後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「夏になると思い出す暑い日の玉音放送」

2024年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム
今年も8月15日が近づきます。8月にはいろいろなことを思い出します。疎開した田舎の夏。学校で聞いた玉音放送、日本が戦争に負けたこと。田畑での手伝い。蝉取り。海水浴。海辺から見た大海原の風景、崩れる大波の音。高い青空に輝く太陽。
悲惨な沖縄戦、広島と長崎の原爆投下の後で日本は敗北したのです。
私は疎開先の田舎の小学校3年生でした。校庭で玉音放送を聞きました。帰りに田圃のあぜ道を歩きながら子供心にも敗戦の悲しみを噛みしめていました。暑い日でした。太陽が田圃のあぜ道を歩いている私に容赦なく照り付けていました。
あれから月日が流れました。私の人生にもいろいろな事がありました。しかし8月が来るたびに日本の敗戦のことやいろいろな事を考えるのです。
太平洋戦争は日本民族の歴史で初めての敗北です。外国の軍隊に占領されたのも初めてです。
当時は仙台市に住んでいましたが終戦後は占領軍のアメリカ兵が沢山歩いていました。ジープが走り回っていました。
仙台にあった第二師団の広い跡地はアメリカ軍の河内キャンプになり日本人は立入禁止です。仙台市の郊外の日本軍の施設や飛行場もアメリカ軍に占領されました。仙台で焼け残った民間の立派な家々も接収されてアメリカ軍の将校の家族が住んでいます。
ずっと後になって私は大学生になりました。卒業論文の指導をしてくれたのはM教授でした。ある時、M教授の自宅に招待されました。
建築家のライトが設計した暖炉のある立派な家でした。奇跡的に焼け残ったのです。M教授が「この家もアメリカ軍に接収されました」と言ったのです。我々はアメリカ軍を非難しました。そうしたらM教授が静かに言ったのです「戦争に負けるとはそういうことなのです」と。
M教授の顔には深い悲しみがありました。南の島々で戦死した自分の学生たちのことを考えていたそうです。
私は「戦争に負けるとはそういうことなのです」という言葉を忘れません。76年たちましたが毎年8月になると必ず思い出す言葉です。夏が来ると他の事もいろいろなことを想います。
当時は夏になると必ず海水浴に行ったものです。
海水浴と云えば仙台の近くの荒浜や菖蒲田の浜でした。そして松島の向こうには野蒜海水浴場があり、遠路にもかかわらず出掛けて行ったものです。その上、塩釜からポンポン船に乗って松島湾の桂島や宮戸島の海水浴場に何度も行きました。
ポンポン船と呼ぶ理由は、焼き玉エンジンの音がポンポンというからです。その音に合わせて白い煙を船のエントツから青空へ吐き出すのです。とても長閑な風景でした。当時は戦後の貧しい時代だったので夏の娯楽と言えば海水浴しかなかったのです。
一番懐かしいのは荒浜や菖蒲田や桂島の、そして野蒜海岸や宮戸島での海水浴の時見た大海原の風景です。
海水浴場の風景写真をインターネット探しました。

1番目の写真は茅ケ崎の海水浴場の写真です。誰もいません。自分で撮ったものです。

2番目の写真は昔から有名な大磯の海水浴場です。誰もいませんが、毎年夏には人で溢れる海水浴場です。
海はさまざまな風景を見せてくれます。もう2枚の写真をお送りします。写真の出典は、https://capa.getnavi.jp/special/259436/ です。



今日は夏が来れば思い出す玉音放送のことと大海原と海辺の風景写真をご紹介いたしました。こんな海と空の光景を見ると不思議に若かった頃の元気が湧き出して来ます。なんとか残暑の夏を過ごす決心がつきます。皆様も残暑をお元気でお過ごし下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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