「生活科」や「総合的な学習の時間」なのが現場を騒がしたのがなつかしいと思えるほど新しい施策が次々と降ってきます。
「民間並みに!」とか「24時間公務員!」などといわれ、人のいい教員たちは激務をこなす事に疲れ果てています。
この10余年の間に、「生活科導入」「支援型教育」「総合的な学習の時間」「情報・環境・福祉・国際理解」「少人数習熟度別指導」「英語教育」「特別支援教育」「公立の中高一貫」「公立の小中一貫」「学校選択制」「進む統廃合」「予算削減」などなど。
上意下達で、現場は苦しみのたうちながらも教育施策の過剰な足し算を行ってきました。
根拠と見通しのない「ゆとり」というキーワードで、時数分母の縮減、カリキュラム内容削減も行われました。
ずです。
ネットである人がいっていました。
1+1=2が成り立たないのが教育なのだと。
言い得て妙です。
教育施策を足し算していっても、それは単純な足し算にならない。
なぜならば、教育はキャパシティを越えた量を扱えないからです。
教育の質の向上が叫ばれていますが、日本の教育や教員が世界レベルから劣っているという数値も評価もほとんど聞いた事がありません。
(どちらかというと、外国からの視察で驚かれる事の方が多いのではないでしょうか?)
妻がTVで保護者アンケートの結果を見て首をひねっていました。
「英語教育の導入」約7割が賛成。
本当にそれでいいのか?と。
私の様子を見てそう感じたのだそうです。
現行のカリキュラムに英語をプラスするのは非常な困難を伴うのです。
何かを犠牲にせずに「英語教育」は導入できません。
ただでさえも他の施策が目白押しなのは前記の通りです。
文科省はここに来て、「ゆとり」は方向転換をすると言ってきました。
首謀者だった人はすでにいません。
誰も責任を取らないのも頭にきますが、過去10年にどのような評価を下すのか、その見通しも責任も曖昧です。
否、そんな野暮なことにはならないのがお役所主義の粋なのでしょう。(揶揄です)
教育のゆとり云々なんて話ではなく、教育の「すきま」を大事にする粋をもってほしいところです。
すきまを埋めて行くだけの教育施策はすでに破綻しています。
生活科を見てご覧なさい。
情報教育を見てご覧なさい。
他にも例を挙げればきりがないです。
真面目な教員だけが悲鳴をあげて、政治的な干渉につぶされていくのではないでしょうか。
どうも悲観的ですね。
私は「英語導入」自体に悲観はしません。
そうではなく、その導入の恣意性。手続きの不足に不満をまずもつのです。
また、そこへの理解、サポートを求めるのです。
でも、そんなことを考えたり、思い悩んだりするのはばからしくなります。
だって、現実問題できないものをちゃんとやることはできないのですから。
世界史の未履修問題もそうですが、現実に対応する側がもう投げ出しかけているのです。
これも悲観的な見方ですね。
明るく閉めておきます。
私は、目の前の子どもを見つめ、笑顔を返しながら、一歩一歩手探りでも、そうやって進んで行く教育が好きです。
「民間並みに!」とか「24時間公務員!」などといわれ、人のいい教員たちは激務をこなす事に疲れ果てています。
この10余年の間に、「生活科導入」「支援型教育」「総合的な学習の時間」「情報・環境・福祉・国際理解」「少人数習熟度別指導」「英語教育」「特別支援教育」「公立の中高一貫」「公立の小中一貫」「学校選択制」「進む統廃合」「予算削減」などなど。
上意下達で、現場は苦しみのたうちながらも教育施策の過剰な足し算を行ってきました。
根拠と見通しのない「ゆとり」というキーワードで、時数分母の縮減、カリキュラム内容削減も行われました。
ずです。
ネットである人がいっていました。
1+1=2が成り立たないのが教育なのだと。
言い得て妙です。
教育施策を足し算していっても、それは単純な足し算にならない。
なぜならば、教育はキャパシティを越えた量を扱えないからです。
教育の質の向上が叫ばれていますが、日本の教育や教員が世界レベルから劣っているという数値も評価もほとんど聞いた事がありません。
(どちらかというと、外国からの視察で驚かれる事の方が多いのではないでしょうか?)
妻がTVで保護者アンケートの結果を見て首をひねっていました。
「英語教育の導入」約7割が賛成。
本当にそれでいいのか?と。
私の様子を見てそう感じたのだそうです。
現行のカリキュラムに英語をプラスするのは非常な困難を伴うのです。
何かを犠牲にせずに「英語教育」は導入できません。
ただでさえも他の施策が目白押しなのは前記の通りです。
文科省はここに来て、「ゆとり」は方向転換をすると言ってきました。
首謀者だった人はすでにいません。
誰も責任を取らないのも頭にきますが、過去10年にどのような評価を下すのか、その見通しも責任も曖昧です。
否、そんな野暮なことにはならないのがお役所主義の粋なのでしょう。(揶揄です)
教育のゆとり云々なんて話ではなく、教育の「すきま」を大事にする粋をもってほしいところです。
すきまを埋めて行くだけの教育施策はすでに破綻しています。
生活科を見てご覧なさい。
情報教育を見てご覧なさい。
他にも例を挙げればきりがないです。
真面目な教員だけが悲鳴をあげて、政治的な干渉につぶされていくのではないでしょうか。
どうも悲観的ですね。
私は「英語導入」自体に悲観はしません。
そうではなく、その導入の恣意性。手続きの不足に不満をまずもつのです。
また、そこへの理解、サポートを求めるのです。
でも、そんなことを考えたり、思い悩んだりするのはばからしくなります。
だって、現実問題できないものをちゃんとやることはできないのですから。
世界史の未履修問題もそうですが、現実に対応する側がもう投げ出しかけているのです。
これも悲観的な見方ですね。
明るく閉めておきます。
私は、目の前の子どもを見つめ、笑顔を返しながら、一歩一歩手探りでも、そうやって進んで行く教育が好きです。