活科を見てご覧なさい。
情報教育を見てご覧なさい。
他にも例を挙げればきりがないです。
真面目な教員だけが悲鳴をあげて、政治的な干渉につぶされていくのではないでしょうか。

どうも悲観的ですね。

私は「英語導入」自体に悲観はしません。
そうではなく、その導入の恣意性。手続きの不足に不満をまずもつのです。
また、そこへの理解、サポートを求めるのです。

でも、そんなことを考えたり、思い悩んだりするのはばからしくなります。
だって、現実問題できないものをちゃんとやることはできないのですから。
世界史の未履修問題もそうですが、現実に対応する側がもう投げ出しかけているのです。

これも悲観的な見方ですね。

明るく閉めておきます。
私は、目の前の子どもを見つめ、笑顔を返しながら、一歩一歩手探りでも、そうやって進んで行く教育が好きです。

ひどい事件(ネットに写真)

2006-12-04 00:11:40 | 教育
ネットに事故死児童の写真 遺族が4日に小学教諭告訴(共同通信) - goo ニュース

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(全文引用=一部の伏せ字などは自主規制したもの)
ネットに事故死児童の写真 遺族が4日に小学教諭告訴:2006年12月3日(日)23:39

>交通事故死した東京都S区の小学2年H君=当時(8つ)=ら子ども6人の写真がインターネットのホームページに無断掲載された上、遺族の感情を逆なでするようなコメントが書き込まれていたことが3日、遺族側の調査で分かった。
>遺族は4日、侮辱容疑などでホームページを制作、運営していた都内の公立小の30代男性教諭を警視庁に告訴する方針。
>一方、愛知県警生活経済課などは3日までに、別の事故で子どもを失った親が作成したホームページから、写真などを自分のホームページに無断転載したとして、著作権法違反の疑いでこの男性教諭を書類送検した。
>H君の遺族によると、問題のホームページは「××××××」というタイトルで、男性教諭は遺族が事故の悲惨さを伝えるために開設したホームページなどから、子どもの写真を入手したとみられる。死亡した際の状況などを配慮のない表現でコメントしていたという。


酷い話だ。
詳しいタイトルを書くこともできない。

「教員が」という以前に「人間」としてどうなのか?
子どもの、そんな写真を不当にさらすなんて・・・。
想像するに嫌悪するのみだ。

子どもをもつ親として思う。
こんな人にまともな社会生活を与えてはならない。
犯罪者として処分されてほしい。

話は本来別だが、リンクさせて杞憂を一つ。
こういった事件が元で、教員である人の意見表明がネット上で規制されるようになったならば、このブログもおしまいだ。

逆風にならないことを祈る。

ジャンクな文章(大好きなアシモフ先生)その1

2006-12-03 01:49:38 | 戯言
アシモフ器官を思い出した。
(「器官」の文字は自信がない。 )

昨日のNHKの「課外授業」シリーズで、パワードスーツのようなロボットを開発した学者が(ひどいな、名前を調べようとも思っていない)の授業を観て、独り、盛り上がっていた。
カミさんは「また一人でしゃべっている」と適当に聞き流していたが、私の頭はタイムスリップしてアドレナリンが出まくっていた。

小学校時代、図書室に行けば推理小説かSF小説ばかりだった。
アシモフの作品は図書室のものを全部読んだかもしれない。
著者名検索をした初めての外国人はアシモフかウェルズあたりのはずだ。

1チャンネルのその授業を見ていて思い出したのだ。
「アイザック・アシモフ」

そのアシモフ小説に出て来る「ロボット三原則」は、その作家なりのアシモフへのオマージュなのか、なんなのか・・・。
つまり三原則は「ロボットが出て来る小説」などに多く登場することになる、ロボットの基本的初期バイアスなのだ。

星新一にも三原則ネタがあったな。
手塚治虫のアトムもそうだ。思いっきり導入されている。

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授業をする学者は、子どもたちが「ロボットが戦争や殺人などの酷いことをすることはあってはならない」というような内容の話を話すのを聞いて、思わず感激の涙を見せる。

私も子どもに涙を見せたことがある。
私は子どもにその理由をしっかり伝えることにしている。
ずっと後ににじむものもあるのだろうが、私はわからなかった者が多くいることを好まないからそうしている。

子どもたちがロボットを想像して表現、発表をする授業。
題材はユニークだが、5年生の社会科などでもやりそうな「想像して表現、発表」の流れ。
自然に流れて行く。
しかし、ここにドラマがあった。
「なんでもできるロボット」というアイデアを出したグループだ。
具体的に「なんでも」の部分をグループで話し合う内に、「なんでもというのは人を傷つけることもできる」という気づきを見せる。
これは先の涙と繋がった。
結局、彼らは「法律を教えてくれるロボット」に変更していく。

なんてピュアでイノセントな精神を授業にみることができたのだろう。
これは学者の心の鏡うつしなのだろう。

学級経営をしていて気づくのだ。
自分に似てきている子どもたちを。
鏡うつしだ。
子どもたちを変えたいと中途で想うとき、自分が変わる努力をすればよいと思う。

アトムと言えば、浦沢直樹の「プルート」の4巻がもうすぐ発売されるようだ。
1年待たないと続巻がでないところがつらい作品だが、昔の漫画は、それが当たり前だった。
耐久消費財となり下がった漫画が氾濫する中を、まだまだ芸能レベルにまでは食いとどめているの日本の作家陣の厚さ、熱さは凄い。
うずたかく積もるゴミ箱の週刊漫画雑誌の上に、キラリとした作品が残っていくのだから。
いろいろ言いたいこともあるのだが、そんな気分は横にして、プルートの4巻は楽しみだ。

SF小説を読まなくなってどのくらい経つだろう。
ホーキンスは自分の病気を知ったとき、部屋にこもってSF小説を読みふけったそうだ。

そういえば、私は小学校に所属してから理科をあまり教えていない境遇だ。
私自身が理科を楽しめなくなったらダメだよな。
そういうこともTVを観て思っていた。
理科教育出身なのだが、今の私にはサイエンスやテクノロジーが遠く感じられる。

算数の時数増?

2006-12-02 23:36:25 | 教育
最近の研究発表で元教科調査官で現大学教授の人が言っていた。
「算数は時数増で動いている。」
でも、その具体的な話は局長止まりで、情報は知っていても流せないという雰囲気なのだそうだ。

なんでそんな話になっているのか?
あるいは、なんで密室なのか?

いろいろ指導要領改定の歴史の中で、深まってきた、あるいは進化してきた部分を説明してもらった。
でも、それは文言でしかなく、研究発表時の授業と絡めて具体的ではあったが、宗教がかって聞こえた。
ましてや現場の声は存在さえしない。
壇上の遠さを見る想いで講演を聞いた。

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算数の時数の確保を、週6日に求めないのであれば、食われるのは「総合的な学習の時間」が第一候補。
時数増を夏休みの削減などとセットにすることもありそうだ。
小中一貫カリキュラムなどもあるかもしれない。

それでなくても総合的な学習の時間は「英語」で食われそうなのだから、簡単なのは1番目だろう。
「総合的な学習の時間」は年間105時間。つまりは週3コマ。
この1コマを「英語」に割いたとして、残りを2時間をそのまま残すのだろうか?
「英語」の導入時期(中学年からか高学年からか)も含めて気になる。
でも、情報はまったく流されない。
文科省の一握りの腹の中だけか・・・。